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月刊シロロ

月刊シロロ  1月号(2016.1)

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する(1)

 

 文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

1.はじめに-盛装としての冠-


 各地でおこなわれるアイヌ民族の儀礼や舞踊公演の場で、男性が独特の被りものを身につけた姿を目にされたかたもおられるでしょう。


▲写真1 祭壇で祈る男性たち(木下清蔵写真より)


▲写真2 祈る男性たち(アイヌ民族博物館コタンノミ 2006年春)

 この冠は、アイヌ語でサパンペ、サパウンペ、イナウル、エカシパウンペ(渡島・胆振・日高西部)、パウンペ(日高東部・道東)と呼ばれ(註1)、イオマンテ(熊送り)をはじめとする様々な儀礼の際に用いられます。

 冠といっても、単なる装飾品ではなく、身につけることで儀礼をおこなう人間を補佐する力をもつと信じられていますから、たいへん大切に扱われます。冠を身につけた男性たちは、主だったカムイへの祈りの後に、冠に対して感謝の言葉を唱えることがあります。次にあげるのは、日高西部平取町の二谷国松さん(1888年生〜1960年没)が語り残した、冠への感謝の祈りです。

ekasi paunpe 祖翁の礼冠よ
aynu mitpo 人間の子孫は
aapte kusu 何事も覚束ないゆえ
onkami teksam 祈りの傍らを
a=ekopunkine 貴方がお見守りに
ne rok a yak なったのなら
iresu huci 育みの神の
kamuy pakese 神なる飲みさしを
a=koonkami na 捧げて拝礼しますよ
  (北原2012より)

 昨年11月号で紹介された、日高東部静内地方の葛野辰次郎さん(1910年生〜2002年没)の映像でも、お祈りを終えたあとに、刀・自身の憑き神が宿るとされる「盆の窪」とともに、冠の前後にお酒を捧げる様子を見ることができます。

▲月刊シロロ11月号より

 この祭具には、しばしばクマ・オオカミ・キツネ・タカ等の動物を模した木彫、サメの歯、クマの爪などが取り付けられています。研究者の中には、冠につけられた動物と、各家系の「祖先神」伝承、それぞれの家系で特に重要視される祭神との関連を考える意見もありました。ただし、その後の様々な研究者による調査では、「祖先神」との関係を裏付ける確実な情報は得られていません。一方で、大きなクマを獲った記念にそれを象った彫刻を取り付けた、というような「祖先神」とは異なる由来が語られている事例がいくつか認められます。


▲写真3 クマ形の木彫がとりつけられた冠 収集地 新冠町
     北海道大学植物園・博物館所蔵(写真:所蔵館提供)

 冠の使いかたには地域差があり、渡島・胆振・日高西部では儀礼に参加する成人男性の多くが着用するのに対して、十勝地方では重要な儀礼の際に祭司のみが身につけるとされ、釧路地方の一部のように、ほとんど用いないとされる地域もあります。また、渡島・胆振・日高西部では先祖から受け継がれた冠を使い続けるのに対し、十勝地方の音更など一代限りのものとする地域もあるなど、細かな約束事にも違いがみられます(註2)

 

2.今では見られなくなった技術


 現在、北海道内の博物館には、目録などで確認できるだけでも約140点を超える冠が収蔵されており、その中には、今では目にすることがない様々な特徴をもった資料が含まれています。

写真4 今では見られない製作技術がみられる冠 収集地 室蘭
    北海道大学植物園・博物館所蔵(写真:所蔵館提供)

 室蘭で収集された記録があるこの資料には、植物繊維をコイル状により合わせたものを、さらに鎖編みしたものがびっしりと貼り付けられています。こうした特徴も今日では見られないものの一つです。

 世界各地の文化と同じく、アイヌ文化もまた、近現代社会の中で大きな変化を経験してきました。伝統的な物作りの技術も、木綿衣やアットゥシ(樹皮布)、イタ(お盆)のように今日まで連綿と繋がってきたものがある一方、忘れられてしまったものも少なくありません。

 近年、アイヌ文化継承に取り組む人々の中には、自身の出身地でどのような道具が用いられていたのかを知りたいという要望を抱いた方々が多くおられます。そして、残された記録を掘り起こすと同時に、資料を観察して失われた製作技術を復元的に明らかにする取り組みが盛んになっています。本連載では次回から、博物館に所蔵された冠の実例を取り上げ、その製作技術を復元する試みを紹介していきます。

 

註1 沙流方言では、日常語でサパンペ、イナウル(田村1996・萱野1996)と呼ばれるのに対し、祈詞などで用いられる雅語ではエカシパウンペと呼ばれる違いがあるようです。また、サパンペとイナウルが同じものを指す場合と、動物形の彫刻を取り付けたものをサパンペ、イナウ(木幣)で簡単に作られたものをイナウルと呼ぶ、とする場合があります。

註2 『知里真志保フィールドノート』(北海道立文学館所蔵)・更科源蔵『コタン探訪帳』(弟子屈町図書館所蔵)の記述による。

 

参考文献

萱野茂1978『アイヌの民具』すずさわ書店

北原次郎太2012「二谷国松口述 知里真志保筆録 新築祝いの祈り詞」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』14 
URL(http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AA11256001/2012no.14_263_305.pdf)

金田一京助・杉山寿栄男1941『アイヌ芸術』第一巻服装編(復刻版1973北海道出版企画センター)

河野広道1936「アイヌとトーテム的遺風:特にレプンカムイシロシとキムンカムイシロシについて」『民族学研究』2-1

久保寺逸彦1953「北海道日高国二風谷コタンに於ける家系とパセオンカミ「尊貴神礼拝」」『金田一京助博士古希記念 言語民族論叢』(2001『久保寺逸彦著作集1』再録)

