ヘッダーメニューここまで

ここからメインメニュー

  • 自然図鑑
  • アイヌ語辞典
  • アイヌの伝承
  • 物語や歌
  • 絵本と朗読
  • 語り部
  • スタッフ

メインメニューここまで

サイト内共通メニューここまで

ここから本文です。

月刊シロロ

月刊シロロ  2月号(2016.2)

 

 

 

《シンリッウレシパ11》アイヌの精神文化 ラマッ⑵

 

 文・イラスト:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

1.はじめに―ラマッは精神活動を担う―


 前回は動物と植物それぞれのラマッ(霊魂)のあり方を紹介しました。ところで、霊魂というと生命そのもの、それが失われることは即ち死を意味するように思えます。ところが、琉球の文化では、人が不調を起こす原因として「魂を落とす」ことが挙げられます。魂を落としても即座に死ぬわけではありませんが、そのままにしてはいけないので霊能者に依頼して魂を込めるのだといいます。

 いっぽうアイヌ文化については、知里真志保氏がこんな事例を紹介しています。人が寝ている上に虫がいると、それは追い払ってはいけない、それはその人の魂が虫の姿をとって現われているのかもしれないのだから、と。また、寝ている人を急に起こしても、魂を落としてしまうことがあるとも。そうすると、死ぬか、そうでなくとも発狂してしまうのだとか[知里1975(1954)]。

 この例から、アイヌ文化においても、霊魂は身体からある程度遊離できるものとして考えられてきたことがわかります。また、ラマッを落としても必ず死ぬわけではないのですね。これに関連するラマッコロとラマッチャクという言葉があります。これらは「ラマッ+コロ(霊魂+を持つ)」 (注1)「ラマッ+サク(霊魂+を欠く)」のように分解できると考えられます。そうすると前者は生きた状態、後者は死んだ状態かと思いますが、実は「利口である」「愚かである」という意味なのです。というわけで、ここでもラマッは生き死にを左右しているわけではありません。2つの例を見ると、ラマッは知性・思考に関わっていることがわかります。 

 霊魂を単独ではなく、複数の役割をもった要素の集合と見る習慣は広く見られます。例えば文化人類学者の大林太良氏は、日本語の「イノチ」はもともと身体の活動を司るものであり、それに対して精神・知性の領域を司るのが「タマ」であったと述べています。道教には「魂魄(こんぱく)」という言葉があり、魂が知的活動、魄が身体活動の根源だとされます。アイヌの宗教における霊魂もこれらと同じように身体と精神の領域に分かれていたと考えられます。では身体霊にあたるものは何か。はっきりとはわかりませんが、サンペアッ「心臓のヒモ」というものかもしれません。サンペアッとは、心臓を吊り下げているヒモのようなもので、これが切れると死んでしまうと言います。

 

2.技能を司るラマッ


 さて、ラマッが付く言葉には次のようなものがあります。

 1.イタクラマッ(イタク+ラマッ 言葉+魂)

 2.イソラマッ(イソ+ラマッ 獲物+魂)

 3.ペケンラマッ(ペケレ+ラマッ 清い+魂)

 4.オッカヨラマッ(オッカヨ+ラマッ 男性+魂)

 イタクラマッは、言葉を司るために必要な物です。疱瘡のカムイが、自分の息子にイタクラマッを入れ忘れたために、その男性は言葉が話せなかったという物語があります。疱瘡神が後からそのことに気づいてイタクラマッを込めると話せるようになりました。また、ある人間の男にオオカミの妹神が惚れ込み、他の女性と親しくならないようにその男のイタクラマッを握って(封じて?)話せなくしたという話もあります。また別な話ではラマッカラカムイ「魂を作る神」がイソラマッを入れ忘れたために、狩に行っても獲物がさっぱり獲れない男性が出てきます。こうした伝承から、知的活動も「言葉」や「狩猟」などいくつかの領域に分かれ、それぞれを司るラマッがあることが分かります。こうした限定的な領域を司るラマッは、それが無くとも生存には差支えがありません。また、後天的に機能が不全になったり獲得したりできることになっています(注2)

 また、日高地方沙流川流域で目星(角膜フリクテン)を治療するためのまじないに際し、次のような唱えごとをします。

 アイヌ アナクネ 人間というものは
 リクンラマッ ネ 上方の魂として
 コロペ シクネ 持っているものが目であります
 シコルンペカムイ 目玉の神が
 タスム ペ ネ 病んで
 ルウェ ネ クス いますので
 カムイフチ オロワ 火の婆神が
 アフッサカン ナ 息吹きかけて治すのですよ 
  [知里1973(1960):26]

 

 この例からは、視覚もラマッが担っており、目がその象徴のように捉えられていることがうかがえます。

 

3.善悪に関わるラマッ

 

 次に、ペケンラマッについて見てみましょう。沙流川流域の日高町(旧新平賀村)で語られた神謡にこのようなものがあります。

 国の東から8枚の苫を帆にしたおかしな船に乗った男がやってきて、村々でおのれの素性を訪ねる。聞かれた者が答えられないと、宝物を取り上げてしまう。そうしたことを繰り返しながら村々をわたり歩くうちに、ある村の人が素性を言い明かす。むかし、アエオイナカムイが船を作ろうと木を切ったが、うつろ木だったので捨てた。それが人に化生してキツネや兎の悪いものを仲間にして船にのってさまよっていたのだ。その男は「自分は人間界に木として生えたが、船になるのが嫌でわざと朽木になった。お前に素性を知られてしまったので宝を返すから、イナウを作って私の善魂を祀ってくれ」といって、朽ち木の山になった。海にはキツネやウサギの干からびた死体が浮いていた。素性を明かした男は朽木を燃やし、魂の半分の良い部分を祀ってやった。宝は人々に返した。[久保寺1977:444]

 

