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月刊シロロ

月刊シロロ 9月号(2015.9)

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)》第7回 北方の楽器たち(4)

 

 文・絵:北原次郎太 (北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

はじめに

 
 前回はツィター属の楽器としてトンコリを取り上げました。また、同じツィター属に分類される琴などを例に、楽器の形状と演奏形態の多様な関係を見ました。その中は、トンコリに似た奏法を持つ楽器もいくつかありました。

 さて今回は、アイヌ社会に到来したリュート属の楽器のうち、これまであまり紹介されてこなかった三味線型と胡弓型の楽器を紹介することにします。→付記

 

1.アイヌ社会に到来したリュート属の弦楽器


 1797年に小玉貞良が描いた『蝦夷風俗図』は、アイヌ社会の弦楽器を描いた絵画でも最古に属する物で、そこに描かれているのはリュート属の楽器(胴にネックが連結した楽器)です(図1)。絵には弦が描かれていません。糸巻きの形から見ると4弦のようです。バチや弓が描かれていないため奏法はわかりません。逆三角形の胴には板が張られ、フレットの無い棹が伸び、糸蔵の上部には竜のような生物の顔が彫り出されています。


▲図1 小玉貞良『蝦夷風俗図』(1797)に描かれた楽器

 これと似た楽器は、シーボルトが持ち帰った千嶋春里の作品にも描かれています(図2)。こちらは人物が楽器を構えて演奏している図です。楽器の形状は貞良が描いたものとよく似ており、貞良の作品を模写したものかも知れませんが、胴は板ではなく皮を張った物のように描かれています。楽器を演奏する人物の仕草はトンコリのそれのようであり、楽器の形状とあまり合っていないように見えます。


▲図2 千島春里の描いた楽器 『アイヌ絵を聴く』より

 貞良が描いた生活用具や習慣の中には、時に不可思議な物も含まれますが、大半は現存する民具資料や他の文献と照合可能なものであり、ある程度当時の様子を反映していると考えられます。少なくとも絵師達は、これらを描く元となったリュート属の楽器がアイヌ社会に存在すると考えていたのでしょう。

 

2 北と南から-三弦到来-


 谷本一之氏は、幕末から明治にかけての紀行文等の中から、三味線を模した楽器が千島周辺で用いられていた例を数例あげています。

 1804(文化元)年に千島列島南部のエトロフ島に滞在した山崎半蔵によれば、同地では冬の間を漫然と過ごすことを嫌って「細工心得」のある者が「三線」を作り、次第に数を増して普及していたとあります。昼前は武芸に励み、午後からは楽器を楽しんだと言います。また、高田屋の舟子としてエトロフ・クナシリを往復していた惣兵衛という人物からの聞き書きには、1807(文化4)年頃、同地に三味線や太鼓ほか諸楽器が持ち込まれており、アイヌもこれらを聞いて楽しんだ、とあります。谷本氏は、このようにして持ち込まれた三味線が、アイヌにも受容されたと推測しています。

 1888(明治21)年に色丹島や北海道東部を旅したR・ヒッチコックの記録は、谷本氏の推測を裏付けるものと言えます。彼は、シコタン島で対面したアイヌが「ロシア風の形式が認められる」楽器(パラライキ)を持ち、更にこれとは別に「明らかに日本人の三味線を模倣した、別の形の楽器を作っていた」と記しています。

 アイヌ社会内部の伝承にも、三味線がアイヌによって受容され、自文化の一部に位置づけられていた様子がうかがえます。以前にも紹介した口琴の起源譚は、実は後半が三味線の起源譚になっています。

 「(兄が)又船に乗って海に出たとき、海から三味線をもったアムパヤヤ(タラバガニ)を捕った。兄は、妹に三味線を渡してアムパヤヤを海に放した。カニムックルや三味線はこれからアイヌに伝わったものだ。元来三味線、カネムックルはオタスッのカムイカラペ(神の造ったもの=神宝)だということである」(釧路春採の伝承)

 文中のオタスッとは村の名前です。ここに住んでいた伝説上の男性オタストゥンクルは、様々な生活文化を創造した、あるいは最初に実践してみせることによってアイヌの基本的な生活様式を作り出した人物とされます。ここでも、オタストゥンクルが最初にこれらの楽器を入手し、アイヌに広めたという形の起源譚になっているのです。このような起源譚が語られるという事は、三味線がアイヌに受容され、かつその起源を説明する必要が生じているということですから、少なくとも数代を経ているのではないかと考えられます。関連する記録がそれほど多くはないことから、三味線の受容は局所的なものであったかもしれませんが、貞良の絵などを考え合わせると、18世紀中頃から末にかけてリュート属の楽器が南からアイヌ社会に入ってきたようです。

 

北からも渡ってきた三線

 本州の三味線は、琉球の三線が原型とされます。1562年に堺に渡った三線は、琵琶法師澤住検校によって琵琶のバチで弾かれ、現在につながる三味線のスタイルが作られたと言います。また、琉球の三線は、そのルーツをたどると、中国の三弦に行きつきます。三弦は13世紀の元朝の頃に現在の形が確立されたと言われています。地方によって大きさが異なり、琉球には南方の小三弦が福建省からもたらされました。時期については諸説ありますが、最も古いものでは1392年に福建省の職能集団が伝えたとされています。


▲図3 中国の三弦 『中国楽器図誌』より

 ところで、北方の大三弦はアムール河流域の諸民族を通じて、北からサハリンに渡ってきたようです。図4は、松田伝十郎の『北夷談』に描かれた「スメレンクル」の「三弦鼓器」とされるものです。「スメレンクル」とは、ニヴフの他称の1つと考えられます。円形の胴に魚皮を張り、棹の先には3本の糸巻きが見えます。側に置かれているヘラ状のものはバチでしょう。