齋藤玲子2002「更科源蔵氏『コタン探訪帳』の概要について-弟子屈町立図書館所蔵ノートの紹介」『北海道立北方民族博物館研究紀要』11

田村すず子1996『アイヌ語沙流方言辞典』草風館

(おおさか たく)

 

 

 

 

《シンリッウレシパ10》アイヌの精神文化 ラマッ⑴

 

 文・イラスト:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

1.はじめに


 ラマッ(霊魂)はアイヌ文化を理解する上でぜひとも知っておきたい言葉です。カムイやイヨマンテについて知る上でもまずはラマッの理解から始まる、というくらい大切でかつ基本的な言葉です。「霊」というと、ホラーなものを想像して「怖い」という反応をする方もいらっしゃいますが、生命と言いかえれば平気でしょう。「誰にでも命がある」というのは至極当然の事ですから。

 アイヌの世界観では、私たちの世界にあるあらゆるものにラマッが宿っていると考えます。こんにち、私たちが「生きている・生命がある」と見なすものは主として動植物ではないでしょうか。それらももちろん生きていますが、その他にも火や水、湖、岩、山、星、風、雨、雪、雷、寒気、病気や飢饉といった自然物や自然現象、人間が作った道具や、はては眠気といった生理現象にまでラマッが宿る(またはそれを引き起こす者がいる)といわれます。例外的に、空気や土はラマッを持たないと考えられていたようです。海もそうかもしれません。

 ラマッやカムイに関わる伝承を全体的に眺めていると、かつてのアイヌがラマッの存在を感じとったのは、周囲の物・環境との境界がはっきりしている物体・事象であるという印象を持ちます。大気や土壌、海水などは非常に広い領域を占める環境そのものであり、それ自体がラマッを持つというよりは、何らかの神格がその領域を掌握している、と考えます。樹木を指すシリコロカムイ(大地を司る神)という言葉はその好例です。シリ(大地)そのものに神格があるのではなく、樹木がそこを掌握しているのです。

 ただ、大気中や水中においても、風や水面の波、渦などのように、その領域の中で目を引く変化が起こると、そこにはラマッが見いだされます。

 今月から(不定期に)3回ほど、ラマッの事を書いてみたいと思います。今回は動物と植物のラマッについて解説します。

 

2.動物のラマッ

 動物は、どんな種類のものであれ体を持ち、そこにラマッを宿しています。ラマッは霊的な存在であり、カムイや精霊(カムイと呼ばれない者)の本体とされます。物質的存在である身体は、ラマッが宿る場所であり、ラマッが一時的にまとった衣であるとされます。

 動物のラマッは、人間世界に現れる時に衣をまとって動物の姿になりますが、本来は人間と同じ姿をしています(注1)。そして、クマなら黒い衣、キツネなら赤い衣をまとうことで、それぞれの動物の姿になります。この衣(=身体)は何度でも得ることができ、それゆえ、人間に恵みとして授けることもできます。人間のもとに衣を残してきたとしても、新しい衣をまとえば新たな肉体を得ることができるのです。また、動物のカムイが人間界を訪れることをイラウケトゥパ(稼ぎにいく)と表現することがあります。動物の身体は、人間からの尊敬や供物を受けとるための、言わば交換物資でもあるのです。こうした考え方は、沙流川流域で語られてきたタヌキの神謡によく表れています。

◇  ◇  ◇

 タヌキがクマの老爺と暮らしていた。ある時、人間が狩に来たので家から出て行って矢を受けた。人間の家へ運ばれて火の神の歓待を受けた。人間達が祝祭の準備をし、自分たち(クマとタヌキ)の肉を料理したものが美味そうに盛られて座にならんだ。クマはタヌキに「イカネイペカ エヤイハル エエ ナ。アハルフ エエ ナ(決して自分の肉を食うんじゃないぞ、私の肉も食うんじゃないぞ)」といった。ところがタヌキは、空腹をこらえきれず、こっそり自分とクマの肉料理を一切れ二切れ食べた。祝祭の後、クマは神の世界へ帰ったが、タヌキは肉を食べた事の罰として神の世界に帰ることが許されなかった。そして戸口の守り神となるよう命じられ、以来戸口を守るようになった(注2)

◇  ◇  ◇

 原文では、冒頭はとてもほほえましい情景から始まり、可愛らしいストーリーなのですが、ラストは少々悲しい終わり方をしています。タヌキが罰を受けたのは「自分・クマの肉」を食べたためです。つまり、動物自身の体は人間に贈った物で、それに自ら手を付けてはならないと考えられているのです。タヌキへの厳しい処遇を見ても、このタブーの強さがわかります。

 少し話がそれますが、興味深いことに、こうしたタブーは、アイヌに隣接して暮らしてきたニヴフの伝承にも見られます。ニヴフの伝承では、ある人間の男がクマの世界に迷い込みます。そこでしばらく過ごすうちに、男の親類たちがクマたちに捧げたご馳走が届きますが、男は食べさせてもらえません。その供物は、男の属す氏族から贈られた物であり、自分たちで贈った物に手を付けることは罪になるのだ、といわれます(注3)。アイヌの伝承とちょうど反対のシチュエーションですが、人間と動物が互いに贈り物をし合うパートナーであり、自分から出した物には決して手を付けないという点では共通しています。

・耳と耳のあいだに

 さて、タヌキの神謡のなかで、クマとタヌキは狩人に会った場面で即座に仕留められています。ここで肉体としては死を迎えているわけですが、その後も変わらず火の神と談笑したり、つまみ食いをしたりといった様子が語られています。ここでは、クマ・タヌキの身体が動いているのではなく、そこから抜け出したラマッが自由に振る舞っているのです。文学のなかでは、こうした動物のラマッは「アスルペ ウトゥル(耳と耳の間)」に座っていると表現されます。このラマッは人の姿をしていると考えられますが、たいへん小さいという事になりますね。