 ここでは、木のカムイが人間に危害を加え、最後には素性を明かされて悪事が露見しています。カムイといえど、悪事を働けば地獄に行くこともありますが、なんとかそれを避けたいと思うのは当然の心情です。そこで、仇をなした相手に「私のペケンラマッに祈ってくれれば善神になれるから」と懇願するのです。ずいぶん虫のいい話ではありますが、ここで注目したいのは「良心を司るラマッ」の存在です。ここから、反対に悪心を司るラマッもあると想定されます。伝承中の例は未見ですが、ウェンラマッ(悪の魂)とでもいうのでしょうか。前回紹介したようにJ.バチェラー氏は、一本の樹木の内にも日のあたる部位には良い魂が、日陰の部位には悪い魂が宿るという伝承を記しています。上記の事例も樹木神の伝承ですが、良い魂と悪い魂が別個に存在するというよりは、樹木神の霊魂の要素として善と悪があり、それらに外部から働きかけることで善悪のいずれかに傾かせるような影響を与えることができる、と考えられています。日本文化で言われる「一霊四魂」の「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」もこれと似ています。

 

4.ジェンダーに関わるラマッ


 平取町立二風谷アイヌ文化博物館が公開している伝承の中に、狩の名手である女性の伝承があります(原題:20-6イエマカアトゥサレメノコ)。女性は、伝統的には狩猟の領域に携わることが制限されており、特に厳格な人にとっては女性が弓を持つことすら禁忌とされました。ところが、この伝承では男子がみな死んでしまった家の女性が、両親を養うために狩りをしています。女性の父は、狩のタブーを回避するために女性のオッカヨラマッ「男性の魂」について祈りを挙げています。前節でみた「ペケンラマッに働きかけることで善に傾く」という例から類推すれば、全ての人の内には男性の魂と女性の魂があり、男性の魂に祈ることで男性性を獲得できる、という論理が考えられます。女性が狩猟をするというケース自体が珍しくあまりはっきりしたことはわかりません。ただ、まったく類例がないわけでもなく、今後さらに類例が見つかる可能性もあります。また狩猟の他にもイナウを削ったり神に祈ったりといった男性の役割を担う者がいないときには、緊急回避的に女性がこれを担う伝承がいくつかあります。そのような事例のなかには、このオッカヨラマッと関連したケースがあるかも知れません。

 

おわりに


 今回は、ラマッの細かな区分と性質について紹介しました。様々な性質を持ったラマッが統合されて、全体として1つの人格を形成しているとする考えは、人の内にある多面性を説明するものです。こうした思想は、かつての人々が内省を通じて人間の内にある善悪、欲求や能力、男性性・女性性などを見出し、それにラマッという名を与えることによって生まれてきたのでしょう。

図 ラマッとサンペ 

 これと似た例として、たとえば家の神や船の神、川の神などが思い浮かびます。家の中には窓の神、戸口の神、家の隅を守る神、寝床の神、軒下の神など様々な神がいる一方、全体としてはチセカッケマッと呼ばれる女神だと考えられています。船の神も、舳先や艫、オールや受け台、梶、あかくみなどにそれぞれの神がいながらも全体としてはチプカッケマッという女神だと考えられます。川は支流との合流点や淵、早瀬、果ては水面の渦ひとつひとつにまで神とその眷属がいるとされますが、全体として1つの神格と考えられることもあります。人の霊魂もこれと同様に、それぞれの機能・特性をもった部分が統合されてひとつになっているといえそうです。もっとも、紹介した事例の多くは日高地方のものであり、ラマッについてのこうした考え方がアイヌ民族全体にどこまで一般化できるか即断はできません。しかし、美幌町で語られた人間創造の過程を語った伝承では、夜と昼の神(月と太陽?)が土で人の形を作った所に、創世神が食欲や睡眠欲など12の「欲の玉」を込めて人間が誕生したとされています。これなども、部分を担うラマッとの関連を思わせる事例です。また、先にふれたように人間の生命が複数の要素の集合であるという観念は北東アジアに広く見られることを考えれば、ラマッについての思想もその一形態としてアイヌ社会全体に共有されてきたと考えることにそれほど無理はないでしょう。

 

注1) 静内方言、美幌方言、石狩方言などに用例があります。

注2) 興味深いことに、伝承の中にはサパウンペなどと呼ばれる礼冠やキセルをイタクラマッと呼んでいる事例があります。アイヌ民族博物館のアイヌ語アーカイブスの中にもセッパ「切羽/鍔」をイソラマッとしている例(№134)があります。ここでいうラマッは、その分野を強化する力を持った宝物などで、比喩としてラマッという言葉が使われているのでしょう。

 

参考文献

今石みぎわ・北原次郎太
 2015 『花とイナウ―世界の中のアイヌ文化―』北海道大学アイヌ・先住民研究センター。

大林太良
1993 「アイヌの霊魂の観念」『北海道立北方民族博物館研究紀要』第2号。

久保寺逸彦
1977『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』岩波書店。

クレイノヴィチ,E.A.
1993(1973) 『サハリン・アムール民族誌-ニヴフ族の生活と世界観』桝本哲訳法政大学出版局。

知里真志保
1973(1960) 「アイヌに伝承される歌舞詩曲に関する調査研究」『知里眞志保著作集』2 平凡社。
1975(1954) 『分類アイヌ語辞典 人間篇』『知里眞志保著作集 別巻Ⅱ』 平凡社。

J.バチェラー著・安田一郎訳
1995『アイヌの伝承と民俗』青土社。

N.G.マンロー著・小松哲郎訳
2002『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会。

由良勇
1995『北海道の丸木舟』マルヨシ印刷

Neil Gordon Munro
  1996(1962) 『AINU CREED AND CULT』THE KEGAN PAUL JAPAN LIBRALY vol.4 B.Z.Seligman(ed.) , Kegan Paul International.


