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月刊シロロ

月刊シロロ  7月号(2016.7)

 

 

 

 

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)15》アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物

 

 文・イラスト:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

 

はじめに


 
 今回は、一般的なアットゥシや木綿衣などに比べ、あまり知られていない衣服や小物類を紹介します。

 資料とするのは主に『アイヌ民俗資料調査報告』(1968)と更科源蔵氏の記録です。

 

1.作業着

 

 一般的な衣服は裾が足首近くまであります。これに対し、動きやすいように裾を短く(ひざくらい)仕立てた衣服や半纏を、タクネアミプ(虻田)、タキチミプ(旭川、白老)、ミチカ(千歳)と呼び、作業着として着用しました。タキチミプは、タクネチミプ(短い着物)のことかも知れません。仕事をするときはこうした短衣とホシ(脚絆)を身に付けました。このほか、女性はマイタリ/マンタリと呼ぶ前掛けを身に着け、近代にはいるとモンペを着用しました。美しく装飾したマイタリは正装にも用いたようです。

 

2.毛皮を使った衣服

 

 北海道では、毛皮を加工して着られる状態にしたものをウルと呼びますが、知里真志保氏の『分類アイヌ語辞典人間篇』には、毛皮その物もウルと呼ぶことがあると書かかれています。クマ、シカ、キツネ、タヌキ、ウサギ、アザラシ、オットセイなどの毛皮が使われます。皮をなめす(脂肪層をとりのぞく)には、腐った木を粉にしてふりかけて油分を吸わせたり、軽石でこすることが多いようです。

 毛皮製の衣類は防寒用です。夏服と冬服の区別はそれほど明確ではありませんが、冬になるとアットゥシや木綿衣の背中に毛皮を縫い付けて温かくします。これをカプコロ(帯広伏古)、カッコロ(新冠)、あるいはウルと呼び、ウサギの皮が最も暖かいと言います。また、男性は狩猟などの際に、袖なしのベストのような物を着ました。こちらもカッコロと呼びます(千歳、白老)。

 女性の肌着をモウル(小さい皮衣)といい、現存する物は木綿製がほとんどですが、旭川では20世紀に入る頃までシカ皮製のモウルが使われていました。名寄では、ワシの皮から羽を除いて衣服に仕立てたものをチカプルと呼び、寝間着にしたそうです。

 股引を北海道ではオムンペ(太ももにある物)あるいはオモンペといい、樺太ではオポンペと言って、木綿や毛皮で作りました。

 

3.小物類

 山仕事などの際、手を保護するため手の甲を覆う物をテクンぺ(手にある物)と言います。新冠では、クマの足の甲にあたる部分の皮でテクンぺを作りました。

 テクンぺに対し、手のひらまで覆うように作ったものをチカミコテと言います。これは日本語からの借用のようにも思えますが、現在の日本語で手袋をこのように呼ぶことはあまりないようです。イラクサなど棘のある植物を採取するときに使うと言います。ミトン状の皮製手袋をテッカシ(旭川)やテッカエシ(美幌)と呼びます。八雲でテッカシと呼ぶ物も同じものかもしれません。樺太ではワンパッカやマトゥメレと呼びます。美幌のテッカエシはイヌやウサギ、シカの腹皮などをなめし、毛を内側にして作ります(イラスト)。樺太のワンパッカなどは、ロープを結んだり解いたりといった細かい作業をしやすくするため、着用したまま親指だけを出せるように作ってあります。

 

4.フキの雨具

 名寄では、外出先で雨に降られたとき、フキの葉を逆さにして羽織って雨具にしました。これをコルル(フキの服)と言います(イラストの羽織り方は古写真を参考にして作画しました)。旭川でも、雨に降られたらフキの適当な葉をとって頭にかぶったといいます。また『アイヌ語沙流方言辞典』のp336には「アプト アシ ナ。コロハム カラ ワ シカカムレ(雨が降っているから蕗の葉を取ってかぶりなさい)」という例文があります。

 ちなみに、葛飾北斎の『北斎漫画』7巻には、秋田県の大きなフキを雨具としてかぶった人物が描かれています。こうした大きなフキが生育する地域では、どこでも見られた光景なのでしょうね。

 

おわりに

 

 アイヌの衣類のうち、博物館等に残されるものは美しい装飾を施した物が中心です。その他の普段の暮らしの中で使われる物は資料が残りずらく、形や実際の着られ方などがわからなくなった物も多くあります。今回取り上げたような防寒用の皮製品などの他にも、寝るときの服装や様々な小物類、子供の服など、取り上げられる機会が少なく、あまり知られていないものがあります。また、良く知られているようでも、地域によってさらに様々な形・身に付け方をする物があります。次回以降はそうした衣類を取り上げてみたいと思います。

 

参考文献

萱野茂
1978『アイヌの民具』アイヌの民具刊行運動委員会。

金田一京助・杉山寿栄男
1993(1941)『アイヌ芸術 服装編』北海道出版企画センター。

久保寺逸彦
1977『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』岩波書店。

久保寺逸彦編
1992『アイヌ語・日本語辞典稿』北海道教育委員会。

児玉作左衛門ほか
1968「アイヌ服飾の調査」『アイヌ民俗調査報告書』北海道教育委員会。

児玉マリ
1984「概説 アイヌの装い」『第25回特別展目録 アイヌの装い―文様と色彩の世界―』北海道開拓記念館。
1985「アイヌ民族の衣服と服飾品」『北海道の研究 第7巻 民俗・民族篇』清文堂。
1991「アイヌ民族の衣服」『第8回企画展アイヌの衣服文化―着物の地方的特徴について―』財団法人アイヌ民族博物館。

