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月刊シロロ

月刊シロロ  3月号(2016.3)

 

 

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する(3)

 

 文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

1.はじめに

 

 ここまで二回にわたって、アイヌ民族の男性が儀礼の際に用いる冠を取り上げてきました。今回は、資料の観察をもとにおこなった、復元製作の事例を紹介します。

 

2.製作事例

 

 今回モデルとした資料は、1981年に豊浦町で家屋が解体された際に、イナウ(木幣)やイクパスイ(捧酒箆)、多量の漆器とともに発見されたもので、現在は豊浦町教育委員会に所蔵されています。長いあいだ囲炉裏がある家屋の中に保管されていたためか、全体に煤が付着して黒ずんでいます。

 軸は、ガマの葉を撚った縄をさらに6本編みにしたものを2本用意し、前後で縛ったものが使用されています。軸の前後端には目の荒い木綿布をかぶせ、前部には左右に1枚ずつ木綿布を下げて装飾としています。木綿布は変色しており、本来の色は不明です。側面につけられたコイル状の縄装飾は痛みが激しく、あちこちで切れています。縄装飾を固定する植物の繊維は、軸の内面でつながっており、長い繊維を縫い針に通して縫い止めていったことが分かります。

▲写真1 豊浦町で収集された冠 筆者撮影 豊浦町教育委員会所蔵

 冠そのものに関する製作技術の記録はほとんど残されていないため、今回の復元にあたっては、ガマの葉の取り扱いはゴザ編みに関する記録を参照することにしました(註1)。ガマの葉は、乾燥した状態では折り曲げに弱く折れてしまうため、作業の前に軽く水に浸して湿らせてから作業に入ります。この段階の素材の太さが出来上がる軸の幅を左右するので、何度か短いものを試作して調整しました。

▲写真2 豊浦町で収集された冠の復元過程(2)

 木彫に見られる木目はイタヤカエデなどに類似していましたが、肉眼観察では判断が難しいところです。今回の復元では、木目が細かく彫刻が容易なツリバナを使用しました。

 木彫は木綿布の取り付けに先立って軸に固定されていました。また、木綿布の縫付や、木彫の軸への固定には、ヤマブドウやイラクサの繊維を細く割いたものが用いられていました。今回は、エゾイラクサの繊維を使用しました。

▲写真3 豊浦町で収集された冠の復元過程(2)

 ここまで来ると、あとはコイル状の縄装飾(前号参照)を取り付ければ完成です。噴火湾沿岸で撮影された写真から、儀礼などで使用する際には側面にイナウ(木幣)を挟み込んでいたものと考えられます。

 下の写真は、私が以前製作した冠です。軸は北大植物園・博物館所蔵資料を参考に、ヤマブドウの樹皮を細く割いたものです。装飾は松前城資料館所蔵資料を参考にしてコイル状の縄装飾を取り付け、先端部の装飾は長万部町で撮影された写真に映った資料をモデルにしています。資料の複製とは異なりますが、各地域にかつて存在した形態のバリエーションを知ることで、画一的ではないものを作り出していくことも可能でしょう。

▲写真4 復元製作事例

 

3.さいごに

 

 各地の博物館などに収められたアイヌ民族の民具資料には、今では用いられなくなった形態、一度失われた技術がもちいられたものがしばしば見られます。今回の連載では、儀礼用冠に着目して、使用された地域の推定、技術復元の試みを紹介してきました。このような取り組みを各種民具を対象に続け、アイヌ民具に関する情報を豊富なものにしていくことが、資料に新たな価値を生み、文化継承に取り組む人々に有益な情報を提供する基礎ともなると考えています。

 なお、今回の復元にあたって使用したガマの葉やイラクサ、その他の素材は、各地の工芸家や研究者の方々から譲っていただいたものを使用しました。生活が大きく変化した現在では、こうした伝統的な素材を確保するのも容易なことではありません。貴重な素材を譲ってくださった多くの方々に感謝申し上げます。

1.ガマの取り扱いに関して、インターネット上で容易に入手できる資料として、アイヌ文化振興・研究推進機構が作成した『アイヌ生活文化再現マニュアル 編む【ござ】』(pdf)があります。

(おおさか たく)

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2

 

 

 

 

《図鑑の小窓11》ツルウメモドキあれこれ

 

 文・写真:安田千夏

 

 3月、雪の表面が解けては凍りを繰り返し堅雪になる季節。雪の合間に晴れた日が続くこともあり、そんな時は雪ざらしをするのに最適です。これは諸説ありますが、一説によると日光の漂白作用が雪の照り返しで効果的に得られることにより植物繊維を白くする方法で、和人文化でも和紙原料であるコウゾなどをさらすことで知られていますが、アイヌ文化ではこの方法でツルウメモドキの糸をさらすという事例が報告されているのです。新雪の頃は置いた糸が重みで沈み日光が遮られてしまうため効果が得られにくいということなのか、堅雪のこの時期が最適といわれています(注1)