▲図4 スメレンクルの三弦 左『北夷談』 右『北夷紀行』より

 『北夷談』にはいくつかの写本があり、楽器は同形ですが、バチの形は資料によって異なります。谷本氏が示している『北夷紀行』に描かれたものは、ヘラの先端がとがっています。こうした楽器が中国王朝に近い地域に暮らすトゥングース系諸民族などを介して、北方からニヴフにもたらされたと考えられます。おそらく樺太アイヌも、とくに北よりの地域の住人は、この楽器を知っていたでしょう。

 三弦のルーツを更にたどると、キルギス系の「火不思」や、チベットのダムニェンという楽器につながると言われています。ここにもアジア人々の東西交流の中で醸成された文化がアイヌ社会とつながった、その点の1つが三弦だといえるでしょう。

 


▲図5 火不思 『中国楽器図誌』より


▲図6 ダムニェン



▲ダムニェンの演奏 youtubeより

 

3 胡弓型擦弦楽器「カ」


 上記のような撥弦楽器に加え、もう1つリュート属の楽器があります。知里真志保氏が記録した胡弓型の擦弦楽器「ka」です。同氏が残した調査ノート№247に、1951年、美幌町での菊地儀之助氏からの聞き書きがあり、「ka」の図と解説が記されています(図7)。

▲図7 カ 知里氏の図に基づく概念図

 名称の「カ」は糸を意味するアイヌ語で、一般的にはトンコリの、北海道での名称とされます。しかし、ここに描かれているカはトンコリとは全く異なる形をしています。本州産の「itanki(椀)」に「chepkap(魚皮)」を張って胴とし、棹を通します。棹の上部には背面から1本のペグを挿し、三味線の弦を「二本」張ります。ペグが1本しかないことから考えると、三味線の弦を2本取りにして張るということでしょうか。この種の楽器は、ペグの少し下で糸や硬質な素材を使って弦を棹に引き寄せる「千斤」と呼ばれる部位がありますが、この図にはそれらしきものは描かれていません。胴の上に置かれる駒もありません。

 馬(道産子)の尾を張った「ku(弓)」で演奏します。ここで重要なのは、演奏の際、ヨコ糸(弓の弦)が棹とタテ糸(棹の弦)を通り、ヨコ糸が内側からタテ糸を擦ると書かれていることです。

 知里氏の図を元に、カを復元してみました。プラスチック椀を胴に用い、皮は白老産のカスベ(ソコガンギエイ)を用いました。カスベの皮からスクレーパーで残った身やトゲなどを取り除き、生皮のまま周囲にあけた穴に紐を通して、全体が均等に張られるように締め、乾燥させました。後に一度干してから水に戻した皮でも製作してみました。皮が大変薄いので、破れるのを防ぐために、皮の上から布を重ね張りする方法も試みました。

 タテ糸は三味線弦(絹弦)やナイロンテグス、スチール弦を用い、ヨコ糸は北海道大学静内研究牧場から提供いただいた馬の尾、市販の二胡キットについていたナイロン糸を用いて試作しました。


▲図8 カ(製作)

 

4 カのルーツをたどる


 さて、カの記録は現在のところ美幌町にしか見られませんが、こうした楽器が1地域にのみ存在したとは少々考えにくいことです。また、「歌も曲もない、子供の遊び」とされていますが、馬の尾も三味線弦も外来の素材であること、弓の当て方が少々特殊なことを考えると、本来大人が弾く楽器としてあったものを子供用にも作ったと考える方が妥当でしょう。

 次に、カとの比較のために、アイヌ民族に隣接した南北の民族と、更にその隣接民族の楽器を眺めてみましょう。最初に思い浮かぶのはニヴフ民族のトゥンクルンです。トゥンクルンは名称の上からもトンコリとの関連が明らかであり、アイヌ民族の間でも「馬トンコリ」の名で知られていました。この通称は、弦に馬の毛が使われているためでしょう(図9)。

 胴はシラカンバの皮を曲げて円筒を作り、カジカなどの魚皮や獣皮を張ります。背側は空いています。そこに、木製の棹をさし、背面からペグを通します。ペグの少し下に糸を巻いて絞り、千斤としています。



▲図9 ニヴフのトゥンクルン 上 北大植物園 9484  下 国立民族学博物館 H0023756

 一般的には1弦で用いることが多いのですが、国立民族学博物館の収蔵品にはペグの穴が2つ空いた資料があります(図10)。実はこの資料は、現在の台帳の上では「柄杓」という資料名になっています。収集の過程で混乱があったようです。ですから、この資料がニヴフの物と見なせるかどうかは検討を要しますが、そうであるとすれば、かつては2弦のトゥンクルンが用いられることもあったことが推測できます。

▲図10 二弦(?)のトゥンクルン 国立民族学博物館 K0002715

 トゥンクルンの興味深い特徴の1つは、棹の長軸に長い溝が彫られていることです。これによって、棹の大部分は円筒を半割にしたような断面を持つことになります。ニヴフ音楽を研究したマンチェバ氏によれば、この溝には倍音を生む効果があり、他の胡弓型楽器には見られない特徴だと言います。インドのサリンダなども、胴の一部に皮を張らずに開口したままになっていますが、これに通じるものがあります(図11)。


▲図11 サリンダ(インド) 『東洋民族の音楽』より

 

 次に本州の胡弓(こきゅう)、琉球の胡弓(クーチョー)です。三線と三味線については、琉球から本州という伝播経路が定説となっていますが、胡弓については定まった説がないようです。胡弓(クーチョー)は胴にヤシの実の殻が用いられていたとされることから、南方とのつながりが想起されます。

▲図12 琉球の胡弓(クーチョー)

 

▲図13 本州の胡弓(こきゅう)

▲胡弓(こきゅう)の演奏 youtubeより

 

 トゥンクルンも胡弓も大陸に分布する同系統の楽器につながっていくことは確実です。大陸には非常に多くの楽器がありますが、ここでは二胡(漢民族)、ヘグム(韓国)、四胡(モンゴル)、ピワン(チベット)を図示しておきました。これらの楽器相互の歴史的関係については仏教大の小野田俊蔵氏の論考があります。