更科源蔵
 『コタン探訪帖』1、弟子屈町図書館。
 『コタン探訪帖』2、弟子屈町図書館。
 『コタン探訪帖』8、弟子屈町図書館。

知里真志保
1975(1954)『分類アイヌ語辞典 人間篇』『知里眞志保著作集 別巻Ⅱ』 平凡社。

福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邉欣雄(編) 
1999『日本民俗大事典〈上〉』吉川弘文館。

 

(きたはら じろうた)

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2

第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4

第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5

第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名(北原次郎太)

 

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)6》噴火湾アイヌの信仰-イコリの神

 

 文・写真:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

 

1. はじめに


 北海道博物館が所蔵する録音テープのひとつに、北海道南部の虻田に伝わった国土創造神話が収録されています。この伝承の冒頭には、モシリカラカムイ「国土を造った神」が「イコリ」(ikori)という場所に座り、海原を見渡す場面が描かれます(注1)

▲写真1 豊浦町礼文華から見たイコリ岬 筆者撮影

 イコリという地名は、現在、長万部町と豊浦町礼文華の間に位置する岬の名として伝わっていますが(写真1)、この録音をおこなった更科源蔵氏は、「豊浦町礼文の地先にある立岩」としていることから(更科1981a)、かつては岬全体ではなく、岬に立ち並ぶ岩の一つを指すものとして認識されていたとも考えられます。また、伝承の中で尊い神が腰を下ろす場所として、特にイコリの名前があげられているからには、この地名について、何らかの「いわれ」が伝わっていた可能性もあります。

 今回は、イコリがかつてどの場所を指し、どのような場所として考えられていたのか、関連する伝承記録を探ってみたいと思います(注2)

 

2. イコリにまつわる様々な伝承



(1)長万部・八雲の伝承―海での生業との関わり―

 イコリが位置する噴火湾沿岸では、胆振東部や日高地方のように豊富な記録が残されているわけではありませんが、数少ない聴き取りが河野常吉氏による『アイヌ聞取書』(北海道立図書館所蔵)、更科源蔵氏による『コタン探訪帳』(弟子屈町図書館所蔵)などに収められています。

 大正時代におこなわれた河野常吉氏による聴き取り調査では、長万部町のある男性が日常祈る9神の一つとして「イコリカムイ」(ikori kamuy:イコリの神)の名をあげ(注3)、イコリ岬の海中に立つ岩をさすものと述べています(河野『アイヌ聞取書』)。この記録から、長万部では、岬の先端付近にある立岩がイコリと呼ばれていたことが覗えます。

 なお、この文章は続きがあり、オットセイやマンボウの漁に沖に出た際に、陸を遠く離れてもイコリは同じようによく見えること、「斯る有り難き神故念じ祈るなり」と述べられています。また別の箇所では、「海上にて時化るときは之を祈るなり」との記述も見えます(河野『アイヌ聞取書』)。

 昭和30年代の更科源蔵氏による聴き取り調査では、長万部町のある男性が、「ikori tapu kata kamuy ekasi」(ikori tapka ta kamuy ekasi:イコリの上の神翁)と呼ぶ神について、海が荒れたときや、大きなトドを銛で突いて激しく暴れたときなどに祈るとしています(更科『コタン探訪帖』10-194)。こうした記録からは、イコリがかつて噴火湾沿岸で盛んにおこなわれていた海獣狩猟をはじめとする海での生業に関連する重要な神と認識されていた様子がうかがわれます。

▲写真2 長万部町旭浜から見たイコリ岬 筆者撮影

 長万部のお隣、八雲町遊楽部では、更科源蔵氏による同時期の調査で、pisyun nusa(pisun nusa:浜の祭壇)に「イコリタプカタ イコリコロクル カムイエカシ」(ikori tapka ta ikori kor kur kamuy ekasi:イコリの上でイコリを司る神翁)のイナウ(木幣)が立てられたことが記録されています(更科『コタン探訪帖』10-188)。浜の祭壇には海での漁にまつわる様々な神がまつられていることから、八雲でも長万部と同じように、海での生業に深い関連を持った神と認識されていた可能性が高いでしょう。

(2)虻田の伝承―火山噴火を鎮める神として―

 イコリをはさんで八雲・長万部と向き合う位置にある虻田(現洞爺湖町)では、伝統的な祭壇や漁にまつわる信仰については十分な記録が残されていないものの、火山の噴火にまつわる口承文芸の中に、イコリの名が見えます。

 有珠山はかつてウフイヌプリ(焼け山)と呼ばれ、過去の噴火で多数の死者を出したことが知られています。虻田のある女性が語り残した伝承は、およそ以下のようなものです。

有珠山の噴火

あるときから地震が起こり、何日も収まらず、フレナイの村長は噴火を警戒して村人の大部分を余所に逃がし、男達だけで神々に祈っていた。とうとう夜中に大噴火が起こり、隣の虻田の村は噴火にのまれ、海に逃げ込んだ者は頭を焼かれ、水を飲んで膨らんだ姿で海岸に打ち上げられた。有珠の村も破壊され、一軒の家も無くなってしまった。そのとき、イコリの神やレブンの神、ウェンシリの神などが刀を握り救援に駆けつけ、神々が斬り合う姿が見え、やがて山の神が負けたらしく、噴火は収まった。

人々が村に戻ると、フレナイの村長が山に向かって祈りを捧げている姿が見えた。一人の和人が「旦那、達者でいたのか」と言いながら杖でつつくと、村長は灰となって崩れ落ちたのだった。(注4)

 

 同じ虻田に暮らした男性によれば、火山の噴火の際にはイコリや「ベンベシレトゥ」(豊浦のベベシレト岬)、「ウェンシリ」(洞爺の町外れの崖)の神が応援に来るもので、中でもイコリの神が特別大きく光ってくるとされています(更科『アイヌ伝説集』「駒ヶ岳の噴火」p.21、『コタン探訪帖』12-116)(注5)