▲図1 耳と耳の間のラマッ
 

・シラッキカムイ

 イヨマンテなどの霊送りでは、動物の頭骨を美しく飾り、祭壇に祀ります。そうすることによって動物のラマッは神の世界に旅立つのですが、しばしば頭骨を祭壇に置かず、家の中の宝物を置くところに安置することがあります。こうした頭骨をシラッキカムイ等と呼びます。動物の霊魂を人間の世界にとどめ、お神酒とイナウを捧げて祀る代わりに狩猟や漁労の守り神としたり、占いや雨乞いなどのまじないにおいて力を発揮してもらうことを期待するのです(注4)。そうしてある程度の期間を経ると「カムイが疲れるから」と言って、役割を解き、神界へ送り出すのです。

 こうした習慣があることを見ても、やはり動物のラマッは頭部に宿ると考えられていたと見て良いでしょう。ただ、動物が神界で再生するためには全身の骨がそろうことが大切だと考えられてもいました。ですから、骨は粗末にしないものです(食べるのは構いませんが、食べない部分は祭壇の近くの決まった場所にまとめておきます)。

 

3.植物のラマッ

 一般的に言って、植物は動物に比べて静的な存在であり、目に見える活動や意思表示をすることはありません。けれども、草木やキノコなどにもラマッがあり、ものを思い、人の行いを見ているとされます。ここでは沙流川流域で語られてきた船の神(巨木の神)の神の伝承を見てみましょう。

◇  ◇  ◇

 私(巨木の神)は空知川の滝の落ち口にいた。あるときサマイウンクルが斧を6本かついで来て私を切ろうとしたが、物言いが粗暴なのに腹が立ったので、わざと体を固くした。サマイウンクルは斧が全て折れてしまって、悪態をつきながら帰って行った。それからしばらくして、こんどはオキクルミがやって来て私を切ろうとした。彼の礼儀正しい振る舞いが気に入ったので、軟らかい肉を外に出し、切らせてやった。それから私の体は船になり、日本人の所へ交易にでかけた。オキクルミは様々な交易の品々を持ち帰り裕福になった。次の小オキクルミの代になり、ふたたび日本人の所へ行ったが、私は年をとったため、交易の帰りに腰が折れてしまった。小オキクルミは私を丁寧に祭り、帰り道を教えてくれた。空知川をさかのぼると、昔切られた切り株があり、そこから神天へあがると私達のカムイオヤカタ(樹木の総大将)の所へ行けるという。そこで言われたとおりに、空知川をさかのぼって行くと、古い大きな切り株があった。そこから神界へ上り、神々からねぎらいをうけた(注5)

◇  ◇  ◇

 ストーリーの前半には、大木の神と2人の人間のやり取りが描かれています。サマイウンクルとオキクルミは北海道各地の説話によく表れるペアで、南西地方では前者が不作法で愚か、後者は知性に富んだ人格者として描かれます(注6)。サマイウンクルは無礼な態度を取ったために木の神を怒らせてしまい、斧を折られてしまいます。その場面の原文は「アニシテ カミヒ アサンケサンケ アハプルカミヒ アヌイナヌイナ(私の堅い肉を表に出し、軟らかい肉を内にかくした)」というものです。つまり、木の神が体の表面を固くしたために、斧が刃こぼれして切ることができなかったのです。木の神は単に意志を持つだけでなく、能動的に振る舞って伐採を阻止することもできる、言いかえれば木の神の不興を買った者は、いかに良い道具を持っていても、木を切ることもできないというわけです。

 ストーリーが展開するにつれて、木の神は船の神となります。そして、老朽化し役割を終えたときには、再び樹木神の世界へ帰って行きます。これはちょうど、先に見たシラッキカムイのケースと似ています。人間の許へ行ったあとしばらくそこにとどまり、やがてまた元の世界へ戻っていくのです。

・樹木のラマッは1つ?

 つぎに、実際に木を切って船を作った際の祈り詞を見てみましょう。伐採から船が完成して使われるまでには大まかに言って次のような過程があり、その時々に祈りをあげます。

 1.伐採前に、木の神へ祈る。

 2.船の製作現場から川辺へ船を引き出す。

 3.進水の前に、川の神へ祈る。

 4.進水の前に、船の神へ祈る。

 

 千歳市に暮らした白沢ナベ氏は、父親が唱えた祈り詞を語り残しています。ここでは、1の伐採前の祈り詞を要約して紹介します。 

◇  ◇  ◇

 ただ今より、あなたを船にいたしますので、固い肉を内にかくし軟らかい肉を外に出してください。それよりまた、あなたはこの大地の上に、新たな木として手を広げ、葉を広げることができましょう。

 神の淑女よ、私があなたを船にいたしましたなら、あなたは新たな神として川面を走り、あなたの懐は、人間達のとった川の魚で満ちることでしょう。(注7)

◇  ◇  ◇

 先ほどの神謡と同じように「固い肉をかくす」といった表現が使われている点が興味深いですね。さて、前段と後段は矛盾しているように見えます。前段は「(たとえここで伐採したとしても)新たな木となって再生するように」という祈願が込められ、いっぽう後段では「人間達の漁を助けて活躍してほしい」と言っています(注8)。伐採された木のラマッが、船の中に宿って漁を助けることは船神の神謡とも一致しますが、そうだとすれば前段の祈願はいささか無理な願いのように思えます。

 じっさいに木を伐採した場合、根が枯れずに、ひこばえが出て再生することはそれほど珍しくありません。そうなると、その木のラマッは船と根のどちらにあることになるのでしょう。実は、この点が動物と植物の大きな違いなのです。