▲写真1 ツルウメモドキ 晩秋

▲写真2 雪ざらし途中経過 今年度の伝承者(担い手)育成事業より

 そのようにして作られたツルウメモドキの糸は丈夫でやわらかく質が良いので、アイヌ文化では生活の様々な場面で使われました。

 文献や聞き取りデータから拾ってみてもいろいろな使い方が出て来ます。釣り糸、銛先につける紐、弓弦、お葬式のときに使う紐、ござ編みの糸、サケ皮の靴を縫う糸、編み袋、荷縄、下帯などなど。

 漁具や弓弦にするというのは糸の強さを物語っています。そして女性が身につける下帯(下紐)はアイヌ社会ではとても重要な意味を持つもので、大切なものであるがゆえに語ることを嫌がる方もいらっしゃるということなのであまり詳しく述べることは控えますが、概説的な説明だけでもしてみたいと思います(注2)

 古来先祖の系統には男系のエカシイキリ(祖父の系統)と女系のフチイキリ(祖母の系統)がありました。男の子が生まれるとその子はエカシイキリなので、その家の家紋にあたるイトクパ、儀式の作法や家系の主神などについて父や祖父達から教えられます。女の子はフチイキリで、その家系の女性に伝えられている下帯の結び方を母や祖母達に教えてもらうのです(注3)。これは同じ結び方をする家系同士の婚姻を避けるという意味があり、また死後先祖の元に行ったときの身分証明アイテムと言っていいくらいに大事なものなので、夫を含め誰にも見せたり触れさせたりしてはならないと言われました。それぞれの家系で独特な結び方をし、必然的に実家の女性の系統を示すものであるため、嫁ぎ先で亡くなったお嫁さんの下帯を締め直したり持たせたりしてあげるのはお姑さんではなく実家の女性達だと言われています。和人社会でお嫁さんが家紋など全てにおいて嫁ぎ先の家の人間になりきってしまうのとはかなり違う考え方であることがわかりますね。素肌の上につけるものなので違和感のない素材が良いとされ、オヒョウ、シナノキ、イラクサ類の糸で作られたという記録もありますが、ツルウメモドキはつけているのを忘れるくらいにやわらかいものであった(注4)といいます。

 さてこのツルウメモドキ。自然界ではかなり大きくなるのですが、その姿を初めて見た人はきっと驚いてしまいます。ツル性植物は他の樹木に頼って生きることを余儀なくされる種ですが、それぞれ特徴的な頼り方をします。例えばツルアジサイやイワガラミは無数の気根を出し木にはりついて登って行くタイプなので、あまり木にとってのダメージはありません。それらとは対照的にツルウメモドキの登り方は以下の通りです。

▲写真3 カツラに登るツルウメモドキ

 まるでヘビのように木に巻きついて登って行くのです。細い木であればかなりのダメージを受けてしまい、宿り主が弱って来ると隣の木へ移ってさらにからみついて行く様は、植物離れをして動物的にさえ見えます。ツルウメモドキなりのやり方で太陽光を得るため上を目指しているわけなのですが、この性質のため思わぬ刺客に命を絶たれてしまうことがあります。刺客の名は人間。木にからみついたツルウメモドキの根元だけが鋭利な刃物で伐採されているのがしばしば見受けられるのです。自然界というのはバランスで成り立っているので、ツルウメモドキだけを排除しようという考えが良くないことは言うまでもありません。アイヌの考え方に「役目を持たずに天から降ろされたものは何もない」というものがあるのですが、これは人間など特定の生物にとって不都合な存在であっても、そのものにしか果たせない役目が必ずあるのですから、勝手な判断で排除してはならないという戒めでありとても好きな言葉です。

 お騒がせなツルウメモドキですが、時にはこんなコミカルな一枚が撮れることもあるのです。巻きついた相手がコクワだったため変に手応えがないままねじねじとお互いにからみあった結果、しめ縄のようなビジュアルになってしまっていますね。この場合ダメージ的には両者痛み分けといったところでしょうか。このツル性植物が何かをやらかしている姿を探しながら歩くのは、私の冬の森散策のひそかな楽しみでもあるのです。

▲写真4 ツルウメモドキとコクワ

 

(注1)アイヌ民族博物館2015 資料番号34102(静内)、34644(沙流)。実際にやってみると、日光の当たらない部分には元の色が残ります。さらしている途中で一度ひっくり返す(道教委1990)というのもそのためだと思われます。

(注2)おもに最上1808、瀬川1972より。

(注3)下帯をつける時期は、一説にはいいなづけができたらといわれています。

(注4)アイヌ民族博物館2015 資料番号34644(沙流)。

 