(きたはら じろうた)

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する(2)

 

 文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

1.はじめに


 前回の記事では、アイヌ民族の男性が儀礼の際に用いる冠について、アイヌ語の名称や機能などを紹介しました。今回は、各地の博物館などに収蔵されている冠の中から、縄を装飾に用いたタイプに注目して、その製作地を明らかにしたうえで、どのような素材を組み合わせて作られているのかを確認します。

 

2. 「縄装飾」を追う


(1)見慣れない冠

 2014年夏、北海道大学植物園・博物館で、1870年代から1940年代に北海道各地で収集された冠20点を調査した際、縄を装飾にもちいた、見慣れない一群の資料が目にとまりました。



▲写真1 北大植物園・博物館収蔵資料(1) 写真提供 所蔵館



▲写真2 北大植物園・博物館収蔵資料(2) 写真提供 所蔵館 



▲写真3 北大植物園・博物館収蔵資料(3) 写真提供 所蔵館


▲写真4 北大植物園・博物館収蔵資料(4) 写真提供 所蔵館 

 これらに共通して見られる縄を組み合わせた装飾を、ここでは「縄装飾」と呼ぶことにします。「縄装飾」にはコイル状の縄(写真3・4)のほか、コイル状の縄をさらに鎖編みにしたもの(写真1・2)などいくつかのバリエーションが含まれています。

 いずれも、現在各地で作られているタイプとはかなり違っていますが、ただ残念なことに、収集年代や収集地の情報は、写真1の資料が「室蘭」と記録されているのみ。こうした「縄装飾」が施された冠が、いつ、どの地域で使われたものなのか知るためには、各地に所蔵される類似資料を探索する必要がありました。


(2)関連資料の調査

 資料を調べるといっても、アイヌ民族の民具資料は、収集地・収集年代などのバックデータが失われたものが多いという難しさがあります。そのため、ある民具の細かな地域差を知ろうとすると、データがしっかりしているごく少数の資料を集め、続いて、データがはっきりしない資料の中から、状況証拠によって推測できるものを集めていくという手順を踏まなければなりません。

① バックデータがはっきりしている資料

 まず今回、バックデータがはっきりしている「縄装飾」の冠として、以下の3点が確認できました。

番号

収集地

収集年代

その他

1

有珠(伊達市)

1900年

バシュフォード・ディーン収集

2

豊浦町

1981年

戦前に建てられた家屋から発見

3

虻田ないし有珠

1930年以前

河野常吉収集

 

 3点のうち、有珠と豊浦の資料にはコイル状の縄、虻田ないし有珠で収集された資料にはコイル状ではありませんが太く撚り合わせた縄が装飾に用いられています。わずか3点の資料とはいえ、収集地がいずれも噴火湾沿岸の狭い地域に集中していることは注目できます(註1)

② ピリカ会資料

 収集地等がはっきり記録されていないものからも、有益な情報が得られました。松前城資料館には、1910年前後に現在の八雲町落部を中心に活動した「ピリカ会」による収集資料が保管されており、その中に含まれる冠は、8点のうち実に7点に「縄装飾」が施されています。ピリカ会が、当時どのようにこれらの資料を収集したのかは慎重な検討が必要ですが、収蔵番号CV114は、1910年にピリカ会が発行した絵葉書の中で、落部のリーダーだった辨開凧次郎さん(1847年生〜1924年没)が着用している姿が確認できます(写真5)。少なくともこの資料は、20世紀初頭に落部で使用されていた可能性が高いものと判断して良いでしょう。


▲写真5 ピリカ会発行の絵葉書にみられる「縄装飾」の冠 画像提供 函館市中央図書館

③ 小倉コレクション資料

 北海道博物館には、1930年代に長万部町でアイヌ文化展示施設「エカシケンル」の建設に深く関わった小倉範三郎さんの収集資料が収蔵されており、資料の大部分も当時、地元の人々から集めたものと考えられます。このコレクションに含まれる2点の冠のうち1点にはコイル状、もう1点には虻田ないし有珠の資料と類似した縄が用いられています。


(3)明らかになった噴火湾を中心とした分布

 以上の情報を総合すれば、「縄装飾」の冠は、室蘭から有珠・虻田・豊浦を経て長万部から落部に至る噴火湾沿岸で盛んに用いられていたと考えられます。

 もっとも、木下清蔵氏が白老で撮影した写真の中にも、冠の先端部にコイル状に巻きつけた「縄装飾」らしきものが見える例がありますし(写真6)、沙流川流域で1870年代に収集された資料にも、イナウの下にコイル状の「縄装飾」がある事例が、一例だけですが存在します(註2)。極めて稀とはいえ、「縄装飾」の分布は沙流川流域まで広がっていたのです。


▲写真6 木下写真に見られる「縄装飾」がある冠 画像提供 アイヌ民族博物館

 ただし、残された写真から冠を使用する状況を見てみると、噴火湾沿岸では側面にイナウを軽く挟み込むため「縄装飾」がはっきり見えるのに対し(写真7)、白老周辺から東の地域では側面に厚くイナウを取り付けるため、「縄装飾」はあったとしても、表面からはほとんど見えません。以下は全くの推論になりますが、かつて広い地域に存在した「縄装飾」が、白老周辺から東ではイナウを厚く取り付けるために形骸化し、徐々に消えていったのかもしれません(註3)


▲写真7 長万部の人々が行ったイオマンテで使用された冠 画像提供 函館市中央図書館

 この推論の当否はともかく、20世紀前半には、噴火湾沿岸を中心として、ほかの地域と大きく異なった装飾がある冠が盛んに用いられていたことは確かです。12月号の「シンリッウレシパ(祖先の暮らし)9》イクパスイ」では、北原次郎太さんがイクパスイやキケウシパスイの特徴をまとめ、胆振西部〜渡島では先端の刻みが上面に偏ることを紹介しています。墓標や、イオマンテの際に用いられる花矢の形態、女性の入れ墨などにも、室蘭〜白老周辺を境界にする東西の地域差が指摘されてきました。これらと重なる地域色が、冠にもあったことになります。

