アイヌと自然デジタル図鑑

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アイヌ語辞典

植物編 §188 センダイハギ Thermopsis fabacea DC.

(1)raykewkina ライケウキナ [ray(死)kew(骸)kina(草)] 茎葉 ⦅白浦

(2)eranraykekina エランライケキナ [e(汝の)ran(<ram心)rayke(殺す)kina(草)] 茎葉 ⦅白浦

(3)eranraykina エランライキナ [e(汝の)ram(心)raye(殺す)kina(草)] 茎葉 ⦅白浦

(4)iranraykekina イランライケキナ [i(我らの)ram(心)rayke(殺す)kina(草)] 茎葉 ⦅真岡
(参考1)この茎葉は、ひろく悪魔祓いに用いたという(白浦)。おそらく、その際、真岡でするように、
  e-ramu  お前の心
  an-rayke 殺したぞ
という呪文を唱えたと思われる(§74、イケマの条、参照)。(2)以下の名称はそこから生じたのであろう。(1)の名も、おそらく、その上略形raykekinaが民衆語源解によって raykew-kina(死骸・草)になったものと思われる。
 真岡では、pakakarape“気の狂った者”に、この茎葉をtakusa“手草”にして、
  e-ramu  汝の心を
  an-rayke 殺したぞ
と唱えながら、その体をepiru“祓い清め”した。

(参考2)お前の心を殺したぞと言われると、“魔というものは言われた通り信じるものだ”から、本当に自分の心が殺されたと思って、すごすごと去るものだという。では、その心を殺すということは、具体的に言ってどんなことであるか。心はもと心臓だった。だから、心を殺すということは心臓を殺すことであり、心が死ぬということは心臓が死ぬことである。もっと具体的に言えば、心臓の紐がきれて動かなくなることをいう。そのことを、アイヌの生命観の一端を知るために、ここで少し説明しておこうと思う。
 “霊魂”あるいは“生命”のことを、アイヌは「ラマッ」ram-atという。ramは“心”、atは“紐”だ。そのramは今はもっぱら“心”の意味にのみ用いられるが、もとは“心臓”をも意味したらしい。心臓は今はもっぱら「サンペ」sampeという語で表されている。
 “心臓がどきどきする”ということを言い表すには、次のいずれを取ってもいい。
  sampe-toktokse  〔心臓が・ドキドキする〕
  ram(-u)-toktokse  〔ラムが、ドキドキする〕
 この場合の「ラム」は明らかに心臓の意味である。このようにsampe=ram(-u)の例は、他にいくらでも見出される。
 ところで、その心臓は、アイヌの考えによれば紐でぶら下がっているものとされ、それを「サンペ・アッ」sampe-at“心臓の紐”と名づけている。心臓は、普段は、この紐からぶら下がって落ち着いている。それで“心が落ち着いている”“心穏やかである”“のんびりしている”ということを次のように言い表す。
  sampe-ratci  〔心臓が・垂れている〕
  ram(-u)-ratci  〔ラムが・垂れている〕
  ram(-u)-ratki  〔ラムが・垂れている〕
 ここでも「ラム」は明らかに心臓の意味である。このぶら下がっている心臓は、何か事が起こると、俄然動揺し跳躍する。それで“胸騒ぎする”ことを次のように言うのである。
  sampe-terke-terke  〔心臓が・跳ね・跳ねする〕
  sampe-horipiripi   〔心臓が・躍り・躍りする〕
 しかし、それもしばし、やがて事が鎮まれば、心臓はまた元通り垂れ下がる。それで“怒りが鎮まる”“驚きが鎮まる”ことを次のように言うのである。
  sampe-horarayse  〔心臓が・下方に落ち着く〕
  ramu-horarayse   〔心臓が・下方に落ち着く〕
 心臓の紐は伸びたり縮んだりする。心臓の紐が伸びている時は、あるいは伸びている人は、のんびりしているが、それが縮んでいる時、あるいは縮んでいる人は、気が荒く短気である。それで次のような表現が生まれる。
  sampe-takne  〔心臓が・短い〕
  ramu-takne   〔同上〕
  sampe-tahkon 〔同上〕⦅樺太⦆
  ramu-tahkon  〔同上〕⦅樺太⦆
 以上いずれも“気が短い”“短気だ”ということである。反対に“気が長い”“のんき”だということは次のように言い表す。
  sampe-tanne  〔心臓が・長い〕
  ramu-tanne  〔心臓が・長い〕
 “気が晴れ晴れする”“いい気持ちだ”ということを次のように言う。
  sampe-situri  〔心臓が・伸びている〕
 心臓は愛情の座である。肉親が邂逅した時に、思わず抱き合って“弟か?”“兄さんえ?”と呼び合う。それをアイヌの詞曲では、
  akpo! sampe  〔弟よ! 心臓よ!〕
  yupo! sampe  〔兄よ! 心臓よ!〕
と言うのである。愛するものにハートと呼びかけるのである。
 可愛がることを
  sampe-etok a-omare 〔心臓の・先(紐の所)・に入れる〕
と言うが、また
  sampe-at tom hese-at tom a-e-kote 〔心臓の・紐の・真中・息つく・紐の・真中・に結びつける〕
のようにも言う。意味する所は同じである。「小伝西浦の神」(金田一京助、アイヌの神典、p.186)に、これを“つく息をも私の為に折半し、心臓をも私の為に折半する”と訳し、なおそれに敷衍して“たんと可愛がる意、あまり可愛がって息をつくのも十分つけない程、心臓もその為めに半分減ってしまう程”と注しておられるのは誤解である。
 あんまりびっくりすると、心臓が急に跳ねるので紐がきれる。この紐がきれると人は死ぬのである。玉の緒が絶えるというわけだ。
  sampe-tuy  〔心臓が・きれ落ちる〕
  ramu-tuy   〔心臓が・きれ落ちる〕
 以上いずれも“びっくりして死ぬ”“心臓麻痺を起こして急死する”の意である。
 アイヌの説話に、犬が主人を殺そうとして、陰でその心臓の紐をかじりかじりする話がある。それがきれると死ぬということから考えても、“魂”“命”を意味するramat、すなわちram-atは、本源的にはこのsampe-at“心臓の紐”――解剖学的に言えば大動脈始部――のことであったにちがいない。
 なお、英雄詞曲の中で、驚いたことを表すのによく
  si-etu-uyna  〔自分の・鼻を・つかみ〕
  si-par-uyna  〔自分の・口を・つかむ〕
という常套句を用いる。『虎杖丸の曲』(p.424)にもそれが出ていて、金田一博士の脚注に“握った手を鼻と口へかけて、その上へ押し当てるのが、アイヌの驚嘆の身振りである”とある。では、なぜそんなことをするのか。驚いた拍子に心臓の紐がきれて、心臓が体外へ飛び出す。鼻の穴と口の穴に手を当てるのは、その出口をふさぐ挙動に他ならなかったと考えられる。

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