<参考文献・データ>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
更科源蔵『コタン生物記』北方出版社(1942年)
瀬川清子『アイヌの婚姻』未来社(1972年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅵ 十勝・網走地方)』(1987年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅶ 沙流・十勝地方)』(1988年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅸ 千歳)』(1990年)
宮部金吾、三宅勉『樺太植物誌』樺太廳(1915年)
最上徳内『渡島筆記』(1808年)※『日本庶民生活資料集成 第四巻』三一書房(1969年)

 

(やすだ ちか)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

 

 

 

 

 

《レポート》アイヌの火おこし実践ルポ(前編)

 

 文・写真・動画:イオル再生伝承者(担い手)育成事業 第三期生一同
     (木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、山道ヒビキ

 

はじめに


 今年度の伝承者育成事業自然講座では、後期の継続的課題を「アイヌの伝統的な火おこし」とし、調べ学習や素材の採取を少しずつ積み重ねて来ました。アイヌ文化ではかつてどのような方法でそれをおこない、使われていたのはどのような素材だったのか。それを調べ、可能な限り伝統に倣った火おこしを自分達でもできるようになるということを目標としました。2月中旬に今年度分の作業を終えましたので、前後編でご報告したいと思います。

 

1.文献資料にみるアイヌの火おこし

 

 文献資料は、北海道アイヌについての地域や伝承者名がわかるものを対象とし、概説的な書き方のものは対象外としました。調べ学習を充分におこなったとは言い難く今後も資料は追加して行くことになりますが、1月末までに調べた結果では以下のような3つの方法でおこなっていたことがわかりました。

 

1-1.火おこしの方法

 

 

A.もみきり式
(発火棒を発火台に垂直に立て、発火棒を両手でこするようにして回転させる摩擦によって火種を得る)

▲写真1 松浦武四郎『久摺日誌』挿絵より>※国立国会図書館デジタルコレクション転載

 

B.ゆみきり式
(発火棒に弓弦を巻きつけ、発火台と平行に弓を動かす摩擦によって火種を得る)

▲写真2 ゆみきり式(まねだけ)

 

C.火打ち石式
            (石と鉄を打ち合わせることにより出る火花によって火種を得る)

 

参.まいきり式
(発火棒の下部におもりとなる「はずみ車」をつけ、横木につながった紐を発火棒に巻きつけ、横木を上下に動かし反動を利用して発火棒を連続回転させた摩擦で火種を得る)

 ※菅江(未詳)に陸奥蝦夷がこの方式で火をおこしていたとありましたが、北海道外のデータであるため今回は参考資料とするにとどめました。

 時代考証は今後の課題として残っていますが、初めての試みということなので今回は最も難易度の低い確実な方法、そして今に生きる我々に近い世代の伝承者がおもにおこなっていたC.火打ち石式を実践してみることとしました。

 火打ちに使う石は、文献では「赤石」「白石」などと書かれているのみで詳しい種類はわかりませんでしたので、河原で石をいくつか選んで来て市販の火打ち金と打ち合わせ、火花が出やすいものを使うことにしました。

 

1-2.小道具の選定

 

 「ほくち」には、文献上の記録が最も多く確認できたサルノコシカケ科のキノコを使うこととしました。ただ単に粉にしたものを使うという記述もありましたが、今回は焼いて炭にするという方法(アイヌ民族博物館1994)を採用しました(注1)。他にも乾燥したコケ類、もぐさ、腐った木などを使うという記述もありました。

 火種から火を作るためには植物からとった糸に燃え移らせたと想像されますが、それが具体的に何かという点は文献上では確認できませんでした。そこで今回は市販の麻ひもをほぐして代用することにしましたが、少しでもアイヌ文化にゆかりのある植物を使えないかと考えた末、イケマ種子の綿を少し混ぜることとしました。

 おきた火をまきへ移すために「ガンビ(注2)」をくべる旨がいくつかの文献に書かれていたので、今回はウダイカンバの樹皮の乾燥したものを用意しました。

 

1-3.口承文芸資料からのまき選定

 

 火が起きた後に燃やすまきについてもアイヌ文化のエピソードにこだわることにしました。本事業第二期生の時から引き続き2回目の検証となりますが、以下の口承文芸資料からハルニレとドロノキを選定しました。