▲図14 二胡(漢民族)

▲二胡の演奏


▲図15 墜胡(漢民族)



▲墜胡の演奏 youtubeより

▲図16 ヘグム(韓国)

▲ヘグムの演奏 youtube.comより
 

▲図17  四胡(モンゴル)

▲四胡の演奏 youtubeより
 

▲図18 ピワン(チベット)


▲youtubeより


▲ラオスの胡弓型楽器の演奏 youtubeより

 

 ここでは、ペグ(糸巻き)の取り付け方と弓の当て方に注目して比較します。表1にまとめた通り、カと同じく棹の背面からペグを挿すものはニヴフ、中国の二胡、モンゴルの四胡、チベットのピワンです。これに対し、中国の墜胡や、琉球・本州の胡弓は棹の側面からペグを挿します。

 弓の当て方では、タテ糸の間に通す中国系の楽器が近いと言えるでしょう。これに対し、もっとも近接したニヴフや本州の楽器は弓を外から当てる点で異なります。

 従って、カにもっとも近いのは、二胡系統の楽器と言えます。恐らくカの伝播は北回りルートをたどって、2弦楽器として入ってきたのでしょう。弦の数は、奏者の意図によって変化しやすく、例えば琉球の胡弓は、元来3弦だったものに近代になってから1弦が加えられ、現在の形になりました。おそらくトゥンクルンもカも、当初2弦だったものが簡略化されて1弦の物が作られたのではないでしょうか。その際、ニヴフは外側のタテ糸を、アイヌは内側のタテ糸を取り去った、と考えればこうした状況を説明できそうです。

 さて、カで演奏されていたのはどのような音楽なのでしょうか。弓奏の楽器は音を継続して長く出し続けることができ、ビブラートを駆使して人の歌声に近い音を奏でることを得意とします。このため一般にリズムよりはメロディを担う楽器として用いられ、独奏のほか歌の旋律に合わせて演奏されます。

 今回は、試みに沙流地方のヤイサマネナ「即興歌」の旋律を演奏してみました。

 カによる演奏例 ヤイサマネナ MP3 700KB

 

 

5.おわりに


 今回は、千島のパラライキには触れられませんでしたが、これまで相対的に知名度の低かった三味線型と胡弓型の楽器を取り上げました。これらの楽器があまり注目されなかった理由としては、「アイヌの楽器=アイヌ社会で独自に用いられた楽器」という研究者の意識が先行するあまり、外部社会から比較的近年取り入れられた楽器は検討の外側に置かれてきたということが考えられるでしょう。そのために、近代にはトンコリの曲目にロシア音楽を模倣したものが見られることや、尺八や三味線、ヴァイオリンを習得して在来の音楽や日本民謡と組み合わせて楽しむなど、自由かつ新しい音楽的状況が展開してきたことが軽視されてきました。今後の研究では、こうした固定的な視点を脱却し、アイヌ社会に展開した音楽文化全体を対象とすることが求められます。

 なお、この記事を描くにあたり、次の方々のご協力をいただきました。資料調査にご協力くださった北大植物園の加藤克氏、馬尾を提供してくださった北大静内研究牧場准教授の河合正人氏、カスベの皮を提供してくださった白老漁協と岡田恵介氏、加工・皮張りに協力してくださった山道陽輪氏、マンチェバ氏の貴重な論考を提供してくださった丹菊逸治氏、翻訳の労を担ってくださったツァゲールニク タツィアナ氏に御礼申し上げます。

付記

 また、形状の面でトンコリに似た楽器としては、これまでにハンティのナルスユクやトルコのカラデニズケメンチェが挙げられています。このほかにもユーラシアの各地や島嶼部には、トンコリに似た形状をもつ興味深い楽器が散見します。

 トンコリと同じく、ネックを持たない撥弦楽器として、萱野茂アイヌ文化資料館にも収蔵されているボルネオのサペや、フィリピンのクディヤピなどがあります。これらは、長い胴に、糸蔵がついた形をしており、胴の上にフレットがあります。クディヤピは2弦、サペは3本の旋律弦と1本のドローン弦を持ち、演奏の際は体の前にかかえ、フレットを抑えて演奏します。クディヤピはサペと同じく前に抱えて演奏するほか、台の上に横たえて演奏することもあるようです。肩の上にかついで曲弾きをする所は中央アジアの楽器を思わせます(ちなみにトンコリも肩に担いで演奏することがあります)。

▲ボルネオのサペ(sape) youtubeより


▲図19 フィリピンのクディヤピ(kudiyapi) 『東洋民族の音楽』より

▲クディヤピの演奏 youtubeより

 また、北欧のノルウェーにもランゲレイクというツィター属の楽器があります。8本の弦のうち、1本だけを旋律弦として使い、他はドローン弦です。机の上に安置し、ピックを使って演奏します。横たえて演奏するため、糸蔵が胴の両端に作り出された物もあります。また、糸蔵の先端にはいくつかの形状があります。中には顔が彫られたユニークな例も。


▲図 20 ノルウェーのランゲレイク(langeleik)



▲ランゲレイクの演奏 youtubeより

 図21は、琉球のクバ三線です。子供が遊びのために作ったもののようで、30㎝ほどの小さなものです。一般的な三線とは大きく形が異なり、ほぼまっすぐな胴に、2つのブリッジを置き、バチを用いて演奏するようです。


▲図21 クバ三線

 