▲写真3 豊浦市街とペペシレトゥ(ベベシレト岬) 筆者撮影

 「神々の斬り合う姿」や「光」が何を表すのかは想像するほかありませんが、火山の噴火にともない、噴煙の中に稲妻が光る「火山雷」と呼ばれる現象は広く知られており、有珠山でも観測された例があります。かつての人々は、火山雷の稲妻に、救援に駆けつけた神々が刀を振りかざす姿を見ていたのかもしれません。それはともかく、イコリの神が特別大きく光ってくるという証言から、虻田では、噴火湾沿岸の神々の中でもとりわけ重要な神のひとつとしてイコリが認識されていたことが覗えます。

(3)伝承内容の違いは地域差を示すのか

 噴火湾沿岸の数少ない伝承記録では、八雲・長万部では海での生業にまつわる神、虻田では火山を鎮める神として語られた事例がありました。

 ただし、虻田ではイコリが祭壇に祀られていたのか否か、海での生業にまつわる神がどのようなものとして考えられていたのかが分かっていないこともあって、二つの違いが噴火湾沿岸の中で細かな地域差を示していると言い切るのは、現状では難しそうです。火山の噴火や海難など、危険が迫った時に祈りを捧げる特に重要な神のひとつとしてイコリをとらえる認識が、噴火湾沿岸に広く伝わっていたことだけを確認しておきたいと思います。そうした神聖視される場としての認識が、冒頭に紹介した国土創造神話で、尊い神の腰を掛ける場所として選ばれたことと関連する可能性があるでしょう。

 

3. さいごに



 今回は、物語に残された「イコリ」という地名を出発点にして、記録を探ることでその場所と、どのような性格の場所として認識されていたのかを、大まかながら把握することができました。

 近年、各地でアイヌ民族の伝統儀式が復興するようになり、その過程で、博物館が所蔵する祭祀具などの民具資料が参照されることもあります。博物館に収められた資料のうち、十分なバックデータが伴っているものからは、どの地域・家系ではどの神にどのようなイナウ(木幣)を捧げたのかといった情報を知ることができます。しかし、一歩踏み込んで、それぞれの神がどのような理由で祀られていたのかといったことになると、民具資料そのものから分かることは限られています。より充実した展示を作るとともに、実践しようとする人々にもより有益な情報を伝えるために、少しずつではあっても、様々な角度からデータを蓄積しておかなければと思っています。

 


(1) この口承文芸については、更科源蔵氏による概要の紹介(更科1981a)、佐藤知己氏による音声資料の詳細な分析があります(佐藤2009)。

(2) イコリ岬は、記録には「イコリ」の他に「エコリ」などという形で記録されることがあります。この地域は日本語北海道海岸部方言が話される地域ですので、話し手の発音がその影響を受けて「イ」と「エ」を区別しない物だった可能性があります。また、調査者が日本語北海道海岸部方言の話者であった場合、アイヌ語の「イ」を「エ」と聞き取って書かれるような場合もあったでしょう。また古地図では、イコリ岬の場所に「イユレシユマ」と書かれた例もありますが(松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』。本稿の執筆にあたっては国立国会図書館デジタルライブラリーで公開されている画像を用いました)、これは「コ」を「ユ」、「リ」を「レ」と誤記した結果と考えられます。今回は、こうした記録の中から、現在のイコリ岬周辺を指すと考えられるものを集めましたが、煩雑を避けるため、全てイコリと記述しています。

(3) 以下では、「A 文献に現れるアイヌ語」(B 推定される語形:C 和訳)の順に示します。

(4) 本伝承は、更科(1981b)『アイヌ伝説集』の中に「有珠岳の噴火」(pp.128-129)として収録されているもので、この記述のもととなったと考えられる調査記録は『コタン探訪帖』12-87~88に収められています。また、同じ話者の語りを採録した録音資料がアイヌ民族博物館所蔵亮昌寺資料に含まれており、志賀(1994)、佐藤(2008)によって詳細に検討されています。なお、録音資料ではイコリの地名は現れませんが、礼文華の沖から立ち上がった神、「礼文華の神々」という言葉がイコリに該当する可能性があります。ここでは、『コタン探訪帖』による和文記述をもとに、アイヌ語の録音資料の内容などを加えて整理してあります。

(5) 現在の豊浦市街地はかつてpepe kotanと呼ばれ、その南に位置する岬はpepe siretu(ぺぺの岬)と呼ばれていました(山田秀三2000『北海道の地名』p.412)。この岬は現在もベベシレト岬と呼ばれています。

 

参考文献
河野常吉『アイヌ聞取書』(北海道立図書館所蔵)
佐藤知己2008「伊達地方のアイヌ語方言の言語的特徴」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第14号
佐藤知己2009「アイヌ語虻田方言の英雄叙事詩(yukar)テキストとその言語的特徴」『北
海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第15号
更科源蔵『コタン探訪帖』(弟子屈町図書館所蔵)
更科源蔵1981a『アイヌの神話』みやま書房
更科源蔵1981b『アイヌ伝説集』みやま書房
田村すず子1996『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
志賀雪湖1994「遠島タネ媼の伝承-亮昌寺アイヌ語音声資料」『アイヌ民族博物館研究報告』4
北海道開拓記念館1992『更科源蔵氏資料目録』
永田方正1891『北海道蝦夷語地名解』(再版1984草風館)
松浦竹四郎〔武四郎〕1860『東西蝦夷山川地理取調図』(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610812
山田秀三2000『北海道の地名』草風館

 

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2

《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する⑶ 2016.3

《エカシレスプリ(古の風習)4》木綿衣の文様をたどる 2016.4

《エカシレスプリ(古の風習)5》小樽祝津のイオマンテ 2016.5

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓15》アヨロコタン随想

 

 文・写真:安田千夏

 