 造化の神(「コタンカルカムイ」Kotan-kar-kamuy「世界を・造った・神」)が世界を造った時、真っ先に生えたのがドロノキで、次に生えたのがハルニレであった。造化の神が人間に火を授けようとして、まずドロノキで発火台(「カルソ」kar-so「発火器の台座」)と発火棒(「カッチ」katci<kar-ci「発火器の陰茎」)を作り、それを揉んで火を起こそうとしたけれども、いくら揉んでも白と黒の揉みくず(「カルパシ」kar-pas「発火器の炭」)が溜まってくすぶるばかりで、火はついに出来なかった。いまいましくなって白い揉みくず(「レタル・カルパシ」retar-karpas「白い発火器の炭」)(燠の上にできる白い粉を普通に「レタル・パシ」という)を吹くと、ぱっと舞い上がって「パウチカムイ」(pawci-kamuy「淫乱の神」)という魔神になり、黒い揉みくず(「クンネ・カルパシ」kunne-karpas「黒い・発火器の炭」(黒い消し炭を普通に「クンネ・パシ」という)を吹くと、「パコルカムイ」(pa-kor-kamuy「疱瘡の神」〔これは現実には渡り鳥の姿をとる〕)となって飛び去った。だから「パコルカムイ」は、人間世界に長たる貴い神であるけれども、短気で怒りっぽいのである。ドロノキで作った発火台と発火棒とは、それぞれ「ケナシウナルペ」(kenasi-unarpe「木原の伯母」〔現実にはミミズクに似た怪鳥として現れる。知里真志保、アイヌ民族研究資料第二、p.75〕)と、それから「イワエトゥンナイ」(iwa-etunnay〔現実にはやはりくちばしのとがった怪鳥の姿をとる〕)とよぶ恐るべき魔神となった。ドロノキで失敗した造化の神は、今度はハルニレの木で発火台と発火棒とを作り、それで揉むと初めて「アペ・フチ」(ape-huci「火の婆」)が生まれた。すなわち火が生じた。だから我々はこの木を「チ・キサ・ニ」、すなわち「我々が火を揉み出す木」と呼ぶようになったのである。この時生じた白い揉みくずは、飛んで「ハシナウ・ウク・カムイ」(hasinaw-uk-kamuy「枝幣を・取る・神」〔山幸を恵む神、狩りの女神、現実にはカケスなどのごとき小鳥の姿をとる〕)となり、発火棒は化して「ヌサ・コル・カムイ」(nusa-kor-kamuy「屋外の幣場を支配する・神」〔現実には蛇の姿をとる〕)となった。こうしてハルニレから生じた火の神・狩りの神・幣場の神は互いに姉妹に当たる貴い神として、日常我々が礼拝するようになった。また、ドロノキは憑き神(「カシカムイ」kas-kamuy)の拙い木であったから、この木から生じた神々はすべて魔神で、我々は日常木幣を捧げて礼拝することはしないのである。ただ疱瘡神が巡行して、「ハルエカムイノミ」(haru-e-kamuy-nomi 供物を疱瘡神に捧げてこれを去らせる祭儀)を行う時だけは、その姉妹に当たる火の婆神や幣場の神に祈って、人間に代わって疱瘡神をなだめてもらうのである(注3)

 

 この伝承については類話も多く、話によって少しずつ異なっている点もあるのですが、ドロノキからは火が起きず悪神や妖怪が生まれたというのに対し、ハルニレからは火の神などの善神が生まれたという点は共通しています。こうした伝承には実際に木を燃やしたときの特徴が反映されているのかどうか、それを確認してみたいと考えました。

 

2.まきの伐採

 

 2015年11月25日、白老町内在住のとある方のご厚意でハルニレとドロノキの若木を提供していただけることとなりました。

 これに先立ち9月9日の自然講座において、植物採取の際に唱える祈り詞を聞きおこしました(注4)ので、まずはその祈り詞を参考にしてお酒やアワ・ヒエやタバコなどを捧げ、作業を安全におこなえるように祈りました(注5)

▲写真3 供物を捧げ祈る
 
 ハルニレは2本切り倒しました。切り倒した後に枝を払って、次に幹を適当な長さに切り揃えました。最後に、切り揃えた幹を丸木台の上に置いて斧で割りました。ある程度の高さまで斧を振り上げた後、その重さを利用して木に振り下ろすと上手に割ることができました。誤って足を切らないように気をつけながら作業しました。

▲動画1 まき割り

 次にドロノキ1本を切り倒しました。こちらも幹を適当な長さに切り揃えました。この日は斧で割らず、後日の火おこし研修で用いるときに適宜割りました。

▲写真4 ドロノキ伐採

 良い材料を手に入れられ、ケガすることなく無事に作業できたことに感謝して、作業場を後にしました。この後博物館の外壁にまきを並べ、3ヶ月ほど自然乾燥させました。

(後編に続く)

 

(注1)木炭と同様、燃やすことで植物に含まれるカリウムと空気中の炭素、酸素が化学反応を起こし炭酸カリウムが生じることにより、少ない酸素でも火がつきやすくなるという性質を利用したもの。

(注2)ウダイカンバ、シラカンバなどカンバ類樹皮の総称(北海道方言)。

(注3)知里1953による。日高国沙流郡平取村・平村コタンピラ翁の伝承。

(注4)川上まつ子氏「木の神への祈り言葉」(34627)。活字化したものはアイヌ民族博物館1999 p147所収。

(注5)この時の祈り言葉は以下の通り(旭川方言)。

シリコロカムイ、ピリカ サッチクニ チコンルスイ クス…(アラキアシ シリ ネ。)
sirkorkamuy, pirka satcikuni ci=kor_ rusuy kusu… (arki=as siri ne.)
大地を司る神様(=木の神様)、良いまきが欲しいために私達はやって来たのです。