参考文献
(財)アイヌ民族博物館2005『西平ウメとトンコリ』。
沖野慎二 1994「アイヌ民族に“うなり板”は実在したか?」 『北海道立北方民族博物館研究紀要』3号、北海道立北方民族博物館。
金谷栄二郎・宇田川洋1986『樺太アイヌのトンコリ ところ文庫2』常呂町郷土文化研究同好会。
北原次郎太2003「トンコリの戦後史-1945年〜1977年を 中心に-」『社会文化科学研究』6 千葉大学大学院社会文化科学研究科。
北原次郎太(編)2013『和田文治郎 樺太アイヌ説話集』1、北海道大学アイヌ先住民研究センター。
北原次郎太(編)2014『和田文治郎 樺太アイヌ説話集』2、北海道大学アイヌ先住民研究センター。
北原次郎太(ciwrantay)2015「hemata kusu ene kacotaata=anihi」深澤美香・吉川佳見(編)『parunpe』第10号、パルンペ同好会。
金城厚2006 『沖縄音楽入門』音楽之友社。
金田一京助・杉山寿栄男『アイヌ工芸』北海道出版企画センター。
篠原智花・丹菊逸治2009「サハリンの口琴再考」『itahcara』第6号、itahcara編集事務局。
甲地理恵
2011 「アイヌ音楽の録音・録画のあゆみ 第1回 音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(1)」『アイヌ民族文化研究センターweb連載 フィールドから・デスクから』http://ainu-center.pref.hokkaido.jp/11_02_001.htm
2011 「アイヌ音楽の録音・録画のあゆみ 第2回 音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(2)」『アイヌ民族文化研究センターweb連載 フィールドから・デスクから』http://ainu-center.pref.hokkaido.jp/11_02_002.htm
平良智子・田村雅史ほか編2007『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承 歌謡・散文編』四宅ヤエの伝承刊行会。
直川礼緒1994「口琴の美8 ハバロフスク地方ウリチ地区、ロシア」『口琴ジャーナル』No.8 日本口琴協会。
松浦武四郎1969『近世蝦夷人物誌』(谷川健一(編)『日本庶民生活史料集成第4巻 探検・紀行・地誌(北辺篇)』所収)株式会社三一書房。
谷本一之2000『アイヌ絵を聴く 変容の民族音楽誌』北海道大学図書刊行会。
千葉伸彦2011『久保寺逸彦の収録したトンコリ楽曲の基礎資料(五線譜を含む)』(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構平成22年度研究助成事業成果品)。
知里真志保1973(1948)「アイヌの歌謡(第一集)」『知里真志保著作集』2、平凡社。
1973(1952)「呪師とカワウソ」『知里真志保著作集』2、平凡社。
藤村久和・平川善祥・山田悟郎(編)『北海道開拓記念館調査報告第5号 民族調査報告書 資料編Ⅱ』北海道開拓記念館。
R.ヒッチコック著 北構保男訳1985『アイヌ人とその文化』六興出版。
桝谷隆男1997「楽器学から見た狩猟用具-鹿笛概説(その2)」『アイヌ文化』21号、(財)アイヌ無形文化伝承保存会。
桝谷隆男1997「樹皮トランペット型鹿笛の一考察:動物の擬声を作りだす囮笛と音楽の起源」『北海道立北方民族博物館研究紀要』6号、北海道立北方民族博物館。
W.P.マルム著 松前紀男・村井範子訳1971『東洋民族の音楽』東海大学出版会。
МАМЧЕВА, Наталья (1996) Нивхская музыка как образец раннефольклорной монодии, Южно–Сахалинск
 大野遼 「大野遼のアジアの眼 第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その2」
        http://www.lait.jp/serial/serial_asiaseye388.html
     「大野遼のアジアの眼 第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その9」
        http://www.lait.jp/serial/serial_asiaseye397.html

 

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

 

 

《ことばからみたアイヌ文化と自然1》アイヌ語の植物名を再考する

 

 文・写真:高橋靖以
      
(北海道大学アイヌ・先住民研究センター博士研究員)

▲エゾエンゴサクの花(北海道大学構内にて)

 

 「アイヌと自然デジタル図鑑」にはアイヌの植物利用に関して膨大なデータが収録されています。また、『月刊シロロ』の既刊号においても植物に関連する記事が豊富にみられます。そこで、今回はアイヌ語の植物名について改めて考えてみたいと思います。

 アイヌ語の植物名について、知里真志保(1943[1973]: 138-139)は次のような指摘をおこなっています(知里(1953)にも同様の見解がみられます)。

 実を云へば、アイヌ語に於ては、厳密な意味では、木の名も草の名も本来存在しないのである。かう云へば、恐らく、何を馬鹿な、と思ふ人が多いであらう。若しアイヌ語に木の名も草の名も存在しないならば、従来の著者は総べて虚偽を書いてゐたといふことになる。――事実、さうだったのである。アイヌに於ては、木や草の部分部分の名は存在するけれども、その木その草全体を表はす名称は、もともと存在しないのである。
 例へば、エゾノエンゴサク(けし科)の塊茎を「トマ」tomáと云ひ、葉を「トマラハ」tomáraha と云ひ、花を「イトーペンラ」itópenra と云ふが、エゾノエンゴサクそのものを表はす総体的な名称はアイヌ語には全く無いのである。それを従来の著書は申合はせたやうに「エゾエンゴサク あいぬ名 トマ」〔菅原『前掲書(引用者注:『樺太植物図誌』)』185頁〕の如く記述してゐるのである。エゾノエンゴサクなる和名に相当するアイヌ名は、始めから存在しないのである。バチラ一氏の書は、「トマ」なるアイヌ語に対して「エゾノエンゴサク。Corydalis ambigua Cham. et Schlecht. The bulbs of this plant…」の如き説明を与へてゐるが、これはアイヌの植物に対する考へ方を無視した誤訳である。正しくは、「エゾノエンゴサクの塊茎」とすべきことは勿論である。
 これは凡ゆる植物に就いて云へることである。