♪アヨロ ホワオ コタン ミンタラ ホワオ カシ オシノッ ホワオ ランケ…(注1)

 白老町と登別市の境界付近の海辺にはアヨロという地名があり、その名は北海道各地で伝承されている歌謡の中でも唄われています。この場所にはコタン(村)があったという地名説話があり、高台の草地にはカムイミンタラ(神の庭)という地名も残されています。歌謡に出て来るアヨロやミンタラは果たしてこの地を指しているのでしょうか。詳しいことはわかっておりませんが、今回はそのアヨロの地を訪ねてみたいと思います。

▲図1 アヨロ 東西蝦夷山川地理取調図(注2)より

▲図2 知里真志保・山田秀三「幌別町のアイヌ語地名」『北方文化研究報告 第13号』より(注3)

 地名説話(注3)ではアヨロの村は海洋交易で栄えていたと伝えられています。ポンアヨロ川が注ぎ込む海岸部はヤクンクットマリ(陸の国の人の停泊場)といわれ、北海道の人達が利用する舟泊まりであったとされています。実際に地形を見るといくつもの岩礁があり、干潮になると岩肌が露出して荒々しい姿を見せるので、舟が出入りするのには熟練の操舵技術が必要であるように見えました。そしてその西側の岩場がレプンクットマリ(沖の国の人の停泊場)。海の向こうから来た舟は少し離れた場所にしか停泊することができなかったのだそうで、具体的な区分が伝えられているのが興味深いところです。

▲写真1 ポンアヨロ川河口部からレプンクットマリを見る

 海岸にある高台の上にはアヨロ村長の住まい、カムイエカシチャシヒ(神の老紳士の館)が建っていたといわれています。今は灯台が立つチャシ跡からのオーシャンビュー。この地を統べるには申し分のないロケーションです。

 そして館があったとされる高台に上り東側を見下ろすと、オソロコチという言い伝えが残されている場所が見え、これは冒頭の地図にも「オシヨロコツ」と書かれています。

 昔々、巨人のような大きなこの世の創造神がクジラをヨモギの串に刺して焼いていました。すると急にその串が折れたので、創造神はびっくりして尻もちをつきました。その跡が今でも残っているのです。(注4)

▲写真2 カムイエカシチャシヒ伝承地

▲写真3 カムイエカシチャシヒ伝承地からオソロコチを見下ろす

 館から見える地形にまつわるこんな話を子供や孫たちに語り伝えていたカムイエカシとその家族の姿を想像してみるのですが、アヨロの村はその繁栄を支えた交易そのものによってやがて衰退して行ったという悲しい結末が伝えられているのです。それは天然痘というかつて恐れられていた伝染病のせい。交易舟の舟乗りが持ち込んだことにより、村人が次々に病気に倒れついには村長カムイエカシも命を落としてしまったのだといわれています。

 かくして繁栄と衰退の伝承を残し、跡形もなく消えてしまったアヨロ村。エカシたちがそこを通って先祖の国に旅立ったであろうアフンルパロ(あの世の入り口)と言い伝えられる場所が、ちょうどアヨロの村はずれにあたる場所に残されているのみです。

▲写真4 アフンルパロ

 さてこのアヨロという地名、アイヌ民族博物館音声資料の散文説話にも登場します。それは以下のようなお話。

 ユペッという川筋で、父母はなくお兄さんに育てられた若者のお話。ある時レプンクル(沖の国の人)兄弟が舟に乗って来て舟着き場に上陸し、家に訪ねて来たので事情を聞くとこのように言いました。「私たちには妹がふたりいて、その姉の方に求婚に来た男性が朝になると相次いで不審死をしているという事件が続いて困っているのです。ヤウンクル(陸の国の人)であるあなた方は憑き神が強いと聞きましたので、そのお力をいただきたいので下着を貸していただけませんか」。すると兄が急に「下着といわず弟をお連れください」と言ったのでとても腹が立ちましたが、兄には逆らえないので行くことになりました。兄は戸口の左右に指してあった木幣を引き抜いて「これを持って行きなさい。途中でアヨロという場所に泊るので、そこの祭壇にこの木幣を立てて私の名を言い、自分はその弟だと名乗り加護を祈りなさい」と言って託してくれました。舟で沖の国の兄弟と共に出かけて行きましたが道中ずっと不機嫌なままアヨロで一泊しました。そのときに言われた通り祭壇に木幣を捧げると夜に夢を見て、髪の半分が黒、半分が白い神が「おまえの兄は物事を見通す力のある人なのだ。決して怒らず沖の国の兄弟とは仲良く旅をしなさい」と言ってお守りを授けてくれました。それからは腹を立てることなく沖の国の兄弟と仲良く旅をして沖の国につきました。家に招かれて夕食を食べたのですが、夫になる人に死なれた方の娘はずっと悲しそうでした。その夜は娘の小さな家に行って眠りました。するとなんと夜中に煙だし窓から大蛇が入って来たのです。そこで私がアヨロの神にもらったお守り袋を開けると針が入っていました。それで大蛇の尾を突いたところ、それきり私は気を失ってしまったようでした。娘の家族に介抱されて気がつきことなきを得ましたが、その日の夢に雷の神が出て来て、娘を好きになったために求婚者を殺していたことを詫びて来ました。娘の家族は腹を立てましたが結局許すこととし、今まで通りの神としての地位を約束してあげ、一件落着となり帰る途中アヨロでお守り袋を返して家に戻って来ました。

 戻ってからは兄とも和解し、沖の国の姉妹と私たち兄弟は結婚し、双方の国を行き来しながらみんなで仲良く暮らしましたとさ。(川上まつ子 C178KM_34720A_34720B)