 イギリス聖公会の宣教師J.バチェラー氏は、明治時代中頃から北海道・樺太で布教をしつつアイヌ語やアイヌ民族の生活習慣を記録・刊行しました。バチェラー氏の著書『アイヌの伝承と民俗』のp315には、1本の木の中には複数の魂が宿っており、日のあたる部位には良い魂が、日陰には良くない魂が宿る、と書かれています。

 同じくイギリスから来日し、戦前に平取町二風谷へ移住して信仰や儀礼の研究をしたN.G.マンロー氏も、樹木には複数のラマッが宿るとしています。マンロー氏の記述によれば、樹木には梢、幹、根にそれぞれ「Chinosa-yushi」「Kohosup-kari」「Komkissara-koro guru」という名で呼ばれるラマッが宿り、船材の伐採時には梢のラマッに対して霊送りの儀礼が行われるといいます。(注9)

▲図2 Munro(1996)p116より

 

 実際に再生する可能性のある根や、船となる幹にそれぞれのラマッが存在するとし、用途のない梢部分のラマッには霊送りをする、ということで、よく整理された考え方だといえます。こうした目に見えない世界のことを細部まで理詰めにして考えるところに、アイヌ文化らしさを感じます。

 

おわりに

 

 以上をまとめると、動物と植物のラマッは、よく似たイメージでとらえられている一方、根からの再生・器物としての利用など、植物ならではの生態や利用形態に応じたラマッの在り方が考えられてきたという事が言えます。おそらくは、まず動物のラマッについての思想が生まれ、それが植物に適用されるなかで実情に合うように整理されてきたのでしょう。

 次回は、ラマッについてまた別の話題を取り上げたいと思います。

 

(注1)このとき、ラマッが望む動物になることができるわけではありません。クマ神のラマッは常にクマとなり、アザラシ神のラマッは常にアザラシの姿になります。

(注2)久保寺(1977)所収の「神謡17 戸口の神(貉)の自叙」(pp.124-127)を要約。文中のアイヌ語表記はローマ字表記をカナ表記にし、訳も変更しました。

(注3)クレイノヴィチ(1993)p134を参照。

(注4)『アイヌ民族誌』という本には、シラッキカムイによって占いをすることを「カムイトゥス」と呼ぶと書いてあります。一般的なトゥスは、トゥスクルと呼ばれるシャマンが、自らの守り神の力を借りて行う行為です。それに対し、シラッキカムイによる占いはニウォクやニモクと呼ばれ、誰でも行うことができます。どちらもカムイの力を借りて行う点では近い行為と言えるかもしれませんが、ひとまずトゥスとニウォクは分けて考えておくべきでしょう。

(注5)久保寺(1977)所収の「神謡69 古船の神の自叙」(pp.319-326)を要約。文中のアイヌ語表記はローマ字表記をカナ表記にし、訳も変更しました。

(注6)面白いことに、北海道の北東部地方ではこの関係が逆転、またはサマイェクルが単独のヒーローとして活躍します。

(注7)由良(1995)、pp.86-87より。

(注8)切り株にイナウを捧げて再生を祈る様子は19世紀初頭に書かれた『蝦夷生計図説』の中にも見えています。

(注9)Munro(1996)p106、p115参照。更科源蔵氏の著書にも、樹木には複数の霊魂が宿ることが書かれています。もっとも、聞き取り先等の情報が書かれていないため、バチェラー氏やマンロー氏の研究に基づいて書かれている可能性もあります。

 

参考文献

今石みぎわ・北原次郎太2015『花とイナウ―世界の中のアイヌ文化―』北海道大学アイヌ・先住民研究センター。

久保寺逸彦1977『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』岩波書店。

クレイノヴィチ,E.A.1993(1973) 『サハリン・アムール民族誌-ニヴフ族の生活と世界観』桝本哲訳法政大学出版局。

J.バチェラー著・安田一郎訳 1995『アイヌの伝承と民俗』青土社。

N.G.マンロー著・小松哲郎訳 2002『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会。

由良勇 1995『北海道の丸木舟』マルヨシ印刷

Neil Gordon Munro 1996(1962) 『AINU CREED AND CULT』THE KEGAN PAUL JAPAN LIBRALY vol.4 B.Z.Seligman(ed.) , Kegan Paul International.

(きたはら じろうた)

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

 

 

《図鑑の小窓9》コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」

 

 文:安田千夏

 

 新年が明け、今年は暖冬で雪が少ないとはいえさすがに暖房が欠かせない季節になりました。かつてのアイヌの暮らしでは煮炊きのため、また暖をとるという意味でも生活の中心には炉があり、身近で非常に位の高い火の神様が鎮座するこの場所を中心として生活が営まれていました。

▲写真1 アイヌ民族博物館旧ポロチセの炉

 さて火を焚くことに欠かせない「まき」。「アイヌ語でまきのことは何て言うのですか?」と時々質問されますが、これは話者によって色々です。ただ単に「木」を意味するニ、チクニと言ったり、サッニ、サッチクニ(注1)と言ったり。私は静内地方でまきに対して使うアペネニ(火になる木)という言い方が用途の説明という意味でも的確だと思うので、本稿ではこれに統一することにします。

 焚きつけにするような細い柴のことはアペポクンペ、チャイチャイ、カイクマなどこれまた色々な言い方があります。なかでも柴をカイクマという地域は日高地方、十勝地方、旭川地方、樺太(注2)ですが、ややこしいことにウサギのことをカイクマという地域があるのです。エゾユキウサギのアイヌ語名は通常イセポですが、海岸部で海猟を生業とする人達の間では、猟に出たときに「イセポ」と口にするとウサギに似た白波が立ち猟の妨げになるので、わざわざ別の意味の言葉カイクマに言い換えた一種の忌み言葉であると言われています。ウサギをカイクマと呼ぶ地域の人がよそに行って「カイクマ(柴)を取って来い」と言われ「ええ?ウサギを素手で??」とびっくりしたという話は、アイヌ文化あるあるとして今でも語り継がれているのです。