ネプ イララ チキ ロク カトゥ ソモ タパン ナ。
nep irara ci=ki rok katu somo tapan na.
何か悪いおこないをするわけではないのですよ。

ニカムイ エチキ イルシカ ヤン。 
nikamuy eciki iruska yan.
木の神様、決して怒らないでください。

イユニン サクノ エペッチウ サクノ ピリカ イラウェ チキ ワ
iyunin sakno epetciw sakno pirka irawe ci=ki wa
怪我なく、支障なく良い仕事をして

ホシッパアシ パクノ ウネプンキネ ワ ウンコレ ヤン。
hosippa=as pakno un=epunkine wa un=kore yan.
帰るまで私達をお守りください。

 

 

<参考文献・データ>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
アイヌ民族博物館『アイヌ民族博物館伝承記録 山川弘の伝承』(1994年)
アイヌ民族博物館『川上まつ子の伝承─植物編1─』(1999年)
片山龍峯『クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人 姉崎等』木楽社(2002年)
萱野茂『アイヌの民具』すずさわ書店(1978年)
久保寺逸彦「アイヌの建築儀礼について」『北方文化研究3』(1968年)
菅江真澄『百臼の図』(成立年未詳)※菅江真澄(1754-1829年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第一巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
ニール・ゴードン・マンロー 小松哲郎訳『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会(2002年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅰ 旭川地方)』(1982年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅴ 釧路、網走)』(1986年)
北海道教育委員会『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民俗調査Ⅵ 十勝、網走)』(1987年)
松浦武四郎『久摺日誌』(1861年)※国立国会図書館デジタルコレクション
満岡伸一『アイヌの足跡』第二版 田邊眞雄(1926年)

 

 

《伝承者育成事業レポート》 バックナンバー

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

《レポート》ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

1月号 2016.1

 

 

 

 

 

《資料紹介4》白老のイヨマレ(お酌)再考

 

 文:安田益穂
 

 

1.はじめに

 

 これまで3回にわたって「映像で見る挨拶の作法」、「映像で見るアイヌの酒礼」と題し、主に儀礼関連のお話をしてきました(バックナンバー参照)。今回も「映像で見る〜」と題したいところなのですが、現在文化庁の平成27年度「アイヌ語の保存・継承に必要なアーカイブ化事業〈アナログ音声資料のデジタル化〉」という事業が進行中で、当館の儀礼映像はすべてデジタル化のため専門業者へ預けており、新たな映像資料の紹介ができません。今回もまさに映像向きのテーマなのですが、既出の映像資料と写真資料が中心になります。映像資料がデジタル化されて戻ってくる春以降にご期待下さい。

 

2.白老の 酌は右から? 左から?

 

 さて、3月1日のチュプカムイノミ(月例の儀礼)(注1)の開式前のこと、列席者が揃ったところで、列座していた古参職員から疑問が呈されました。「(今は右からだが)白老では元々、イヨマレ(酌)は左から注いでいた」というものです。前回とりあげた酒礼(酒の作法)の話ですね。タイムリーです。

 カムイノミ(儀礼)では、2列に対座した男性がそれぞれ左手に杯、右手にイクパスイ(捧酒箸)を持ち、酌人(現在当館では女性が担当)が酌をして回り、それぞれ受け持ちの神に御神酒を捧げながら祈ります。ここで主に問題になっているのは、祈り手の男性から見て、酌人が右後ろからお酌するのか、左後ろからお酌するのかという話です。後で聞いた話ですが、それに先だって町内で行われた勉強会で、白老在住の研究者が「白老では左から三回で注ぐ」と述べたらしく(あくまで伝聞です)、冒頭の発言はどうやらそれを受けての話のようです。

 いや確かにおっしゃるとおりです。現在の「右から2回」という方法は、2002年のコタンノミ(集落の祈り=春秋の例大祭)復活の際に決めたもの(注2)で、それ以前は「左から3回」でした(注3)。当時から当館の儀礼に参加していた人は周知の事実。ただ、その更に前は? というのが問題です。過去にも何度か検討し、活字にして残したこともありましたが、改めて備忘録として載せておきたいと思います。

 

3.さまざまな資料から

 