 一方、知里(1943, 1953)の指摘に関して、山田孝子(1994: 115)は次のように述べています。

 『分類アイヌ語辞典植物篇』(1953)の「序言」で知里真志保は次のように述べている。「アイヌの植物名は必要ある部分にのみつき、木や草の全体を表す名称は存在しなく、特定の部位を表す名称がその植物全体を表す名称へと未だ十分に発達するにいたっていない」。そのいっぽうで、オオヨモギの項では、幌別方言で葉をノヤ、茎をノヤ・イッケウ(「ノヤの・背骨」)、根をノヤ・シンリッ(「ノヤの・根」)と記す。

 知里が「序言」で述べるように、ノヤという植物名をオオヨモギの葉だけを指すものとすると、ノヤ・イッケウという名称はオオヨモギの葉の背骨という意味となり、葉脈を指すことにもなる。オオヨモギの茎の部位名称としてノヤ・イッケウという語法が採られることは、オオヨモギの葉という特定部位名称であったノヤがオオヨモギ全体をあらわす名称としても認識されることをあらわすといえる。同様の例が他の植物についても認められる。知里が特定の部位名称にすぎないとして記述したアイヌ語植物名のなかには、その植物全体を示す名称があるのである。このことから、アイヌは植物を認識するにあたって、特定の部位に強い関心を払うといったほうがより適切であることが分かる。

 山田(1994)は、知里(1943, 1953)を批判的に検討したものであり、説得力のある記述といえます。しかしながら、山田(1994)には「特定部位名称が全体をあらわす名称としても認識される」という観察事実が記されているのみであり、それ以上の考察は示されていません。

 ここでは、「ことばの研究」という観点からアイヌ語の植物名について再考してみます。知里(1943)で取り上げられているエゾエンゴサクの名称についてみてみましょう。『分類アイヌ語辞典植物篇』の記述は以下のようになっています(知里1953[1976]: 134)。

(1) toma (to-má)「トま」塊茎 ((北海道、樺太))
(2) tomara (to-má-ra)「トまラ」[トマ・葉] 葉 ((白浦、真岡))
(3) itopenra (i-tó-pen-ra)「イとペンラ」[i(それの)topen(あまい)ra(葉)] 花 ((同上))

 この記述から、「トマtoma」と「トマラtoma-ra」の関係をどのように考えるべきでしょうか。まず、「トマラtoma-ra」を「エゾエンゴサクの塊茎の葉」と考えると無理が生じます(ですから知里(1953)も「トマ・葉」という語釈を与えているのだと思われます)。そうすると、「トマラtoma-ra」は「エゾエンゴサクの葉」と考えるのが妥当ということになります。すなわち、「トマtoma」は「エゾエンゴサク(の全体)」という意味と「エゾエンゴサクの塊茎」という二つの意味をもつことが推定できます。

 次に「エゾエンゴサク(の全体)」という意味と「エゾエンゴサクの塊茎」という意味との関係を考えてみます。両者は《全体》と《部分》という関係にあります。このような意味関係においては「提喩(シネクドキ)」という作用がはたらくことが知られています。提喩とは、ことばの意味が《全体》から《部分》へ、あるいは《部分》から《全体》へと変化することです。「トマtoma」ということばの場合、《エゾエンゴサクの塊茎》>《エゾエンゴサク(の全体)》という変化が生じたと考えられますが、《エゾエンゴサク(の全体)》>《エゾエンゴサクの塊茎》という変化が生じた可能性も完全には排除できないように思われます。

 知里(1943, 1953)は記述の厳密さにおいて他の追随を許さない極めて優れた研究です。しかし、「ことばの研究」からみると、提喩という現象に関する認識が不充分であるといえます。従って、「エゾノエンゴサクそのものを表はす総体的な名称はアイヌ語には全く無い」という記述は不正確であり、先行研究に対する批判も妥当なものとは言えません。現在でも、知里(1943)の記述に基づいてアイヌ語の植物命名法が特異なものであるとする言説が散見されます。「アイヌと自然デジタル図鑑」をご活用くださる場合には、上記の問題についても併せてお考え頂けましたら幸いに存じます。

引用文献
知里真志保(1943)「アイヌ語の植物名に就いて」(『知里真志保著作集』第3巻, 平凡社, 1973所収)
知里真志保(1953)『分類アイヌ語辞典植物篇』(『知里真志保著作集』別巻1, 平凡社, 1976所収)
山田孝子(1994)『アイヌの世界観』講談社

 

 

《図鑑の小窓5》糸を作る植物について

 

 文・写真:安田千夏

 和人文化でアサなどの植物を衣服の材料にしていた歴史があるように、アイヌ文化においても植物から糸を作り生活の様々な場面で利用するという伝統文化があります。最も広く知られているのはアットゥシ織の材料になるオヒョウシナノキでしょう。


▲写真1 オヒョウ 実 5/31


▲写真2 シナノキ 実 9/3

 シロロ5月号「今月の絵本3『シナ皮を背負ったクマ』」でも取り上げられていましたが、樹皮の剥ぎ方について伝承者の説明は一様ではなく、一部だけを剥いで後は残しておくという話もあれば、全てを剥いで切り倒してしまうという話もあります。後者の話はアイヌの考えにしては乱暴なもののように感じる方がいらっしゃるかも知れませんが、樹木の生命体としての特徴と照らし合わせると、それも資源の枯渇がないよう配慮したひとつの方法であることに気づかされます。それは丸剥ぎにした後「切り倒す」というところに重要な意味があるのです。

 もし樹皮を剥いだまま木を立ち枯れさせてしまったならその木は死んでしまいます。しかし切り倒した場合には根が生き続け、切り株の脇からいくつかの傍芽(=ひこ生え)が成長し、やがては株立ちの木に再生するのです。沙流地方の伝承者川上まつ子氏は「早くにシナノキ伐ってしまった根っこから今度若生いが出て8本も10本もひととこにニベシ固まってある所がある」と言い、その株立ちのことはアイヌ語でニヨウシウシ、それから樹皮を剥ぐことがあったと語っています。