 ここに出て来るアヨロは、ユペッの川筋から沖の国へ行く途中に立ち寄る海沿いの場所ということになっています。双方の地名がはっきりどこを指しているとは言い難いものの、アヨロに関しては航海の途中で立ち寄る場所という地理的なイメージが反映されていると考えることができそうです。

 それにしても「髪の半分が黒、半分が白い神」って気になりますね。手塚治虫が描いたブラックジャックのような容姿の神様、何の神様なのかは最後まで明らかにされていませんが、とても神力の強い神様だったようです。アヨロにはこの神が祭られる祭壇が存在し、ストーリーの鍵を握るパワースポットと考えられていたことがわかります。

 今改めてこの地に立ってみると、先人や神々の存在を示すものはまるで海岸に絶え間なく打ち寄せる波濤が全てを彼方へ運び去ってしまったかのようで、ただオオセグロカモメが上空を飛び交うおだやかな風景が広がっているのみなのでした。

▲写真5 アヨロで見たオオセグロカモメ

 

(注1)この歌は沙流川流域で伝承されていたものを筆者がとある機会に聞き覚えたもの。歌い手によって、または地域によって歌詞や節は異なります。

(注2)『東西蝦夷山川地理取調図』松浦武四郎 1859(函館市中央図書館デジタル資料館)

(注3)「幌別町のアイヌ語地名」『北方文化研究報告 第13号』知里真志保、山田秀三 北海道大学1958 本文の地名説話はこの文献を参考にしました。

(注4)『地名アイヌ語小辞典』知里真志保1956などにもある通り、同様の地名は北海道の海沿いに点在します。またかつて海中にイマニチ(焼き串)岩があったのですが、折れて沈んでしまったといわれています。

 

(やすだ ちか)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

 

 

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」

 

 アイヌ民族博物館で行われている伝承者(担い手)育成事業受講生の新着写真等を紹介します。

▶木幡弘文の一枚

▲写真 和名:サルナシ(コクワ) 萩の里自然公園(白老町) 2016.7.6

 

アイヌ語でクッチもしくはクッチプンカルといいます。

詳しくはアイヌと自然デジタル図鑑で(番宣)。

利用方法は実を食べるのが主としてありますが、このつるでかんじきも作ったそうです。

私たちは実を食べる他にジャムにもしてみました。

ちなみにコクワはキウイフルーツの親戚さんだということで、知った時にはびっくりしました。

(木幡弘文)

木幡弘文のアルバム

 

▶新谷裕也の一枚

▲写真 和名:ツルアジサイの花 アイヌ語名:ユクプンカル 錦大沼(苫小牧) 2016.6.21


いろいろな樹木に絡みついているツル性植物で、今時期花を咲かせます。白くて大きな花状のものは装飾花で、おしべめしべは未発達です。虫を寄せ付けるためにこのような構造ができたともいわれていて、普通花は飾り花のよりも中心部にまとまって小さく咲いています。アイヌ語ではユクプンカルと呼ばれています。

(新谷裕也)

新谷裕也のアルバム

 

▶中井貴規の一枚

▲写真 サッポロマイマイ 錦大沼(苫小牧) 2016.6.21

カタツムリは、アイヌ語で、セイノキキリ、キナモコリリ、モコリリ、セイェッポなどと呼ばれます。

ちなみに北海道では、サッポロマイマイ、エゾマイマイ、ヒメマイマイ、オカモノアラガイなどのカタツムリが見られるそうです。

殻の形、色、殻と同じように頭に線が入っているか入っていないか、貝の巻き方の比率などで見分けらます。

(中井貴規)

 

中井貴規のアルバム

 

▶山本りえの一枚

▲写真 和名:コウホネ アイヌ語名:カパト 錦大沼(苫小牧) 2016.6.21

 

この時期に沼に黄色い花が咲いていたら、コウホネの花です。

河の骨と書いてコウホネといい、根っこは骨のように白いです。アイヌはこの根っこを食べます。

私は食べたことがありませんが、食べたことがある人は、「あんまり美味しいものではない」と言っていました。

しかし、伝統的に食べられていたものなので、いつか私も食べてみたいなーと思っています。

(山本りえ)

山本りえのアルバム

 

 

▶山丸賢雄の一枚

▲写真 セミの抜け殻 アイヌ語名 yakisey  錦大沼(苫小牧) 2016.6.21

 

錦大沼公園でセミの抜け殻を見つけました。アイヌ語yakisey(セミの貝)と言います。抜け殻を見つけたり、セミの鳴き声が聞こえてくると夏の始まりが感じられますね。天敵に襲われたり、木から落ちるなど羽化するのも簡単ではないのでこの殻の持ち主は無事に羽化できて大空を羽ばたいているのでしょう。

(山丸賢雄)

 

山丸賢雄のアルバム

 

 

▶山道ヒビキの一枚

和名:オヒョウニレ アイヌ名:アッニ

4年前に園内のコタンコロクル像裏に植樹したオヒョウレニレの写真です。
葉が特徴的なので、比較的見分けやすい樹木ですね。
アイヌ文化では、この木の内皮から糸や反物を作ります。
白老地域では、5月から6月の樹木が水分を多く吸い上げた頃に樹皮を剥ぎ、
内皮を数日間沼などにつけやわらかくします。その後、細く裂いて糸にします。
その他にも灰を入れ、鍋やドラム缶で煮てやわらかくする処理方法も伝承されていますが、近年では苛性ソーダを使用する例もあります。
主に山地、まれに平地でもみられるオヒョウレニレを
昨年、白老近辺を歩いて調査しました。
その結果、標高150メートルから250メートルの山地に自生することがわかりました。
また、白老近辺では貴重なオヒョウニレは近年、エゾシカの食害にあっています。
山に入ると、オヒョウニレはだいたいエゾシカに樹皮を食べられていて、
養分が行き届かなくなり、数年で枯死してしまうのです。
その対策についても考える必要がありますね。