 口承文芸で男性がエキムネ(山へ行く)と言えば主に猟をすることを指していますが、女性がエキムネというと、山菜採りやまき取り、植物素材の採集を意味していることがほとんどです。家の外にまきを整然と積み上げておくことは、冬が来る前に終わらせておくべき大切な仕事でした。女の子が主人公である散文説話の冒頭でこのように描かれたものがあります。

 

ニナアニケ カ (母は)まきを取る時も
「タ ネノ オカ チクニ 「このような木は
カトゥ ピリカ アペコロ ネ ヤッカ 見た目はいいようでも
プシ ワ ホカオ エアイカプペ ネ ナ はねて火にくべることはできないのだよ。
タ ネノ タ ネノ オカイパプ アナクネ かくかくしかじかなものは
プシマク カ ソモ キ はねることはなく
アペウクノ ワ ピリカプネ ナ」 よく火がついていいものなのだよ」
セコロ ハウェアン コロ と言って
チクニ ネ ヤッカ イエパカシヌ… 木であっても私に教えていた
ペ ネ クス ものなので
ポン ニシケ アキ カネ ワ 小さいまきの荷物を背負って
アウヌフ アオロウヌ コロ  母と一緒に歩いて
アナン アイネ いるうちに
タネ メノコ シリポ アウォシマレ もう一人前の女性の容姿を備えるまでに
ヒネ アナン なりました。
(中略)
シリサク アン ニナアン コロ 秋になってまきを取ると
シリマタ コロ ウパシ ポロ ワ 冬になると雪が多くて
ウパシ トゥム ペカ ニナアン ヒ 雪の中でまきを取るのが
アエトランネ クス 嫌なので
マタ オケレ ホカオ ワ 冬じゅう火にくべて
シリパイカラ コロ ウパシ サン コロ  春になって雪が融けてから
オラ エアシリ ニナアン クニ ネ パテク 初めてまきを取るようにばかり
イキアン ペ ネ ヒ クス していたので
アウヌフ カ タネ エネ イキアニ ネノ 母ももうかつてのように
イキ カ コヤイクシ ペ ネ クス するのもつらそうなものですから
シネン アネ ワ ニナアン ワ 私はひとりでまきを取って
チセ オカリ ポロ ニヒキリ 家のまわりに大きなまきの山を
アカラ 作りました。(34683)(注3)

 

 さてこの話にあるように、アペネニに適している木とそうでない木を見分けるというのは生活に欠かせない重要なスキルでした。文献に目を通すとポピュラーな樹種としてミズナラヤチダモアオダモ(注4)などが上がって来ます。
 アイヌと自然デジタル図鑑ではアペネニの種類についても語られており、それらをまとめると以下の通りでした。(注5)

アペネニに適した樹種 アペネニに適さない樹種
川上まつ子(沙流) イタヤカエデアサダヤマグワ ハリギリハシドイキハダドロノキ
川上シン(沙流) タラノキ
織田ステノ(静内) イタヤカエデアサダ サワシババッコヤナギ
山川 弘(帯広) アオダモヤチダモ ハシドイ


 適した樹種に関しては、全く別の機会に個別の調査で聞いたのにも関わらず、沙流地方の川上まつ子氏と静内地方の織田ステノ氏がイタヤカエデ、アサダと異口同音に答えているところが興味深いですね。これらはなかなか文献を見るのみでは得られない情報です。

 また適さない樹種の理由については、ハリギリ、ハシドイ、キハダ、バッコヤナギに関しては同じ理由、「燃やしたときに火の粉がはねる」というものです。特にハシドイは樹幹が固くて丈夫なので家の柱や墓標に使われ、儀式においても非常に重要な役割を果たす木です。しかし燃やすとなるとその優れているはずの特徴が災いしてはじけ方が半端なく、床に敷いたゴザに火の粉で穴を開けてしまうのでアペネニに適さない木に含まれているのです(注6)。木の利用は適材適所であるというわけですね。

▲写真2 ポロチセ内の家の守護神(上)とハシドイの原材(下)(注7)(アイヌ民族博物館『ポロチセの建築儀礼』(2000)より)

▲写真3 ハシドイの花 (7/20 筆者撮影)(注8)

 そして余談ですが、織田ステノ氏はウルシ類にかぶれない体質であったらしく、若い頃にはウルシを取っても平気でアペネニとして家の中で火にくべていたのだそうです。その時ちょうど親戚のおじさんが家に来て火にあたったところ、おじさんだけ体のあちこちがかゆくなって来て(注9)「おかしい、まるでウルシにかぶれたようだ」と言うおじさんに対しウルシを火にくべたとは言えず、怒られるのが恐くて「ウワ(知らない)!ウルシって何だ?」としらを切り通したという何とも微笑ましいエピソードを残してくださっています。

▲写真4 紅葉するヤマウルシ (10/9 筆者撮影)

 ニナ(まき取り)は力仕事であることはもちろんですが、同時にかなりの部分知識と経験がものをいう作業です。実際にやってみるとアペネニを正しく選んで持って来るのがいかに難しいことであるかというのがよくわかり、木々の葉が落ちてしまう今の季節はなおさらその大変さが身にしみます。用途によって正しく木を見分けるという生活の知恵をさりげなくもあたりまえのように駆使していた今は亡き先人の生活力の高さに改めて感心してしまう冬の森なのでした。