 個人の印象なので人によって差があるという前提ではありますが、以前山歩きをよくする人が「オヒョウやシナノキは株立ちになったものをよく見かける」と言っていたことがありました。私も山歩きをしていてそれに近い印象を抱いたことがあります。あるいは「切り倒す」方式の樹木利用は決して珍しい方法というわけではなかったのかも知れません。


▲写真3 株立ちオヒョウ(『ポン カンピソシ2』北海道立アイヌ民族文化研究センター1997.3より)

 樹皮剥ぎに関するもうひとつの大きな問題として、時期については初夏の頃、6月が最適であるといわれています。この時期は若葉が生い茂り光合成のために必要な水が樹木の根から枝先に向かって盛んに吸い上げられるので、樹皮が剥ぎ易い時期であるというのは間違いありません。しかしそれ以外の季節に剥ぐことはなかったのかというと、よくわからないという以外に答えようがないというのが正直なところでした。しかしアイヌ民族博物館の聞き取りデータを紐解くと、織田ステノ氏の次のような話がありました。

  新しく生えた若木のシナノキばかりを、冬はこのくらい(1メートル)ずつに切って持って来て炉辺に置きます。そうすれば凍っていても解凍します。おばあさんがそれを山刀で割って、木の方は隅の方に立てておいて焚きつけにし、くそ皮は別にしておきます。それがおばあさんのたばこ代を稼ぐための冬の手仕事でした。(34101)

 

 シナノキを選んで伐って来た、そしてたばこ代を稼ぎ出したというのは、この後樹皮を糸にするための手仕事だった可能性が高いと考えられます。つまり採取時期については場合によっては真冬もあり得たのだと考えることができるのです。剥ぎやすさの問題として初夏という情報はあるにしても、絶対その時期でなければならないという厳密さはなかったのかも知れません。そして織田氏はシナノキを「切り倒す」方式で採取、伐採する木の選定は若木(注1)、そして切り倒し皮を剥いだ木の本体は焚きつけにするという資源に対する無駄のなさ。短いお話の中に、知りたいと思っていたことがたくさん詰まっていました。

 ちなみに糸に加工した樹木は他にもオオバボダイジュハルニレなどがありますが、織田氏によるとあまり質の良い糸は取れなかったということです。

 また木質ツル性植物のツルウメモドキから取られた糸を雪晒し(注2)で真っ白く仕上げたものはやわらかく良質で丈夫な糸であったため、日高地方では弓弦の材料、または下紐と呼ばれるアイヌ文化特有の既婚女性が地肌に身につける帯を作ったりしたといわれています(注3)。


▲写真4 ツルウメモドキ 実 11/15

 さらに知里真志保より前の時代にアイヌの植物利用について書き残した宮部金吾、三宅勉は『樺太植物誌』(樺太廳1915)で、オガラバナという樹木について「樹皮より繊維をとり、衣服を作る」と記しています。アイヌ文化で利用する植物としてはあまり聞きなれない名前だと思う方もいらっしゃることでしょう。これはカエデの仲間で、北海道では低山から亜高山まで分布しています。樺太ではもう少し標高の低いとろでも見られるのかも知れません。私が白老地方で撮った下の写真は標高1000メートルに満たない山の中で、小さな枝をサンプリングして確認しましたが、オヒョウやシナノキのように良質の糸がとれそうな内皮の状態でした。文献上でしか確認されていない情報ではありますが、糸をとる植物のひとつとしてカウントしておこうと思います。


▲写真5 オガラバナ 花 6/16

 糸をとる野草としてはエゾイラクサ (注4)ムカゴイラクサがよく知られています。このうちエゾイラクサについては織田ステノ、川上まつ子両氏が口をそろえて「これで作った糸は水に濡れたら弱い」と語っていますが、織田氏は「水に濡らしさえしなければシナノキで作った糸より丈夫だった」と補足しています。エゾイラクサの糸は白く、それで織り上げた樺太のテタラペ(白いもの)という衣服はとても美しいものです(月刊シロロ4月号『シンリッウレシパ(先祖の暮らし)』第2回「採集・漁労」参照)。

 そして知里辞典をよく読んでみると、他にも「糸をとった」と書かれている植物があります。そのひとつがカラハナソウ、これはビールを作るのに欠かすことのできないホップの近縁種です。アイヌ文化ではまさにホップのように「実をアワ飯にかけて発酵させて糀に用いた」または「根を焼いたり煮たりして食べた」という、どちらかというと食材として認識されているツル性植物ですが、よく読むとツルの部分を「茎を干してもみ、外皮を落として糸をとった」と書かれています。これも群生している場所で一度サンプリングしてみようと考えていますので、結果については今後にご期待ください。


▲写真6 カラハナソウ 実 9/8

 意外に知られていないことが多く、調べて行くと奥が深いアイヌ文化の糸作りのお話でしたが、植物の性質を知り抜き適切に利用したその知恵には感心するばかりでした。そして定番として知られる植物以外にも糸にする植物があったということ、今後実際に糸が取れるのかどうかを確かめることを含めて、まだまだ知る楽しみにこと欠きそうにはありません。

(注1)あまり太くなった木から取った糸は切れやすいといい、若木を選んで樹皮を取るようにしたそうです。適切な太さについて川上まつ子氏は「(まき)ストーブの煙突くらい」と表現しています。

(注2)春が近くなった頃、天気の良い日を選んで堅雪の上に糸を置きます。すると太陽の熱によって雪が溶けて水蒸気になるときに殺菌、漂白作用のあるオゾンが発生して糸を白くするのです。和人文化でもアサや和紙の原料となるコウゾなどに雪晒しをする地域があります。

(注3)これはあくまでも日高地方の伝承者の語りをもとにした話であり、旭川地方では「弓弦、魚網、下紐をエゾイラクサで作った」という聞き取りデータがあります(昭和56年度アイヌ民俗文化財調査報告書 アイヌ民俗調査1(旭川地方)北海道教育委員会 1982)。