 

山道ヒビキのアルバム

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

1月号 2016.1

5月号 2016.5

6月号 2016.6

 

 

《伝承者育成事業レポート》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

《レポート》ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4

 

 

 

   

 

 

 

《儀式見学の予備知識2》祭神⑴ 家の神々

 

 文:安田益穂

 

1. はじめに

 

 前回は「式場とマナー」と題し、儀式の会場となるポロチセ(大きな家)のことや、上座と下座、見学上の注意点などをご紹介しました。今回と次回は、アイヌの儀式(カムイノミ)で祈る神々(祭神=さいじん)についてとりあげます。今回は主に家の中の神々(図1)、次回はヌサ(家の東屋外にある祭壇)に祭る神々です。

▲図1 ポロチセの家の神々とその配置

 

2. イナウについて

 ポロチセに入ると、カンナ屑のようにカールした白いものが家のあちこちに下がっていることに気づきます。「これは何ですか?」とよく来館者の方から質問されます。イナウル(注1)というイナウ(木幣)の一種で、神社や神棚などに下がっている紙の幣(しで→画像リンク)と同じものです。アイヌの幣は木の棒を削って作りますが(注2)、白老では棒から切り離したものをイナウルと呼び、棒(軸部)と切り離さないイナウ(木幣)と区別しています。イナウルは最も略式のイナウだと言えます。

▲写真1 炉の周辺、窓の両脇、宝物置き場の上、家の四隅などにイナウルが下がっている

▲写真2 新旧グラデーションのようになった上座のイナウル。

 

 イナウ(以下イナウルを含む)はカムイ(神)への贈り物です。カムイへの贈り物なので、イナウがある場所はカムイがいる場所だとも言えます。みなさんがポロチセの中を見渡したなら、アイヌの暮らしが神々とともにあることをきっと実感されることでしょう。

 イナウは儀式が始まる前に作り、決まった場所に配置します。儀式のたびに追加するので、すすけた古いものから新しいものまで、グラデーションのようになって盛り上がっている場所もあります。(前回大切なことを書き漏らしました。イナウはアイヌの神聖な祭具ですので、見学者の皆さんはイナウに触れてはいけません。

 このイナウのある場所を手がかりに、アイヌ(人)とともにチセ(家)に住む神々についてご案内しましょう。

 なお、以下は白老など北海道南西部に限った話ですので、イナウについて広く深く知りたい方は、北原次郎太氏の大著『アイヌの祭具 イナウの研究』(2014、北海道大学出版会)をご覧下さい。

▲写真3 コタンノミのために準備された各種のイナウ(2016.4.30)

▲写真4 白老地方の主なイナウ(アイヌ民族博物館『ポロチセの建築儀礼』より)

 

▲動画1 「白老アイヌの生活」(1925年)よりイナウ削りの場面。

①0:00〜ヤナギの皮をむく②0:11〜キケ(削り掛け)を削る③0:28〜削り掛けに撚りをかけて縄状にする④0:53〜同様に数本縄状の削り掛けを作り、キケチノイェイナウ(削り掛けを撚った木幣=最も高位のイナウの一種)の完成。③の前で切り離したものがイナウル。

 

3.火の神とその従神たち

 ポロチセの母屋を入るとすぐ囲炉裏があり、炉内の神窓寄りにチェホロカケプ(逆さ削りの木幣)というイナウが立っています。コタンノミ(集落の大祭)やイヨマンテ(熊の霊送り)など大きな儀礼では、数本並べて立てられます。 また炉かぎや炉棚の各部材、灰ならし、火箸、灯明などにもイナウルがつけてあります(写真1)。囲炉裏はアペソッキ(火の神の寝床)、その他も火の神の配下神(トポチカムイ)とされます。

▲写真5 火の神のイナウ(2005.11.13 秋のコタンノミ)

 カムイはみな理由があってカムイとして祭られるのですが、火の神は、炊事や暖房など人の暮らしを支える最も重要な存在であることから、祈り詞の中では「モシリコロフチ イレスフチ(国土を領する女神、我々を育てる女神)」などと呼ばれます。

 また火の神は儀式の際、人間の言葉を他の神々へ伝える仲介役を務めます。葛野辰次郎氏の祈り詞では「火の神が立ち上らせる煙の上に尊い言葉の魂をのせて神の国までよき伝言、言づてとして届けて下さい」(30206-1)と祈りますが、煙や火の粉、ふわふわと舞い上がる灰神楽などが神々への伝令をイメージさせるのかも知れません。

 火の神は白老や日高など北海道南西部では女神とされていて、チセコロカムイ(家の守り神=後述)と夫婦と言われます。ちなみに、カムイの名につくフチ(老婆=白老方言ではフッチ)やエカシ(老爺)はカムイの最上級の尊称で、老齢を意味しないとする考え方もあります。アイヌと自然デジタル図鑑にも夫神の浮気に嫉妬する火の女神の物語が採録されていて(火の女神の嫉妬 アテヤテヤテンナ)、同様の話が各地に伝わっていますが、確かに老夫婦の話と考えるとあまりしっくりこない気もします。

 なお、ポロチセの囲炉裏の中には枯れ葉が敷き詰められており、中央にはイナウルをボールのように丸めたものが埋められています。文献(注3)にならったものですが、指導にあたった藤村久和氏によればセレマッコレ(sermak-kore 霊力を持たせる)の意味だといいます。このイナウルの塊は新築の時にしか目にすることができないので、ちょっとしたトリビアではありますね。

▲写真6 ポロチセの囲炉裏の内部。枯れ葉を敷き、イナウルの塊を埋めてある。(1997.4.17)

 

[炉かぎの神]