 

(注1)サッ(乾いた)ニ(木)、サッ(乾いた)チクニ(木)。ちなみに同じ話者が場合によってニ、チクニのどちらも使うので、両者にニュアンスの差はないとされています。

(注2)服部1964。

(注3)伝承者は川上まつ子氏。

(注4)アオダモは生木のままでもよく燃える木として知られています。山で焚き火をするときに切ってすぐに火にくべられるので重宝したそうです(更科1942、知里1953)。今年度のイオル再生伝承者(担い手)育成事業では既に検証済。生木のままでもじつに良く燃えました。

(注5)魔を払う意味でわざと独特なにおいのする木を燃やす場合もありますが、ここではあくまでも日常的なまきにするのに適した木という観点でリストアップしました。

(注6)ドロノキは煙ばかりが出るので適さない、サワシバはアイヌ語名が「パセニ(重たい木)」と言い、名前の通り重たくて運ぶのが大変というそれぞれに納得できる理由があります。

(注7)満岡1924に、白老地方の事例として家の宝壇がある場所に家の守護神の木幣を安置します。中心にチセコロカムイ、その両側にイソプンキヨカムイとイレスプンキヨカムイを配し、合わせて3柱の神を祭るとあります。前2柱はハシドイ(ドスナラ)、後1柱はイヌエンジュで作ると書かれていますが、現在のポロチセでは全てハシドイで作製しています。

(注8)ライラックの和名はムラサキハシドイと言い、ハシドイの近縁種です。ハシドイは初夏「リラ冷え」の頃に咲くライラックより遅れて盛夏に白い花を咲かせます。

(注9)ウルシのかぶれ物質はウルシオールと言い、木に接触するとかぶれを起こすだけでなく、かぶれやすい体質の人は木に近づくだけでも身体中がかゆくなるといいます。この場合火にくべることによってその性質が助長したということは想像に難くありません。

 

<参考文献、データ>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
アイヌ民族博物館『ポロチセの建築儀礼』(2000年)
更科源蔵『コタン生物記』北方出版社(1942年)
更科源蔵、更科光『コタン生物記 1樹木・雑草篇』法政大学出版局(1977年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第一巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
服部四郎『アイヌ語方言辞典』岩波書店(1964年)
満岡伸一『アイヌの足跡』真正堂(1924年)

(やすだ ちか)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

 

 

 

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」(ウトナイ湖)

 

 アイヌ民族博物館で行われている伝承者(担い手)育成事業受講生の新着写真等を紹介します。

 

▶木幡弘文の一枚


(写真)ネズミの“跡” アイヌ語名:エルム/erum

 ネズミの足跡には特徴があり足の他に尻尾の跡も有るのが特徴です。しかし今回のこの“跡”はアニメみたいな残し方をしていましたので今月の1枚にしました。トムに追われていたのかな。

 ネズミのアイヌ語名は方言差や地域ごとに違いがあり「エルムン/erumun」や「エレム/erem」など様々あります。詳しくはアイヌと自然デジタル図鑑で「ネズミ」と検索してみてください。

(木幡弘文)

木幡弘文のアルバム

 

▶新谷裕也の一枚

(写真)マヒワ(画像クリックで全体表示)

 ヤチハンノキ(ケネ)の雌花をついばむマヒワの群れ、アイヌ語名はないが、かわいい写真が撮れたので私の今月の一枚に選びました。冬のヤチハンノキに黄色い花が咲いているようです。

 

(新谷裕也)

新谷裕也のアルバム

 

▶中井貴規の一枚


(写真)エゾユキウサギの足跡

 一つ、一つ、二つと並んでいるウサギの足跡が、昔遊んだケンケンパのように見えて面白いと感じました。
 足跡が一つの部分が前足の跡で、二つ並んでいる部分が後足の跡です。
 ウサギは後足が前足より前に着くので、進行方向はこの写真の右から左のようです。

(中井貴規)

中井貴規のアルバム
 


 

▶山本りえの一枚


(写真)シロハラゴジュウカラ アイヌ語:シエチカプ

 木を下に下っている鳥を見たら、ゴジュウカラだ!とすぐに気が付けます。ゴジュウカラはキツツキの仲間でも唯一、木を垂直に下れる鳥です。そんな才能があって小さくて可愛い鳥なのに、なぜかアイヌ語がsiecikap(si 糞 e食べる cikap鳥)。糞食べないのにかわいそうな名前です。

(山本りえ)

山本りえのアルバム
 


 

▶山丸賢雄の一枚


(写真)シカの足跡

 ウトナイ湖へ行きました。雪が積もり冬ならではの様子が見られました。動物の足跡もその一つです。今回の一枚はシカの足跡です。足跡を辿るとその動物の行動が分かります。この写真は、水を飲もうとしてこの先にある水溜りへ行くときの足跡でしょう。しかし、水溜りが凍っていて水が飲めずに去ってしまった悲しい足跡もありました。

(山丸賢雄)

山丸賢雄のアルバム
 


 

▶山道ヒビキの一枚


(写真)ヨシ アイヌ名:supki

 久々の自然散策で寂しそうに一本立ちしているヨシがありました。
 アイヌ文化の利用法はすだれの材料にしたり、屋根や壁を葺くのに用います。
 また、沙流地域の口承文芸に沙流川の情景を語ったものがあり、ヨシが登場します。「オニガヤの原っぱは手前にしげり、ヨシの原っぱは奥にしげる」
という言葉のとおりオニガヤと比べ川から離れたところに生えるそうです。
 河川付近にはどこにでもあるため、あまり注目されない植物ですが、見ていると好きになりました。

(山道ヒビキ)

 

山道ヒビキのアルバム

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

 

《伝承者育成事業レポート》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

 