 

3. 「縄装飾」の冠を観察する


(1) 軸の製作技術

 装飾を取り付ける土台になる部分を、ここでは「軸」と呼ぶことにします。素材にはガマの葉、ヤマブドウの外皮、その他の樹皮などが用いられており、形態は先端部に突出部分を作り出すタイプ(写真8右)、突出部がないタイプ(写真8:左)があります。突出部があるものでは、1本の素材を折り曲げて後端を縛ったものと、2本の素材を束ねて先端、後端を縛ったものがありました。

 

▲写真8 軸の形態(トーン部は木彫などが取り付けられる部位)


▲写真9 ヤマブドウの外皮を細く割いた素材を用いた例 筆者撮影 北大植物園・博物館所蔵

(2) 装飾の製作技術

 「縄装飾」の中でもひときわ目を引くコイル状の縄は、ガマの葉を縦に割いたものや、ヤマブドウの外皮、シナの内皮などを素材にしていることが分かりました(註4)。下撚りの方向には、いわゆるZ撚り・S撚りの両方の例があり(写真10・11)、破損部分などから、軸になる側の撚り方向が確認できるものでは、軸になる側と巻きつける側の撚り方向が揃っていることも分かりました(写真12)。ここではZ/S撚りの素材を巻きつけたものをそれぞれ「ZZのコイル/SSのコイル」と呼んでおきます。


▲写真10 ZZのコイルの事例 筆者撮影 北大植物園・博物館所蔵


▲写真11 SSのコイルの事例 筆者撮影 北大植物園・博物館所蔵


▲写真12 コイルの芯が確認できる事例 筆者撮影 北大植物園・博物館所蔵

 写真13はガマの葉を用いて私が復元してみた各種のコイルです。試みに軸の撚り方向が反対のものを作ってみましたが、巻付きが不安定で綺麗なものはできませんでした。ガマの葉は、乾燥した状態では折り曲げに弱くすぐに折れてしまうため、ゴザ編みなどに使用する場合と同様、前もって水に浸し柔らかくし、適当な太さに縦に割いてから製作しました。


▲写真13 作成事例

(3) 先端部の装飾

 冠の先端部には、様々な動物形の木彫や、クマの爪、サメの刃などが付されるものがあることは前回の記事で紹介しました。「縄装飾」が施された冠の場合、先端部の装飾がないもの(写真1・2)もありますが、収集地不明の資料にはクマ(写真4)、豊浦や虻田の資料にはオオカミないしイヌ、キツネの可能性がある木彫がつけられています(写真14)。


▲写真14 豊浦町の資料につけられたキツネ? 筆者撮影 豊浦町教育委員会所蔵

 個別の資料について、木彫がオオカミやイヌ、キツネのいずれとして認識されていたのか、今となっては解釈が分かれてしまう部分です。知里真志保さんのフィールドノート(北海道立文学館所蔵)には、長万部の聞き取りとして、冠にhurep(キツネ)の形を取り付けたものがあるという記述もありますが、これをもってすべてを説明することもできません。有珠や虻田ではオオカミを付けたとする記述もあり(註5)、これも何らかの聞き取りに基づいている可能性があるからです。

 

4. さいごに

 

 今回は、博物館の収蔵資料を検討して、かつて噴火湾地域で、「縄装飾」を用いる独特の冠が用いられていたことを明らかにしました。現在のわたしたちが各地の儀礼の場で目にし、アイヌ民族の冠としてイメージしているものは、過去に存在した様々なバリエーションの中のごく一部だったことが分かります。

 各地の博物館には今も、製作された地域や年代などがわからなくなってしまったアイヌ民具資料が膨大に保管されています。今回紹介したような細かな照合作業を繰り返していくことで、時間はかかっても、ひとつずつ、地域や年代を絞込む道筋をつけていく必要があるのです。

 次回は、「縄装飾」が施された冠の実例を取り上げ、復元製作の過程をよりくわしく紹介したいと思います。

 

1). 3点のうちバシュフォードディーンの収集資料はこちら、河野常吉収集資料はこちらで画像を見ることができます。

2). 北大植物園・博物館:資料番号9597。

3). 他にも、全く違った分布をもっていたものが移住などの要因によって混じりあった可能性や、冠の部品が移動し再利用された可能性など様々な解釈が可能で、将来的にたくさんの資料が出土するなどの好条件が重ならない限り、この推論には検証の手立てがありません。

4). 写真1・2の資料がガマの葉で作られていることは、アイヌ服飾研究の第一人者、津田命子博士からご教示いただいたものです。

5). 河野1971c

 

参考文献

北原次郎太2015「ikuasuyの口舌型式再検討」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』第17号。

河野常吉『アイヌ聞取書』(北海道立図書館蔵)。

河野広道1971a(1931)「墓標の型式より見たるアイヌの諸系統」『河野広道著作集Ⅰ 北方文化論』 北海道出版企画センター。

河野広道1971b(1933)「アイヌのキケウシパシュイ」『河野広道著作集Ⅰ 北方文化論』北海道出版企画センター。

河野広道1971c(1936)「アイヌとトーテム的遺風:特にレプンカムイシロシとキムンカムイシロシについて」『河野広道著作集Ⅰ 北方文化論』 北海道出版企画センター。

名取武光1985 『アイヌの花矢と有翼酒箸』六興出版。

(おおさか たく)

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴(大坂 拓) 2016.1

 

 

 

 

《図鑑の小窓10》カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて)

 

 文:安田千夏

 

 数年前すっかり結氷した厳冬期のポロト湖で、突然私の目の前に巨大な猛禽類が飛来しました。黒褐色の体に肩と尾羽が白、黄色いくちばしと足。それはまさにオオワシでした。


▲写真1 オオワシ(デジタル図鑑より)