 先に触れたように囲炉裏の周辺にはイナウルをつけたものが数々ありますが、火の神以外で特に重要なのがスワッフチ(炉かぎの女神)です。儀式は基本的に男性を中心に進められ、火の神に祈るのもふつうは男性に限られますが、炉かぎの神と庭の神(ミンタラフチ)は主に女性が祈る神とされます(地方によって異なります)。 2015年11月号「映像で見る挨拶の作法2「女性編」で紹介した通り、男性が祈った飲みさし(パケシ)の酒杯を女性が受け取り、炉かぎの神、炉尻の隅(注4)などにお神酒を垂らします。葛野辰次郎エカシの炉かぎの神への祈り詞は、炉かぎが煮炊きに役立っていることを褒め、感謝する内容でした。和人の暮らしでも囲炉裏やかまどで煮炊きしていた時代には炊事設備に感謝するということがあったのかも知れませんが、現代人はすっかり忘れた感性な気がします。ガスコンロや鍋敷きも世が世なら神様なんでしょうが、現代では報われていませんね。

▲動画2 炉かぎの神への捧酒(1990年実施のイヨマンテから)

 

 

4.家の守り神

 白老では室内の北東隅に3柱の重要な神を祭っています。先ほど火の神の夫神として紹介した①チセコロカムイ(家の守り神)のほか、②イレスプンキヨカムイ(子育てを司る神)、③イソプンキヨカムイ(獲物を司る神)がそれで、3神が分担してその家族の後ろ盾となって守護する役目を負っています。火の神同様、この神も室内で行う儀式には不可欠です。

 これらの神はイナウの一種なのですが、神への贈り物ではなく、それ自体がご神体です。材も一般のイナウがヤナギミズキが多いのに対し、ご神体のイナウはハシドイイヌエンジュが多く、小口は斜めにして「顔」に見立て、軸部にイナウルを着せてあり、極度に抽象化されていますが一種の人形と見ることもできます。家を新築した際に家の主人の守護神として作り、亡くなると役割を終えて解任されます。

▲図1 家の守護神の軸部(当館収蔵資料。栃木政吉氏が1977年ごろ製作、旧ポロチセに祭ってあったもの。役員の死去に伴い1991年に送った。アイヌ民族博物館2000『ポロチセの建築儀礼』より(筆者作図))

 以下の動画は以前にも紹介しましたが、結婚式の模様を再現したもので、酌を受けた新婦の父が家の北東隅に行き、家の守護神の前に座って祈っています。結婚は人生の一大事ですから、家族の守護神の分掌なわけです。

▲動画3 家の守護神への捧酒(1925年撮影『白老アイヌの生活』より)

 また、結婚式でなくても、他家を訪問した際には、まずその家の火の神と、このチセコロカムイの方にオンカミ(拝礼の動作)をします。家族の後ろ盾に挨拶する意味でしょう。

 この動画では低い位置にあってこれが本来なのですが、当館のポロチセでは神棚のように高い所に祭ってあります。これは来館者が触れるのを防ぐためです。儀式のたびにイナウルを足すので、次第に着ぶくれて周囲のイナウルと同化し、わかった人以外は気がつかないかも知れません。

▲写真7 家の神への祈り(2016.4.30)

 

 

5.家の神

 今さらですが、実はチセ(家)自体もカムイです。家が人に与える恩恵は言うまでもありませんね。火や炉かぎが神様なら家が神様でないわけがありません。家の神はチセカッケマッ(家の女神)と呼ばれる女神です。もっと長い名前もあって、葛野辰次郎氏の祈り詞ではチセペンノッカ チセパンノッカ ウアンパカムイ(家の東棟と家の西棟を支える神)と言います。

 典型的なチセ(家)の屋根は東西2カ所に三脚があって、その上に棟木を渡してあり、これが家を支える基本構造だと言われています(図2)。この三脚の交差する二カ所を夫婦の神が支えているというわけです。想像すると頭が下がります。「家を支えているのは柱だ」という声が上がりそうですが、山猟などの際に仮設する家は柱を立てないテント型が普通で、最初に三脚を2つ立て、横棒を渡し、その周りにフキの葉でも松の枝でもかければテントになります。本格的なチセを建てる場合も、先に屋根を造って後から柱の上に載せる工法が一般的でしたから、家の基本は屋根、屋根の基本は三脚だというのは理由がある話なのです。

図2 家の神の居場所(筆者作図)

 新築祝い(チセノミ)の際の恒例行事にチセサンペトゥカン(家の心臓を矢で射る)というのがあります。東西2つの三脚の内側に茅束(チセサンペ 家の心臓)を取り付け、参列者が矢で射るのです。矢は普通の矢ではなく、図1のチセコロカムイと同様にヨモギの茎に3段3翼の剥きかけをつけたもので、一種のイナウと見ることもできます。アイヌが最も霊力が強い植物のひとつと考えるヨモギの矢で家に生命を与える行事なのでしょう。1997年のポロチセの新築祝いの際の葛野辰次郎氏の祈り詞が残されています。(30209-3.家の魂入れの祈り

▲写真8 ヨモギの矢に剥きかけをつける

▲写真9 チセサンペ(家の心臓)。新築祝いで参列者が放ったヨモギの矢が刺さっている

 ちなみに、家の神のイナウはありませんから、祈る際には自分の座からイクパスイ(捧酒箸)を屋根裏の東西に向けて捧酒しながら祈ります。

 

6.戸口の神

 ポロチセに入ると玄関(セム)の両脇にイナウがたくさん刺さっている場所があります。これはアパサムシカムイ(戸口の神 アパサムンカムイとも)の幣所です。儀式などのために酒を造ると、イヌンパストゥイナウ(酒漉しの木幣)と呼ばれる酒粕ののったイナウをここに差します。また大祭で炉内に立てたチェホロカケプイナウの一部も儀式の最後にここに差します。