(注4)イラクサ類に関しては聞き取りデータで「イラクサ」としか語られていない場合が多く、種名に関しては今後検討の余地があります。
現時点でわかっているのはエゾイラクサ、ムカゴイラクサの2種がアイヌ語名ではっきり区別されているという点です。

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して(安田千夏) 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」

 

 アイヌ民族博物館で行われている伝承者(担い手)育成事業受講生の新着写真等を紹介します。

 

▶木幡弘文の一枚


(写真)サケ 

 秋だ!サケだ!食の秋がやって来た!ということで、今月の1枚はサケの遡上の様子です。この写真ではおとなしい様子を写す事が出来ましたが、みな元気よく遡上していました。(木幡弘文)

木幡弘文のアルバム

 

▶新谷裕也の一枚

(写真)ツルニンジンです。アイヌ語ではトプムクといいます。産後の母乳が出ないときに煮た汁を飲んだり、乳房を冷やしたという地域もあります。他にも根は食用として、焼いたり煮たりして食べていました。(新谷裕也)

新谷裕也のアルバム

 

▶中井貴規の一枚


(写真)オオウバユリの実

オオウバユリは、花が咲くまでに少なくとも7、8年はかかります。

夏頃に少し黄緑色がかったクリーム色の花を咲かせますが、花が咲くのはその1年限りです。

そして、だいたい夏の終わりから秋頃に種を飛ばして、冬に立ち枯れます。

これから、このオオウバユリも種を飛ばすことになるのでしょう。

(中井貴規)

中井貴規のアルバム
 


 

▶山本りえの一枚


(写真)イケマ

 イケマはアイヌ語でも日本語でもイケマと言い、アイヌはこの根を魔除けのために身に着けたり、口に含んだイケマを吹き出して場を清めたりしました。イケマの実をイケマチッポといい、中に入っている綿のようなものを火起こしの材料に使いました。イケマの実の茎を取っただけで白い液体が溢れ出し、のりのようにベトベトして、面白い植物だと思いました。(山本りえ)

山本りえのアルバム
 


 

▶山丸賢雄の一枚


(写真)ハッカ  アイヌ語名 カムイケウキナ kamuykewkina

 ウヨロ川の側にきれいな花を咲かせていたハッカを見つけました。アイヌ語名はカムイケウキナといいます。シソ科で葉からすごくいい匂いがします。ずっと嗅いでいたいほど魅力的な植物でした。 (山丸賢雄)

 

山丸賢雄のアルバム

 

山道ヒビキの一枚

 

(写真)和名:キンミズヒキ アイヌ名:ライタキナ

8月末の写真ですが、ポロトの森でキンミズヒキの綺麗な花が咲いていました。

沙流川流域の伝承によると、花がつく頃にキンミズヒキの塊根を掘り、赤痢などの薬にします。

クロイチゴの根やオオバコの根と一緒に煮て、その汁を飲む場合と、何も混ぜずにそれだけで煮て飲むこともあるそうです。(山道ヒビキ)

 

山道ヒビキのアルバム

 

 

《トピックス》『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開

 

(文:安田益穂)

 

 「アイヌ民話ライブラリ1〜3 上田トシの民話」に続く音声資料WEB公開の第二弾として、静内地方のアイヌ文化伝承者・葛野辰次郎エカシ(エカシは長老の意)の音声資料から、37編の祈り詞を公開します。いずれもアイヌ民族博物館が2002年にCD・DVD-ROM付き書籍として出版したデータの一部です。(一部録音不良がありますがご了承下さい。)

公開データリンク▶▶︎

 

 

    葛野辰次郎

    話 者:葛野辰次郎(1910-2002)

    書 名:アイヌ民族博物館伝承記録7 葛野辰次郎の伝承

    仕 様:B5判492頁、CD4枚+DVD-ROM1枚、箱入り(非売品)

    発行日:2002年3月31日

     

     

[葛野辰次郎エカシの紹介](葛野辰次郎『キムスポ Ⅴ』1991年、著者略歴より)

 1910(明治43)年4月10日 静内町東静内東別に生まれた。9才の時父を亡くしたため子守りに雇われて家計を助けながら小学校に通い、その後農家に奉公した。
 結婚後は10人の子宝に恵まれたが、3児を幼少時(9才、6才、6か月)に亡くし、さらに、長男を22才で不慮の労災事故で亡くした。著者自身も50才を過ぎてから結核のため12年間の入院闘病生活を余儀なくされた。
 日の当たらぬ民族語を後世に残すことを余生の仕事にするようになったきっかけは、若くして亡くなった長男の一言「アイヌのくせにアイヌ語も知らないで何がアイヌだ」ということであった。

 

[葛野辰次郎エカシの祈り詞と「葛野ノート」]

 今回公開する祈り詞は、実際の儀式のライブ録音(儀式実況)と、自筆のノートを見ながらの朗読(詠唱)に分けられます。儀式実況は映像も同時に記録しており、書籍版の第3部及びDVD-ROMに収録してあります(WEB非公開)。

資料番号 資料名 年月日 種別 映像
30201 イオマンテの祈り1 1986 詠唱 
30202 イオマンテの祈り2(1のつづき) 1986 詠唱  
30203 1号チセ守護神の送り儀礼/引導渡しの祈り 1988.10.3 儀式実況
30204 博物館地鎮祭 1983.8.2 儀式実況
30205 博物館新築祝いの祈り 不明 詠唱  
30206 ポロチセ守護神の送り儀礼 1991.1.16 儀式実況
30208 札幌鮭祭り 不明 詠唱  
30209 ポロチセ新築祝の祈り言葉 1997.4.19 儀式実況

 