 オオワシもそんな場所に人間がいるというのは想定外の事態だったことでしょう。しかしそこはさすがにアイヌ文化でパセカムイ(尊き神)といわれる鳥だけあり、慌てず騒がず。ホバリングをして私をギロリと一瞥し、湖上へ悠然と飛び去って行ったその姿は威厳と風格に満ちていました。私はカメラをかまえる余裕もないまま呆然と見送ることしかできず、それからというもの再びの出会いを求めて懲りずに冬の森をさまよっているのですが、至近距離でオオワシを見たのはその時だけです。ウヨロ川でもウトナイ湖でも冬季に見るオオワシの姿は以下の写真の通り、あまり人のいる場所に近づいて来ることはありません。

▲写真2 ウトナイ湖のオオワシ遠望

 オオワシはアイヌ語名が地方によって色々採録されていますが、おそらく他の猛禽類と区別される名として最も知られているのはカパッチリ、カパチリという名でしょう。アイヌ民族博物館の音声資料では、川上まつ子さんの散文説話にはカパチットノ(注1)が登場する「ワシ神の化身と人間の娘(注2)」という素敵なシンデレラストーリーが採録されています。

 北海道で見られるタカ目タカ科の代表は何と言っても冬に飛来するオオワシ、オジロワシ。そしてそれらに比べると見る機会は少ないですがオオタカ、クマタカ、イヌワシ。他にもトビ、ミサゴ、ハチクマ。比較的小型なノスリやチュウヒの仲間、ハイタカやツミなど意外なほど多くの仲間がいます(注3)


▲写真3 ハイタカ ウトナイ湖

 これらのうちアイヌ語名が採録されているのはオオワシ、オジロワシ、クマタカ、そしてトビです。先述の種名のうち、相対的に大型の種に名づけがされていたということがわかります。

 さて以前鳥好きの方から「イヌワシのアイヌ語名が採録されていないのは神格が高くないということですか?」と質問されたことがあります。イヌワシも大型ですが、北海道では見る機会が少ない鳥で、その影響なのか確かにアイヌ語名は採録されていません。でも少なくともアイヌ語名があるからそれらが全てパセカムイであるということはなく、またアイヌ語名が「ない」と断定するのはそれなりに難しい問題を孕んでいるのです(注4)。この問題をどのように整理して答えるのか、アイヌ文化の情報発信をする側も色々と考えていかなければいけないと感じました。

 文献上の記録を遡って行くと、1700年代の資料(注5)には「鷲 カハチリ」とあります。この時代はもちろん和名の方もまだ現代のように整理分類されていたわけではないのでオオワシとは同定できません。1800年代の資料(注6)には「カパチリ[ワシ]チリコイキ[タカ]」と出て来ます。バチェラー辞書(注7)にも「Kapachikap,カパチカプ,鷲. n. An eagle.」「Kapachiri,カパチリ,鷲. n. Eagle」とだけ書かれています。

 それではこれらのアイヌ語名がオオワシを指していると同定した文献は何かというと、大方のご想像の通り『分類アイヌ語辞典』(注8)です。具体的にこの名の採録地を複数あげており(注9)、同じく大型のオジロワシやクマタカと区別される例を示したことは大きな成果でした。しかし敢えて本稿ではそれらを結論とは考えずひとつの調査データとして捉えることとし、その他の猛禽類はどのような存在と見なされていたのかという先ほどの疑問に立ち戻って考えてみたいと思います。私はカパッチリ、カパチリ=ワシという程度の、特定の種の名称と捉えていなかった近世の先人の感覚を前時代の不確かな概念と切り捨ててしまうべきではないのではないかと考えており、それは織田ステノ氏の次のようなお話を聞いたことに影響されています。

 質問者が織田氏に「ワシはカパチリ?」と聞くと「カパチリ」と答えています。そしてその次に出て来た話は…。

 若い頃、村の若者が大きな鳥を獲ってぶら下げて帰って来たことがありました。それを見た年寄り達は驚き、あわてて祭主を務める老紳士を呼んで送り儀礼を執り行い、その肉を私も食べました。(アイヌ民族博物館資料より)


 カパチリにちなんで出てきた話なのでワシの仲間についての話だと思います。大変貴重なエピソードなので質問者もそれは果たしてオオワシかオジロワシか、はたまた別の猛禽類なのか色々聞いているのですが、あまりはっきりとした答えは返って来ていません。それは無理もないことで、織田氏の説明は「しっかり見ない。パセカムイだといって(中略)オリパク(かしこまる)してしっかり見なかった。」ということなのです。アイヌ文化では、女性がこうした神事をじろじろと無遠慮に見ることはタブーとされていました。もしそれをしていたら神をも畏れぬ不敬な行為ということになりますので、織田氏はアイヌ文化の正しい作法により「しっかり見なかった」わけなのです。もちろん知里が報告した通り、狩りをする男性伝承者はその特徴を詳細に見たでしょうから、種の同定が可能な場合もあったことでしょう。しかし一方で女性伝承者にとってはおそらく時代に関わらずあくまでもワシ神はワシ神であり、それ以上踏み込むことなく信仰するという考えがアイヌ文化に存在したということもまぎれもない事実なのではないでしょうか。

 また織田氏は飛んでいるワシ神の見分けについて「リクペカ スワヌ(高いところを滑空する)(注10)しているのを見ただけで、どんな姿だかわからんかったもの」とも言っており、生死に関わらずその姿をはっきり見る機会がなかったということになります。遠い存在であるというのは、写真2のように私が普段感じているワシ達との距離感に共通する印象であったということかも知れません。

 何やら古文献や聞き取り資料を持ち出し『分類辞典』以前に話を戻していたずらにややこしくしようとしている訳ではないのですが、アイヌ文化を説明するうえでは色々な問題を原点に戻って再検討していかなければ説明がつかない点が多いということの実例が、イヌワシに関する先述の質問に現れているのではないかと思います。今のところカパッチリ、カパチリの名はオオワシという特定の種を指している場合の他に、ワシの総称として使われていた可能性があり、口承文芸資料に登場するカパチットノに付す訳語は後者の意味「ワシ神」とするのが妥当ではないかと考えています。件の質問には「オオタカやイヌワシをパセカムイから排除する積極的理由は今のところ見当たりません」というかなりグレーな回答でご容赦いただきました。