 まず、過去に私が書いたものを再掲しておきます。この2年後に第1回コタンノミが開催され、作法を変更しましたので、以下は変更前の執筆です。

『ポロチセの建築儀礼』(2000年、アイヌ民族博物館発行)p.55より


⑸イオマレの作法(注4)
・当館では現在、列席者の左後ろからイオマレする。すなわち、左手に持ったトゥキを左側に差し出し、酌をする女性が酒をトゥキに注ぐ間、「ンンンンン、ンンンンン」とシムシシカしながら右手に持ったパスイをゆっくり上下させる(パスイスイェスイェ pasuy suyesuye捧酒箸・を何回も振る)。酌は通常3回に分けて注ぐが、シンヌラッパの場合のみ1回で注ぐ。実見したわけではないが、葬式の場合も1回と言われる。
・一方、葛野エカシは前方からイオマレしても注意しないが、後ろから受ける場合には必ず右後ろからイオマレするように指示している。すなわち、左手にトゥキを持ち、体の右側に差し出す。神酒を注ぐ間、右手に持ったパスイは左手と交差させて体正面に向けるか、トゥキ上左寄りに載せたまま手を添えていて、注ぎ終わってからパスイを上下させる。また、酌は「2回で」と語っている(送り1991、地鎮祭1983)。
・この点については、文献の記述も様々である。
「総ておしゃくは静かに二回位する」(鷹部屋1943、p.62)
「その斜め後ろ(その人の左側)から酌女が順次酒を注いでまわる」(『民族誌』p.542)
「片口でトゥキに酒を注ぐ際は、必ず酒を受ける人の左側から片膝をついて行う。トゥキに一気に注ぐのではなく、断続的に3回注ぐ。受ける男性は右手でパスイを持ってそれを軽く上下に振りながらトゥキに酒を注いでもらう」(イヨマンテ89、p.32)
「酒を注ぐ女性は、酒を受ける人の左側から右膝をついて、2回に分けて杯に酒を注ぐ」(イオマンテ90、p.35)

・以上からは「左後ろから」が優勢に見えるが、白老地方の記録を見ると、『木下清蔵写真』(当館収蔵資料)では確認できる9点中、右からイオマレしている写真が6点、前からが2点、左からは1点のみである。特に男女がイオマレする写真3点は(いずれも写真館における記念写真風。p.148、写真8はその一例)、右からエチウシでイオマレする構図となっている。また、イオマレを受ける間、パスイを上下させるかどうかは写真からは判断できないが、イオマンテ89(p.52)では、パスイを上下させるのは「道東の作法」と記しており、当館の山丸和幸は「昔のエカシはそんなことはしなかった」と述べている

 

 これを整理し、アイヌ民族博物館の聞き取り調査データや映像・写真資料を追加したのが以下の表です。

情報源 種別 伝承地 酌の向き 注ぐ回数 備考
日川善次郎 口述 沙流 3回 詳細↓
川上まつ子 口述 沙流   2回。3回でやるのを見たことない。 詳細↓
葛野辰次郎 口述 静内 右または前 2回か3回。葬式、祖先供養は1回 詳細↓
アイヌ民族誌 文献 沙流    
鷹部屋福平 文献     2回  
イヨマンテ89 文献   3回 パスイを上下させる 詳細
イヨマンテ90 文献   2回  
木下清蔵写真 写真 白老 右または前    
白老アイヌの生活 映像 白老 右または前 1回 パスイを上下させていない
藤村久和 指導   3回。葬式や祖先供養は1回。  

 

 問題となっている昔の白老の作法は、管見の限り文献には記載が見当たらず、木下清蔵写真(当館収蔵資料。大正末期から昭和)と、無声映画「白老コタンのアイヌの生活」(1925年撮影)の二つが手がかりです。

 

4.映像資料「白老コタンのアイヌの生活 第5章 熊祭」から

 

▲動画1

 この映像は1月号の「献酬」の項でも紹介しました。酌は右から、キケウシパスイ(削りかけつき捧酒箸)は上下させず、杯の左上に静止させています。ただ、二回三回に分けて注ぐことをせず、1度で注いでいます。1回で注ぐのは葬式や先祖供養など、不祝儀の作法だという地方もあり、ちょっと解釈に困るところです。

 以下の動画2も、同じイヨマンテ(熊送り)の一場面です。屋外の祭壇(ヌサ)の前に絶命したばかりのクマ神が横たわり、長老がこれから祈るところで、女性が長老の前から、一回でイヨマレしています。動画1同様、キケウシパスイは上下させていません。後出の写真5と同じく、女性のいる場所は祭壇の中でも最も上座で、しかもクマ神の頭の側。「オリパク(遠慮)しろ!」と怒鳴られても文句が言えないと思うのですが。これも解釈に困るところです。

▲動画2

 

5.写真資料「木下清蔵写真」から

 