 

   

 

《資料紹介》映像で見るアイヌの酒礼

 

 文:安田 益穂

 

1.はじめに

 

 10月号11月号では「映像で見る挨拶の作法」と題し、男性のオンカミや女性のライメクなど挨拶の所作を中心にご紹介しました。こんにちこうした伝統的な挨拶の作法が見られるのは主に儀式の場ですので、儀式の記録映像もいくつか取り上げました。その際、「献酬」(注1)という酒の作法(=酒礼)が登場しましたが、簡単明瞭に説明するのが難しいので多くは触れませんでした。

 さて、昨年11月1日に実施した秋のコタンノミ(春秋の大祭)でのこと、献酬の合間に若手職員から「よその儀式に行っても献酬するのを見たことがないのですが、献酬って要はトゥキ(杯)の数を節約するためですよね?」という話になりました。(注2)

 「うーん……それはどうかなあ。正式か略式かという違いだと思うけど」と私。

 この質問自体、わかる人にしかわからない話で、その答えもやはり、わかりやすく説明する能力を私は持ち合わせていないのですが、今回はそこをあえて献酬を中心に、アイヌの酒礼のいろいろとその意味について、もう少しだけ映像資料の助けを借りて考えてみたいと思います。(注3)

 

2.三つの酒礼

 

 本題に入る前に、儀式の基礎から知りたい方は、まず以下の資料を一読することをお勧めします。現在当館で実施している儀礼のポイントをイラストを用いてわかりやすく1ページにまとめて解説していて、その後の話を理解する上で大いに助けになると思います。

▶︎資料1 北原次郎太「カムイノミの配座と所作」(PDF1.2MB)
 (月刊シロロ12月号「《シンリッウレシパ9》イクパスイ」付録)

 さて、冒頭の会話の焦点は、①杯を持つ、②酌を受ける(注4)、③祈り、飲む(注5)、という3つを、誰が行うか、ということです。主には3つの方法があります。

⑴ 祈り手が自分で杯を取り、酌を受け、祈り、飲む。

⑵ 酌人(または祭主の代人)が祈り手に杯を渡し、祈り手が酌を受け、祈り、飲む。

⑶ 対座する人が杯を持ち、酌を受け、祈り手に渡し、祈り、飲む。(=献酬)

 

(1)祈り手が自分で杯を取り、酌を受け、祈り、飲む

 当館では通常この方法で実施しており、資料1も、あるいは冒頭の若手職員がいう「よその儀式」の方法もこれです。祭主の「イヨマレ ヤン(酌をしなさい)」の声を合図に、列席者は自分の前にある膳からイクパスイ(捧酒箸)がのった空の杯を取り、酌人が上座から順に酌をして回ります。酌を受けた人は、自分で祈り、自分で飲みます。セルフサービスですね。

(2)酌人(または祭主の代人)が祈り手に杯を渡し、祈り手が酌を受け、祈り、飲む

 一方⑵の方法も、当館の映像資料に時々現れます。多くの場合、儀式の主催者(またはその代人、酌人)が来賓や年長者に対して杯を取って渡します。和人の酒席でも、来客や目上の人に「おひとつどうぞ」と杯を渡して酌をすることがありますが、同じだろうと思います。招ばれた席で、勧められもしないのに自分で杯を取るのはスマートではありませんものね。

 以下は、アイヌ民族博物館地鎮祭(1983年)の一場面です。葛野エカシはおそらく自分で杯を持って酌を受けたと思われますが(=⑴)、その奥に座る静内地方からの来賓や白老の長老格の年配者には、主催者側の濱弥一郎専務理事が杯を持たせ、若い酌人が順々に酌をしています。 酌を受けた人は自分で祈り、飲みます。 (注6)

▲動画「アイヌ民族博物館地鎮祭」より

 また、「白老コタンのアイヌの生活」(1925年撮影)でも、新婦の家を訪ねた新郎の父親に対し、酌人が杯を持たせて酌をしています。(注7)

▶︎動画「白老コタンのアイヌの生活」(1925年撮影)より「婚礼」の一場面

 

(3)対座する人が杯を持ち、酌を受け、祈り手に渡し、祈り、飲む(=献酬)

 一方、⑶献酬の方法では、祈り手と対座する人が杯を持ち、酌を受け、祈り手に渡します。受け取った祈り手は、その杯で祈り、飲みます。これを対座した南北の2列で交互に繰り返すのが献酬です。 11月号の動画4でもご紹介しました(以下再掲)。

▲動画「白老コタンのアイヌの生活」(1925年撮影)より「婚礼」の一場面

 次の図は久保寺逸彦氏が沙流地方の伝承者・二谷國松氏から聞き取った新築祝いの図で(久保寺逸彦1968)、1〜11の黒丸は列席者を表します。儀式によって異なる部分もありますが、大きくは変わりません。(祭神は地方や家系によって異なります)

 次の「第12図」は南側の列から北側の列へ一斉に杯を渡します(トゥキマコライェ)。「第13図」は逆に北側の列から南側の列へ杯を渡します(トゥキサオライェ)。この二つを合わせて献酬(トゥキライェ)というのです。

 

 以下の動画は、葛野辰次郎氏が祭主を務めた苫小牧市生活館の新築祝(1990年)の一場面で、古式舞踊を披露するために当館職員が招待された際に、主催者の許可を得て8ミリビデオで撮影したものです。アイヌ民族博物館新築祝い(1984年)やポロチセの新築祝い(1997年)と同様に、①ハルエオンカミ(供物による拝礼)、②シラリエオンカミ(酒粕による拝礼)を行った後、③酒杯による火の神への拝礼を行いました。ただ、当館で実施した葛野氏の儀式と異なり、この映像では自分で杯を取らず、葛野氏の指示により、対面する長老格の男性が酌を受け、葛野氏へ杯を渡しています。また受け渡しの際には、二人同時に杯台(天目台、タカイサラ)を擦っています(注8)。この後、葛野氏の指示により、他の南側の列席者も同様に杯を持ち、酌を受け、北側の列席者へと受け渡しが行われています。上図12のトゥキマコライェです。葛野氏の献酬の映像は当館には他になく、大変貴重な映像です。