 最後にトビについて。飼った後に送り儀礼をしたという事例が報告されているものの(注11)、口承文芸でパセカムイとして描かれた話は管見の限り見聞きしたことがありません(注12)。ある程度の希少価値もパセカムイの条件のひとつにあげられるのかも知れず、トビほど身近でよく目にする鳥はそれほど重んじられることはなかったと考えておくことにします。

 ともあれワシ神についての興味が尽きないのは、やはりあの冬の森で一目惚れをしたせいなのでしょうか。今年の冬も、せめてもう一度お姿を…と懲りずにあちこちを徘徊している私です。


▲写真4 ポロト湖結氷

 

(注1)カパチリ(ワシ)トノ(日本語「殿」が転じ「…様」「…神」などの敬称)。続けて言うとカパチットノとなります。

(注2)川上まつ子氏C0159.「ワシ神の化身と人間の娘」参照。

(注3)ハヤブサの仲間のアイヌ語名も採録されていますが、タカ目ハヤブサ科については稿を改めたいと思います。フクロウ目フクロウ科についても同様です。

(注4)採録されていないだけかも知れず、それをもって「なかった」とは断定できないですし、現代の生物分類に準じていないだけという問題もあります。

(注5)板倉1739、佐藤1786など。

(注6)上原1824。

(注7)J.Batchelor 1938 p231。

(注8)知里1962。

(注9)「ビホロ;クッシャロ;チカブミ;チトセ;ウラカワ;シズナイ;サマニ;ホロベツ」。

(注10)「スワヌ」は意味が辞書によって異なります。「急降下する」「滑空する」「飛ぶ」「円を描きながら舞い降りる」。オオワシ、オジロワシなどは比較的円を描いて滑空していることが多いので、ここではこのように訳しました。

(注11)更科1977。

(注12)口承文芸には「普段は人間から顧みられないような動物神が大活躍をし、それ以来パセカムイとして祭られるようになった」というパターンの話も少なからずありますので、皆無であるとは言い切れないところです。

 

<参考文献>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
板倉源次郎『北海随筆』(1739年)
上原熊次郎『蝦夷方言藻汐草』弘南堂書店(1969年)※原著出版は1824年頃
佐藤玄六郎『蝦夷拾遺補遺』(1786年)
更科源蔵、更科光『コタン生物記 Ⅲ 野鳥・水鳥・昆虫篇』(1977年)
J.Batchelor『アイヌ・英・和辞典 第四版』岩波書店(1938年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第二巻 動物篇』日本常民文化研究所(1962年)

 

(やすだ ちか)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

 

 

 

 

 

 

《レポート》ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学

 

 文・写真・ビデオ:イオル再生伝承者(担い手)育成事業 第三期生一同
     (木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、山道ヒビキ

 

はじめに

 

 2016年1月8日の伝承者(担い手)育成事業の自然講座において、ウトナイ湖野生鳥獣保護センターを見学しました。

 本講座では「アイヌと自然」というテーマで随時研修が実施されており、野鳥の観察は折に触れて行って来たものの、間近に見る機会はありませんでした。今回はアイヌ文化にゆかりのある鳥達に接し、傷ついた現状を知るということを目的とした施設見学を企画、実施いたしました。

 

1. ウトナイ湖野生鳥獣保護センター施設概要


 ウトナイ湖野生鳥獣保護センターは「国指定ウトナイ湖鳥獣保護区の適正な管理と自然教育を行う」ことを目的に、2002年環境省によって設置されました。環境省と苫小牧市で共同管理されています。展示や映像による解説・紹介などの他に、傷病鳥獣の救護活動、野鳥観察会、小学生・市民を対象とした環境教育といった活動も行われています。なお、傷病鳥獣の一般公開はしていませんが、団体は事前に予約すれば見学可能だそうです(くわしくは苫小牧市のホームページをご覧ください)。

 今回はセンター内にある傷病鳥獣救護施設で、獣医の山田智子(やまだのりこ)氏が対応してくださいました。野鳥救護業務は、平成14年度に業務を開始して以来、平成24年3月末までに取り扱った傷病鳥獣は1,636個体となり、このうち回復して自然に返したのが1,004個体で、復帰率は61%を超えているとのことです。そして、1年間に保護する鳥獣については、人為的要因により保護する必要がある鳥獣140〜160個体(約60種類)、収容している鳥獣の大部分(98〜99%)が鳥だそうです。どんな傷病鳥獣でも保護するというわけではなく、主に人為的要因(建物や自動車との衝突や釣り針の誤飲など)で運び込まれた個体が対象となっています。狩猟により傷ついた鳥獣・捕獲対象鳥獣・外来種(注1)は原則として傷病鳥獣としての保護はされません。

▲写真1 獣医の山田智子氏

2. 保護されている野鳥


2-1. チゴハヤブサ

 ハヤブサ科の夏鳥です。「都市近郊の住宅地付近でも多くが繁殖する身近なハヤブサ類」(注2)とのことです。体つきがほっそりとしている印象を受け、この個体は左側の翼にケガをしていました。

 ご厚意により手にのせてエサをあげることができました。利き手で処置をするため、手にのせる場合は利き手ではない方にのせるとのことでした。もし鳥が腕を上って肩の方へ進んだ場合は、手を肘よりも高く上げると良いそうです。高い方を好むのが猛禽類の習性だそうです。「鳥は軽い」ということは何となく知っていましたが、自分が想像していた以上の軽さを実感できました。