▲動画4 イヌンパストゥイナウ(酒漉しの棒幣)を戸口の神の幣所に納める(1990年のイヨマンテより)

 戸口の神はいわば門番が主な役目で、出入りする家族や客に紛れて魔物や病気が家に入り込まないよう見張ります。酒粕がのったイナウを捧げたり、あるいは次の動画では静内地方の伝承者、織田ステノさんが酒漉しに使った洗う前のザル(酒粕がザルの目に詰まっている)を叩くように指導していますが、酒粕は招かざる客(病魔や魔物など)に酒粕で満足してお引き取り願うための必要経費なのだろうと思います。この方法はしかし玄関が酒粕だらけになるため不評で、最近は戸口の外側に叩きつけるようになりました。

▲動画5 戸口の神に、酒粕のついた酒漉しのザルを叩きつける(1990年のイヨマンテから)

 

 

7.庭の神

 庭の神はミンタラフチなどと呼ばれる女神で、葛野辰次郎氏によればおばあさんが祈る神なのだそうです。当館では毎月初めの儀式でも庭の神に祈りますが、イナウが立っていないのでどこに向けて祈っていいのか質問されることがあります。

 1997年のポロチセの建築祝いでは、葛野辰次郎氏の指導で玄関先に実際にイナウを立て、杯台(天目台)に酒粕をひとつまみ盛って出向き、イナウの頭にのせてから祈りました。ただし、この写真のイナウは本来よりかなり大きく、実際は30cm程度の長さが本当だそうです。

▲写真10 庭の神への拝礼

 この祈り詞も後日、葛野辰次郎氏が録音してくれたものが残っています(30209-4.庭の神への祈り)。

 これを見ると、庭の神の役目もまた招かれざる客の接待振る舞いと、家の周囲を見守るのが役目のようです。他の祈りでは、子供たちが庭で遊ぶでしょうから、何事もないように見守って下さい、と祈っているものもあります。

 先ほどの戸口の神同様、こうして酒粕を盛っておくと、カラスが来てくわえて行ったり虫が寄って来たりするわけですが、彼らも招かれざる客なわけです。儀式の会場に入って酒の席を設けることはできませんが、どうぞ玄関先で酒粕でも持ち帰って、同族眷属のみなさんと楽しくやって下さい、という気持ちが込められているのでしょう。コタンノミなどの大祭の際には、現在この場所では儀式の受付が行われ、イナウは立てていませんが、儀式の時に神々の受付係にあたるのが庭の神なのだろうと思います。庭の神への祈りは現在、家の中から玄関先に向けて捧酒して祈ります。

 

8.窓の神

 ポロチセには窓が3つあって、ロルンプヤラ(神窓=東窓)、イトムンプヤラ(南窓)、ポンプヤラのそれぞれの窓脇にイナウルが下げてあります。(注5

 神窓は、儀式の時以外は閉めてある地方もあったそうで、室内の神々とヌサ(家の東屋外の幣場)とをつなぐ祈り詞や供物の経路でもあり、またクマや初鮭などの獲物を迎える窓でもあります。南窓は白老では海の獲物を入れるのに使いますが、神窓のような特別な窓というわけではありません。それぞれイナウルに捧酒しながら、窓の神へ感謝の言葉と、やはり病魔などが入り込まないように家族を見守って下さいと祈ります。

▲写真11 神窓の神へ捧酒する

 

注1)イナウル(inaw-ru 幣・細長いもの)は、地方によってはイナウキケ(削り掛け)、チメスイナウ(cimesu-inaw はぎ取られた・木幣)などと呼ばれる。

注2)木の幣は本州にも見られ、削り花などと呼ばれる。

注3)鷹部屋福平1939「アイヌ住居の研究」『北方文化研究報告』第二輯 北海道帝國大学。「……爐を初めて使用するには、年寄りの心がけのよき人が先づ火を起こすのであって、それには、爐を掘り、イナウを作りかため、それを埋めてその上に充分土をかぶせ、かくしてその上に初めて火をおこすのである。」。他、高倉新一郎「アイヌ家屋の調査」『アイヌ民俗資料調査報告』北海道教育委員会、1968、萱野茂『チセ・ア・カラ』未来社など。

注4)炉尻の神はイナウルも何もなく、ポロチセでは打ち込んである丸太の周辺に捧酒する。炉かぎに下げて煮炊きした鍋をあげる場所の神、スヤンケマッ(鍋をあげる女神)か。

注5)プヤラは沙流方言、幌別方言ではプライだが、白老は伝承者によってどちらも使うようである。

参考文献

アイヌ民族博物館1998『アイヌ民族博物館公開シンポジウム アイヌのすまいチセを考える』

アイヌ民族博物館2000『伝承事業報告書 ポロチセの建築儀礼』

アイヌ民族博物館2003『伝承事業報告書2 イヨマンテ—日川善次郎翁の伝承による—』

アイヌ民族博物館2003『伝承記録7 葛野辰次郎の伝承』

萱野茂1976『チセ・ア・カラ』未来社

北原次郎太2014『アイヌの祭具・イナウの研究』北海道大学出版会。

高倉新一郎1968「アイヌ家屋の調査」『アイヌ民俗資料調査報告』北海道教育委員会

鷹部屋福平1939「アイヌ住居の研究」『北方文化研究報告』第二輯 北海道帝國大学

満岡伸一2003(1924)『アイヌの足跡』第9版 アイヌ民族博物館

(やすだ ますほ)

 


【儀式見学の予備知識 バックナンバー】

1.式場とマナー

 

[トピックス バックナンバー]

1.「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

2.『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9

3.第29回 春のコタンノミ開催 2016.5

 

[資料紹介]バックナンバー

1.映像でみる挨拶の作法1 2015.10

2.映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

3.映像で見るアイヌの酒礼 2016.1

4.白老のイヨマレ(お酌)再考 2016.3

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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