 

 また、以下の白老の映像では、南列の列席者が右後ろから酌を受け、北側へ杯を受け渡す際、イクパスイ(捧酒箸)の先をちょんと酒に浸してから受け渡しが行われています。これは現在、当館のコタンノミでも踏襲している献酬の作法です。

 

 

3.まとめ

 

 以上、3つの酒礼を見てきました。これらはどれが正しいとかではなく、昔から3つとも存在し、場に応じて使い分けてきたのではないかと思います。そして⑴が最も略式で、⑶が最も正式なのだろうと思います。コタンノミ(春秋の大祭)やイヨマンテ(熊送り)、チセノミ(新築祝)など大きな儀式では⑶、そこまで格式張らないものの来賓を招いて行う儀式では⑵の方法も採用され、日常的な儀式は⑴、つまりほぼセルフサービスに近い形が取られたのではないかと想像します。儀式や酒宴は社交が大きな目的の一つですから、簡単であることが良いとは限りません。差しつ差されつ礼を尽くす、一見面倒に見える所作にこそ意味があるとも言えます。

 和人が酒を飲むときにも、手酌から式三献と、いろんな方法があります。今では自動販売機でカップ酒や缶ビールを買えば、誰とも関わることなくお酒が飲めますが、結婚式では三々九度が生きていますし、宴会では昔ながらの乾杯や差しつ差されつの風景が見られます。時代が下るにつれて次第に簡略化され、本格的な酒礼に接する機会が減ってはいますが、その点はアイヌの儀礼にも同じことが言えるのではないでしょうか。

 


(注1)杯をやりとりすること。酒を飲み交わすこと。アイヌ語でトゥキライェ等という。

(注2)列席者全員が一斉に杯を持つと人数分の杯が必要になるが、2列に対座した片側ずつ交代で持つと半数の杯で済む。逆に所要時間は倍になる。
 満岡伸一『アイヌの足跡』には以下の記述がある。

  四個一組としてしまってあるが、酒宴のときは、向き合った二列の片側の人数だけ杯を出せばよい。仮に片側五人ある場合、一組と一個出せばよいが、彼らの習慣として必ず二組八個出して、使用しない三個は、出したままその場に置くことになっている。そして各杯には一つ一つイクパスイを載せて、空杯のまま来客の前に据える。

(満岡伸一『アイヌの足跡』第九版、p.89)


 確かに杯の個数が半分で済む点に言及しているが、五人でも八個出すなど、数の節約にならない記述もある。主眼は杯の節約ではなさそうである。

(注3)儀式の作法にも地方や伝承によって違いがある。儀式の場での論争や喧嘩の多くは、昔からこの作法に対する解釈の違いだった(久保寺逸彦、葛野辰次郎の両氏とも同じことを述べている)。以下は白老や日高地方の記録や伝承を前提としているが、その中にも多くの相違点があり、館外で実施されている異なる方法を否定するものでは全くない。

(注4)儀式の場では「手酌」ということはなく、必ず酌人(イヨマレクル)または酌女(イヨマレメノコ)が列席者の間を酌をして回る。

(注5)酒を飲むという行為は、常に神への祈りを伴った。「祈る」「飲む」は不可分一体のもの。自宅で酒を飲む場合でも、イクパスイ(捧酒箸)で炉火に捧酒するのはもちろん、大正・昭和と時代が下って居酒屋の店頭で飲むような場合にも、割り箸を借り受け、自分のつき神へ捧酒してから飲んだという。(満岡伸一『アイヌの足跡』第9版、p.73)

(注6)酌人は祈り手の(右)後ろから酌をするのが普通だが(資料1参照)、この映像では前から酌をしている。葛野氏はその点にこだわらない。前でも右後ろでもいいが、左後ろから酌をしようとすると右後ろからするようにと言う。白老の古い映像や写真でも、前から酌している例が少なくない。また、⑵の方法は、杯を置いた膳が遠くて祈り手が自分で取れない場合にも他者が取って渡す場合がある。

(注7)「第2章 婚礼」の章は、監督・八田三郎博士の依頼による再現映像であり、酌も捧酒も形だけで実際には行っていない(神を欺くことになるため)。一方、「第5章 熊祭」は本当のイヨマンテ(熊送り)を実施し記録している。

(注8)本誌10月号で紹介したウルイルイェ(互いの体を撫であう挨拶)を連想させる。互いの体ではなくトゥキ(酒杯)を撫であう点は異なるが。


参考文献

アイヌ民族博物館(2000)『伝承事業報告書 ポロチセの建築儀礼』

アイヌ民族博物館(2002)『伝承事業報告書2 イヨマンテ-日川善次郎翁の伝承による-』

アイヌ民族博物館(2002)『伝承記録7 葛野辰次郎の伝承』

久保寺逸彦(1968)「アイヌの建築儀礼について―沙流アイヌよりの聴書き」『北方文化研究』第3号、北海道大学(久保寺逸彦著作集1、草風館、2001年所収)

満岡伸一(2003)『アイヌの足跡』改訂9版、アイヌ民族博物館(1924年初版)

(やすだ ますほ)

 


[トピックス バックナンバー]

「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

[資料紹介]

《資料紹介》映像でみる挨拶の作法1 2015.10

《資料紹介》映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

 

 

 

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