 ハヤブサの仲間のアイヌ語名は地域によっても色々ですが、道東や道北でチカプコイキ(注3)と採録されています。「チカプ(鳥)コイキ(〜をとる)」という名の通り野生では小鳥を襲います。この施設でも与えるエサはヒヨコの肉ということでした。チゴハヤブサでは採録例がないものの「チゴ」は小さいという意味ですからアイヌ語のポン(小さい)をつけてポンチカプコイキ、またはチカプコイキウタリヒ(ハヤブサの仲間)という呼び名を考えてみました。

2-2.オオコノハズク

 フクロウ科、夜行性です。オスもメスも同色で、夏鳥または留鳥とも言われています。平地から山地にかけての森林の樹洞で営巣しています。定着繁殖個体よりも渡りの途中に通過して行くものや、北方より冬鳥として渡来する個体が多いと思われています。

 保護されているオオコノハズクはヒナの時に、牛舎の屋根に作られた巣から落下したことにより、硬い地面に落下し左の翼が骨折してしまいました。このケガが原因でリリースが不可能になり、終生飼養となっています。見た目はすごく可愛いのですが獰猛です。さすが猛禽類。

 アイヌの伝承では、おばあちゃんに育てられた子どもがドロノキの神や湿地の妖怪などにコノハズクに変えられて「フチ トット、フチ トット(おばあちゃんおっぱい、おばあちゃんおっぱい)」と鳴いているという悲劇譚が多いです。また別例として子どもが嫌いな母親がその子どもを殺し、子どもの魂がコノハズクになり母親の悪事を教え歩いていたという話もあります。また身勝手に自分の子どもを殺した女性が罰を受けてコノハズクに変えられたという話もあり、気の毒なことに精神の良くない鳥とも言われています。

 コノハズクのアイヌ語名はトキット、トキトなどです。「オオコノハズク」での採録はありませんが、ポロ(大きい)をつけてポロトキット、またはトキットウタリヒ(コノハズクの仲間)という呼び名を考えてみました。

2-3. ヨタカ

 ヨタカ科の夏鳥です。全身黒褐色で、灰白色や淡褐色の様々な形の斑紋が散在、複雑な模様をしています。嘴は黒く短くて幅広いです。体の割には頭部が大きくて眼も大きいです。

 このヨタカも右翼損傷で終生飼養となっていて、給餌を行うことができました。保護している鳥の中には人の手から餌を食べない鳥もいて、ヨタカもその習性から給餌の仕方が特殊でした。方法としてはピンセットで餌を掴みその餌をヨタカが見える形で前方から勢いよく口元へ運ぶというものでした。私も給餌を行ったのですが、なかなか口を開けてくれませんでした。結構な勢いで口元へ運ぶ必要があり、その勢い不足だったようです。難しくて戸惑ってしまい、ヨタカの方も「ん? 餌はまだか?」とおとなしく待っていた様子で悪いことをしてしまったように感じました。

 アイヌ名はエロクロク、エロクロキ、オラウンクルカムイ と言われます。この鳥もあまり縁起の良い鳥であると考えられてはおらず、コノハズクの伝承に似た子供が魔物に連れ去られヨタカにされてしまったという話があります。

2-4. アオバト

 ハト科の夏鳥です。センターには3羽のアオバトが保護されていました。

 アイヌ文化の伝承には、山でアオバトに騙された話や、やたらと鳴いていたら近くの人が亡くなったなどの話があり、怖がる人もいたそうです。アオバトの物語は、「ワオリ」という繰り返し詞が入る神謡が最も有名ですが、同じ繰り返し詞と同じメロディーでも内容は少し違います。しかし、和人に関わる物語が多いようです。

 アイヌ語名はワウォウやワオと言います。ワーオワーオと鳴く声が名前の由来となったと考えられています。月刊シロロ2015.11月号「図鑑の小窓7『サランパ サクチカプ』」にもあったとおり、アオバトは海水や温泉水を飲む鳥です。小樽の恵比寿島の元々の地名はワウシリというそうです。これはアイヌ語地名で、意味はワオ(アオバト)シリ(島)。この島に海水を飲みにきたアオバトが群れをなして集まっていることに因んだそうです。


2-5. フクロウ

 フクロウ科で周年森林に生息する猛禽類です。主にネズミ類、エゾモモンガなどの小型哺乳類、街頭に集まる昆虫を捕食します。路上のカエルをガードレールなどに泊まり捕食する際、車のライトに目がくらみ事故死する個体もあります。

 檻の中いるエゾフクロウを見学させていただきました。ケガで自然に返すことはできませんが、脚力があるので檻の中で自由に飛び回っていました。かわいい顔をしていますが凶暴だそうです。

 アイヌ語名は地域によってクンネレッカムイ、イソサンケカムイ、イヌンカムイなど色々です。鳴き声を「ペウレプチコイキ(子グマをとるぞ)」と聞きなして猟を助けてくれる神と考えられており「イソサンケカムイ(獲物を出す神)」という名はそれに由来します。

<写真2 フクロウ>


2-6. トビ

 タカ科の周年見られる猛禽類で“ピーヒョロロロロー”とよく鳴いています。カラスより一回り程大きい鳥で、餌は小動物、動物の死骸、残飯などを食べています。

 今回鳥獣保護センターで見たトビは2羽でした。怪我をしてもう外で暮らすことができないので、鳥獣保護センターで保護しています。鳥にとっては命ともいえる羽を失った鳥は自然で生きていくことができないという現実はとても悲しいです。

 アイヌ語名はヤットゥイ、ヤトッタ等。石狩川筋ではヤトッタカムイと呼ばれ小鳥の内から飼育してフクロウと同じように送ります。

 

3.感想とまとめ


 山田氏の解説によると、この施設で保護する鳥獣が年間140〜160個体というのは、日本の他施設と比較すると「決して多いわけではない」とのことです。しかし、鳥獣の種類が約60種というのは「多い」とのことでした。この種類の多さが、自然豊かな北海道ならではの特徴ということなのでしょうか。またこうした施設は北海道でもあまり多くはないため、苫小牧のみならず場合によっては広域にわたる傷病鳥の対応せざるを得ない現状についても考えさせられました。