 以下、写真1〜5はガラス乾板で撮影年代が古いもの、写真6〜9は普通のプリントで戦後、観光客が大勢写っていますので昭和30年代かと思われます。

▲写真1 写真館内か。エチウシ(湯桶)を使って(男性から見て)右からイヨマレしている。

▲写真2 屋内の北東隅(ソパ)、宝壇(イヨイキリ)の前で。記念写真風。

▲写真3 同上。

▲写真4 同上。右からというよりは前からか。

▲写真5 結婚式を再現したもの。9枚中唯一、女性が向かって右、男性が左で、これまでと逆。おそらく新郎側(左)、新婦側(右)と分かれていて、写真撮影用にこちらに体を向けているが、本来は前からお酌をしているつもりかもしれない(あくまで推測だが)。

▲写真6 戸外の祭壇(ヌサ)の前で、女性と男性が酒器を手に向かい合っているが、お酌はしていない。女性の位置は祭壇でも最も上手で、本来女性がいていい場所ではないと思われるが、この位置関係の写真は複数存在する。(前出の映像資料2も同様)

▲写真7 以下プリント写真。前からお酌している。無声映画「白老アイヌの生活」でもたびたび見られる。

▲写真8 写真7・9と連続して撮影されたと思われる。前回解説した「献酬」をする右奥で、同じ女性が右からお酌しているように見える。

▲写真9 同上。

 

6.まとめ

 アイヌ民族博物館の儀礼伝承事業はこれまで、栃木政吉、日川善次郎、葛野辰次郎、藤村久和の各氏を祭主および指導に迎えてきました。アイヌの儀礼は地方差が大きく、前述のとおり各氏の指導も様々でした。白老古来の方法が明らかであればそれがいちばんなのですが、日高などと比べてアイヌ文化が失われるのが早く、記録にも乏しいため、各地の伝承や記録を参考に復元することが不可欠になります。その際、わからないことが残るのは避けられず、最後は「この方法でやる」と決めるしかないのが実情です。また、それを決めるのは白老のアイヌの人々でしょう。

 そうした立場から様々な資料を参照して勉強会を開き、会議をし、出した結論が2002年のコタンノミでした。コタンノミという儀式自体は、葛野辰次郎氏の伝承に基づく儀式映像(アイヌ無形民俗文化保存会:1983「フチとエカシを訪ねて1〜祈り・語り・食」)を元に復元しましたし、葛野氏の作法は白老の映像・写真資料と共通点が多く、かつ口述記録も多かったので、イヨマレを含む作法もまた葛野氏の伝承を元にしました。ただ、第一回からすでに14年が経過し、曖昧になっている点も含め、再検証する時期にあるのかもしれません。

 なお、今年4月のコタンノミは以下の通りです。多くの皆さんがお越し下されば、儀礼伝承に携わる者にも励みになります。ぜひお越し下さい。

「春のコタンノミ(大祭)」日程

 

日時:4月30日(土) 10:30開始

場所:アイヌ民族博物館 ポロチセ

見学無料(通常の入場料は必要です)

 

注1 毎月1日に内部的に実施(一般見学可。日程は変更の場合もあるので要確認)。月初に行うのは特に古来のものではないが、儀礼伝承の場として実施している。

注2 第一回コタンノミ開催を前に役職員で何度か会議や勉強会を開き、以下の通り決定した。 ただ、その後徐々に曖昧になり、現在では逆になっているものもある。

2002年5月5日 勉強会配布資料から

■基本的な作法(現在と異なる点)
・イヨマレは、右後ろからか、前からのどちらか。二回で注ぐ。
・酌を受ける時、パスイを上下させない。
・膳にパスイを並べる時は、火に箸先を向けてハの字型。
・片膝立ちになる時は、右膝を立てて片膝立ちになる。
・ござを畳む時は、紐がある方(北側)を先に畳み、紐がない方が上になるように畳む。
・祭具やイナウを持って向きを変える時には、左回りに。
・炉内はいつも均しておくこと。

 

注3 これ以前は、藤村久和氏(北海学園大学教授=当時)の指導に基づいて実施。藤村久和氏は研究者なので、指導がどの地方の誰の伝承かに基づくものか定かではないが、作法に関しては主に栃木政吉氏の伝承に基づくようである。藤村久和氏の指導による儀式の詳細とその検討は『ポロチセの建築儀礼』(2000年、アイヌ民族博物館)に詳しい。

注4 イオマレ、イヨマレはイオマンテ、イヨマンテと同じく、挿入音(y)を表記するかどうかの表記法の違い。iyomare<i「もの」y(挿入音)omare「〜を〜に入れる」。「お酌する」。

音声資料30400B 日川善次郎氏の口述
(日川)ただ…つぐときのあれ…こうつぐとき3回につぐど、それを覚えるのと。できるだけ左側からつぐんだから、左を忘れないようにするのと、それだけ覚えてもらえばな。

 