 葛野エカシは、実際の儀式ではノートを見ながら祈ることはありませんが、主要な祈り詞は事前にノートに書き記していました。原稿なしで不自由しないにもかかわらず膨大な量のノートを残したのは、次世代の若者たちにアイヌ語を残したいという思いからでした。以下は、1997年4月19日に行われたポロチセ新築祝の開式前の録音の一部です。

葛野辰次郎

葛野:(祈り詞の草稿を見せて)俺書いて来たの、さらえて(集めて)な。

男性 エカシは儀式の前には必ず原稿を書くのか?
葛野辰次郎 葛野:残そうと思うから俺書いて来るべせ。だからここさ来て何回も書いて(博物館に渡して)るよ。だけどな,誰かがそれ見て鼻紙にして投げた(捨てた)んだべ。だからね,ほんとにね,言葉はたくさんアイヌのエカシも持ってるけど,情けないけど文字がなかったの。だからそれを俺が,昔のエカシの代弁として,文字に書いて残しておこうかと思って,そして持っておくんだけども,どうかなってるか分からん。
 それこそあの,博物館の地鎮祭(1983年)の時だって,いやあ切なかったど,俺。もう夜も寝れなくて困って。ま,次の日やったけど,うまい具合にトントン拍子に,自分でもな――自分でやって自分のことを誉めたでや。いやあ,もう今はできないでや。
 だからその,ここに書いたようには言えないけどね,……ここにおる若い者がそれを残してくれるかどうかな,と思いながら持って来たんだ。
 ……でこれをね,言葉でもって録音しておいてもな,やっぱり書いておくのが一番。だから書いて来たから,残しておきたいと思ったら書きなさい。どうでもいいと思ったらやめなさい。だから,そういうわけだ。

 

 葛野エカシも言及していますが、エカシの自筆ノートは所在不明のものも少なくありません。今回WEB公開する資料も、ノートをめくる音が録音されていてもノートの所在が不明なため、一部を除き音声を元にテキスト化しています。

 葛野エカシのノートの一部はエカシ自身が『キムスポ』(I〜V)として自費出版しており、合本が1999年に刊行されています(B5判352ページ)。また、死の翌年、2003年には自筆ノートのうち36冊をスキャニングしCD-ROMに収めた『自筆 葛野辰次郎ノート〈PDF版〉』(非売品)が作成されています。今回WEB公開した資料とあわせ、いずれも非常に価値の高い資料ですが、不明資料を含む葛野資料の整理・公開は今後の課題となっています。

▲(左)『自筆 葛野辰次郎ノート〈PDF版〉』(2003年、キムスポ刊行会)、(右)葛野辰次郎『キムスポ』(1999年発行、キムスポI〜Vを合本)

 

 ちなみにCD-ROM収録のデータのうち、「NO54.PDF」は今回WEB公開した「30205 博物館新築祝いの祈り」と一致しています。最初の1ページだけですが音声と聞き比べてみてください。

▶︎▶︎『葛野辰次郎の伝承』から、博物館新築祝の祈り

 

▲『自筆 葛野辰次郎ノート〈PDF版〉』(2003年)より「NO54.pdf」(博物館祝福の祈り)の冒頭部分

 

 この音声は実際の儀式のライブ録音ではなく、ノートを見ながら個室でカセットテープに録音したもの(詠唱)ですが、実際の博物館地鎮祭や新築祝いも葛野エカシが祭主を務めました。

 

▲アイヌ民族博物館地鎮祭 1983年8月2日、現在の博物館映像展示室付近に、家を象徴する三脚と炉かぎを吊るし実施(ただし、地鎮祭で三脚を立てたのは葛野エカシの伝承ではなく白老の伝承に基づく)。左から、川上まつ子氏、織田ステノ氏、葛野辰次郎エカシ。

▶︎▶︎『葛野辰次郎の伝承』から、博物館地鎮祭

 

▲アイヌ民族博物館新築祝1 1984年4月20日、ポロチセにて。博物館内の儀礼に先立って、ハルエオンカミ(供物による拝礼)、カムイノミ(神々への祈り)を行った後、博物館へ移動↓

 

▲博物館新築祝2 同日、ポロチセから博物館内映像展示室に移動。地鎮祭で三脚を立てた場所に仮の炉を設え、ハルエオンカミ(供物による拝礼)、シラリエオンカミ(酒粕による拝礼)、チセサンペトゥカン(弓矢による家の入魂式)等を実施。イナウを火の神へ納めて(↑写真)一旦座を閉じた後、再びポロチセに移動してシンヌラッパ(祖先供養)の後、饗宴となった。

▶︎▶︎『葛野辰次郎の伝承』から、博物館新築祝

 

[葛野資料と当館の儀礼伝承]

 資料一覧を見てもわかるとおり、当館の主要な伝統儀式では必ず葛野エカシから指導を受けてきました。儀礼はアイヌ文化のなかでも最も伝承が難しい分野のひとつです。アイヌの神々や作法についての深い理解はもちろんのこと、祈り詞はアイヌ語で語られますし、祭具や供物など様々な物づくりの技術も必要です。大きな儀礼ともなればそれに加え、歌や踊り、語り物と、まさに民族文化祭ともいうべき総合性を持ちます。これらは文献だけから再現することは不可能で、伝承者から実地に指導を受けるか、伝承者亡き後は音声・映像記録が不可欠です。しかし、手軽な録音機やビデオカメラが普及する前にほとんどの伝承者は他界しましたから、生前自身で祈り詞をノートに記し、それを録音し、映像資料を残した葛野エカシはまさに稀有な伝承者でした。

 2002年、葛野エカシの死の翌月、アイヌ民族博物館ではエカシの伝承に基づいて「コタンノミ」(春秋の大祭)を年中行事として復活させ、現在に至っています。まだまだ未熟な点は多いのですが、5月、11月の年二回実施していますので、志ある若い世代が葛野辰次郎エカシをはじめとする伝承者の遺志を受け継いで奮闘する姿を一目ご覧になっていただければと思います。

 

[トピックス バックナンバー]

「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

 

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