 今回の研修では実際に鳥に触れ、アイヌ文化ではその野鳥をどのような存在として考えているかについて改めて各人が調べ学習をし、鳥の名づけや言い伝えには野鳥の実際の鳴き声や習性が大きく関係していることを再確認しました。今まで以上に野鳥を身近な存在と感じましたが、豊かになった人間の生活スタイルが主原因となり傷病鳥を生んでいるという現実を目の当たりにし、心が痛みました。

 最後になりましたが、改めて貴重な経験をさせてくださったウトナイ湖野生鳥獣保護センターのスタッフの皆さんに感謝申し上げます。今回の貴重な経験を今後に活かして行きたいと一同考えております。

(注1)例えばカラス、ハト、スズメ、カモメ、キツネ、シカなど。
(注2)河井ら2003
(注3)知里1953

 

<参考文献>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
アイヌ民族博物館『アイヌ民族博物館だより №46』(2000年)
河井大輔他『新訂 北海道野鳥図鑑』亜璃西社(2003年)
更科源蔵『コタン生物記Ⅲ 野鳥・水鳥・昆虫編』法政大学出版局(1977年)
更科源蔵『アイヌ民話集 更科源蔵アイヌ関係著作集Ⅱ』みやま書房(1981年)
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』 草風館(1996年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第一巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』 草風館(1995年)
日本放送協会『アイヌ伝統音楽』 (1965年)
北海道教育委員会『平成元年度 アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズ3 オイナ(神々の物語)1』(1990年)
北海道教育委員会『平成5年度 アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズⅦ オイナ(神々の物語)3』(1994年) 
松村武雄『日本童話集』世界童話大系刊行会(1924年)

 

協力:ウトナイ湖野生鳥獣保護センター

〒059-1365
北海道苫小牧市字植苗156-26
電話:0144-58-2231、FAX:0144-51-8600
ホームページ

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

1月号 2016.1

 

《伝承者育成事業レポート》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

 

 

 

 

《みんな、昔なに食べた? 第1回》木ネズミ(エゾリス)の味

 

 文:八谷麻衣
 

(写真:山本りえ)

 

 石狩川流域のアイヌ民族は、河口付近(現在の石狩市)や、中流域と上流域で言葉や暮らしの違いがあったといいます。この人々の多くは明治時代から昭和にかけて、現在の旭川市近文地区に移り住みました。近文地区では、上通り、中通り、下通りと言われる通りがあり、各通りで職業や食生活も微妙に異なっていたようです。このシリーズでは、旭川市近郊で暮らした体験をお持ちの方々に、昔の食生活を思い出して語っていただきます。今回は中通りの八谷恒二さん、上通りの昌子さんご夫妻に木ネズミ(エゾリス)の食べ方を伺いました。

《今回のお話に登場する人々》

八谷恒二、昭和21年生まれ、旭川市錦町出身、枝幸町歌登在住。
八谷昌子、昭和20年生まれ、旭川市北門町出身。
  八谷市郎(恒二の父、旭川市出身)川村トメ(昌子の母)
門野ナンケアイヌ(昌子の祖父、旭川市出身)
  (イラスト:山丸賢雄)

 


 

木ネズミの思い出

 

-昔食べていたもので、印象的なものや、忘れられないものってありますか?

恒二:昔食べてたものかぁー。色々あるぞぉ。何でも食ったからな!

-それでは以前お話していた木ネズミ(エゾリス)の話を伺いたいです。

恒二:木ネズミかぁ、あれはうまかったなぁ。父さんの父さんは市郎って言ってな、散弾銃を使って木ネズミとって来てくれたんだよ。

昌子:ナンケアイヌ(門野ナンケアイヌ)も木ネズミ捕りの名人だったわよね。よく捕ってきてはおばあちゃん(川村トメ)がタマタマをおやつ代わりに串に刺して焼いて食べてたって言っていたわ。

恒二:ナンケアイヌの捕ってきた木ネズミも食べたぞ。旭川では割とみんな食べてたんじゃないかな。でも食べる部分少ないからな。貴重っちゃ貴重だったかもしれんな。

-調理の仕方と味も教えてください。

恒二:色んな食べ方があったぞ。モモ肉は砂糖醤油で照り焼きみたいにして食った。あれは骨が細くて筋肉質で、手羽先みたいな感じだ。肉だけじゃなくノキ(睾丸)やら脳みそも食うんだぞ。

-ノキは先ほどトメさんもおやつにして食べていたと言っていましたもんね。

恒二:塩焼きにして食べるとうまかったなぁ。歯ごたえがコリコリっとして最っ高の味なんだ。

-頭はどのように食べてましたか?

恒二:頭はそのまんま味噌汁に入れて、最後にパッと中を割って食べるんだ。味はあれだな、白子みたいなもんだな。頭ごと焼いて食べることもあったぞ。そのときもパカっと割ってスプーンですくって食べるんだ。木ネズミで一番うまいのは脳みそだったなぁ。ナッツみたいな味がするんだぞ。

-脳みそは魚のチタタプのようにしても食べていたんですよね?

恒二:食べてたぞ。リスの肉入れてな、ウサギの肉も入れたりしたな。ネギは必ず入れてタタ(細かく叩くこと)するんだ。

-チタタプといえば鮭など魚が多いですけど、リスでも作っていたんですね。

恒二:おぉ、脳みそに色々入れて叩いてな、あれもうまかったぞぉ。今は捕っちゃいけなくなってるから(94年以降は狩猟が規制された)食べられくなっちゃったけど、また食いたいなぁ、パカっと割った脳みそ!


※チタタプとは、生の魚肉などを包丁で細かく叩いた料理。鮭の氷頭や白子を使った物は今でもよく食べられている。

 

(はちや まい)

 

 

 

本文ここまで

ページの先頭へ戻る

ここからフッターメニュー