音声資料30214(2001.10.24) 葛野辰次郎氏の口述
 ハレの作法とケの作法
安田:例えばエカシの家でね,エカシが神主さんになってお祈りする時は,それは自分で注いでもらうわけでしょ。
葛野:はい。
安田:自分で自分のトゥキ持ってイヨマレ(酌)してもらうと。で,エカシが白老来てもらった時に,イヨマレ受ける時は右からイヨマレ(酌)してくれって言いますでしょ? あれが静内のやり方ですよね。
葛野:はい。
安田:で,白老は今は逆なんですけども,その辺,白老が昔どうだったのかよく分からないけれども,お葬式とかね,そういう時は何でも逆にするって言うでしょ?
葛野:はい。
安田:あれは? お葬式の時でもやっぱり右から注いでもらうわけですか,エカシの方では。
葛野:やっぱり(普段通り)こっち(右)からだ。
安田:やっぱり右から注ぐ。
葛野:はい。
安田:で,注ぐ時に,何回で注ぐとかっていうのは,エカシの方では?
葛野:まあ,三回か,二回か三回だべ。
安田:普通は,二回か三回。
葛野:はい。だけど,もしも誰かが亡くなった時は一回だわ。一回ジョーッと杯さ入れたら,その時に(オンカミは)こうやってやらないで(手のひらを上に向けないで),こうやってやる(手のひらを下に向ける=逆拝)。
安田:ふーん。それって何て言いますか,オンカミのやり方。
葛野:……。
安田:クットコオンカミ(逆拝)とかって言います?
葛野:うーん,まあそうだね。
安田:はーん。クットコ(反対にする)っていうのは,言ってました? それともそういうのは聞いたことがない?
葛野:俺は分からない。この頃は……。
安田:ふーん。——で,お酒注いでもらうのは普通の時も葬式の時も右からで,普通は二回か三回で注いでもらうんだけども,葬式の時は一回。
葛野:(頷く)。
安田:じゃあ,シンヌラッパ(先祖供養祭)の時は? イチャラパ(先祖供養祭)。
葛野:まあ,それも一回だな。

音声資料34719A 川上まつ子氏の口述
(学芸員)あ! そうだ、もうひとつ面白いのね、トゥキあるしょ? トゥキにお酒注ぐしょ?
(川上)うん。
(学芸員)あん時ね、えぇっと帯広は、シンヌラッパの時だけね…シンヌラッパっていうか、外に出てやる時だけね、2回なんだわ。普通3回注ぐしょ? こっちで。こっちで何回注ぐ? トゥキにお酒…
(川上)沙流も2回だと思うよ。
(学芸員)3回注ぐしょ? 普通のkamuynomi(神に祈る)する時。
(川上)3回注いだの知らないなぁ。
(学芸員)普通のそのアペフチカムイ(火の神様)にね? こうやってお酒を入れる時にさ、酒あの、例えばうんと、エトゥヌプ(片口)とかさ、あんなんでお酒入れるしょ? あの時って2回かい?
(川上)2回だと思うね。あのトモトゥ…tomotuye wa omare(~を間を切って入れろ)ってekasi(おじいさん)言うのが、1回ごうっと空けて、空けて…いっぺんに空けてしまうんでなく、中切って入れれって言うことで、2回だと思うよ。
(学芸員)普通も2回?
(川上)よく分からないけど。普通もいつも。
(学芸員)いつも2回?
(川上)あのkamuynomi(神に祈る)するtukiさ入れるんなら、2回だったと思うよ。わしそういうもの、自分でtuki(酒杯)さiyomare(お酌する)したこともないから分からんけども。なんせ見ていたって2回。3回っていうことは見たことないと思うねぇ。2回だなぁ。昔はetunup(片口)もecius(酒差し)もあって使ったもんだべども。おれの覚えてからは、ビンで注ぐから。そのせいで、いっぺんに空けたらこう、おっと出てtuki(酒杯)いっぱいになるから、間に切って入れれって言うんだべかなと思っていたもんなんだけど、そういう習慣であったみたいだよ。2回入れるっていうことは。

 

参考文献

アイヌ文化保存対策協議会編:1969『アイヌ民族誌』第一法規出版(=「民族誌」)

アイヌ民族博物館:

 1990『イヨマンテ—熊の霊送り—報告書』(=「イオマンテ89」)

 1991『イヨマンテ—熊の霊送り—報告書2』(=「イオマンテ90」)

 2000『ポロチセの建築儀礼』

アイヌ無形民俗文化保存会:1983「フチとエカシを訪ねて1〜祈り・語り・食」(ビデオ)

木下清蔵写真:アイヌ民族博物館No.90001-90287

鷹部屋福平:1969『アイヌの住居』彰國社

八田三郎(監修):1925『白老コタンのアイヌの生活』札幌堀内商会(無声映画)

 


[資料紹介]バックナンバー

《資料紹介1》映像でみる挨拶の作法1 2015.10

《資料紹介2》映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

《資料紹介3》映像で見るアイヌの酒礼 2016.1

 

[トピックス バックナンバー]

「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

 

 

 

 

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