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月刊シロロ

月刊シロロ  8月号(2016.8)

 

 

 

《図鑑の小窓16》「カタムサラ」はどこに

 

 文・写真:安田千夏

 

 アイヌ語名「カタム」という植物があります。『樺太植物誌(宮部・三宅1915)』や『分類アイヌ語辞典(知里1953)』によると、ツルコケモモのことを北海道(注1)や樺太でそのように呼んでいたと書かれています。

 ツルコケモモは一般的にミズゴケ類が豊富な高層湿原(注2)にみられます。地面を這うように伸びる常緑の小低木なのですが、コケという名が示す通りとても小さくて、モウセンゴケなどにまぎれて地を這うように生育しているのを探すのはなかなか大変です。昨年度7月の伝承者育成事業自然講座で限られた場所にしか生育しないため普段見ることのできないこの植物を是非一度見ておこうということになり、長万部町の静狩湿原(注3)まで行って折しも色づき始めていた果実の写真を撮ることができました。

▲写真1 ツルコケモモの花(アイヌと自然デジタル図鑑より)

▲写真2 ツルコケモモの実(中井貴規氏撮影 2015年7月13日 長万部町静狩湿原)

 どうしてそんなにツルコケモモが見たかったのかというと、アイヌの口承文芸では英雄叙事詩や散文説話の情景描写に「カタムサラ(ツルコケモモ原)」という表現が出て来ることがあるからなのです。そんなわけで実際にツルコケモモを見て口承文芸の世界観を実感できましたと言ったらきれいにまとまるのですが、じつは話はそれで終わりません。アイヌ民族博物館の音声資料を見ると、カタムがツルコケモモであるという情報は出て来ないのです。以下に伝承者の方々が「カタムサラとは?」という質問についての説明を試みた部分を抜き書きしてみました。

白い、木のない、畑みたいな、平らなところではないか(静内34131 織田ステノ)

カタムは「平ら」ではないのか。(中略)「平ら地」できれいだからそこを通って行く話かなと思ったの。(伝承者非公開資料)

カタムサラって言えば「平地できれいな」。(中略)カタムサラって言うからやっぱり、低いラペンペ(カヤ)に似た草が低くきれいに生えている話ではないかなと思う。(伝承者非公開資料)

カタムサラっていえば、低くカヤやらササが育って、ずーっと見通しがいいからそういうふうに言ったのではないか。「チエトゥイマ コロ ラクラクパイェレ(遠くまでのどかに見え渡る)」ていえば、やっぱりその…牧草地ではない、草刈り場。そのような場所を言うのかも知れないと思う。ササ生えたりカヤ生えたりして、ずーっと平らになっている。(伝承者非公開資料)

 

 これらのイメージから想像すると、カタムサラはうっそうと木が生い茂っているのではなく、はるかに見渡せるような平原で、何かしらの背の低い植物が群生している場所。絵的にはそのような情景が思い浮かびます。

 かつての女性伝承者の暮らしを考えてみたときに、ツルコケモモの生育している場所は女性の足では行きづらい場所であり、実際に見たことがなかったために名前が出て来なかったのではないかという考えが浮かぶ一方で、改めて辞書類を確認するといずれも上記の聞き取りデータに負けず劣らずイメージにばらつきがあって、ツルコケモモの名称があまり出て来ないことがわかりました。

1.Katam-sara,カタムサラ,ササハラ(batchelor1938)

2.katamsar(a) 木のあまりない笹原(久保寺1992)

3.katam-sar(i) つるこけももの群生している湿原(久保寺1992)

4.katamカタム【名】[植物](ヨシでもカヤでもない細いもの、苫小牧と沼ノ端[地名]の間の湿原に生えている)。(田村1996)

5.katamsar カタムサラ 【名詞】 山のなかの平原(意味未詳)(奥田1999)

 

 ササ原、カヤ原という説明が思いのほか多いのが興味深いところですが、そうだとするとツルコケモモ原とではずいぶん絵的なイメージが異なります。結局のところよくわかりませんということで終わるのもすっきりしませんし、少しでも場所的なイメージを抱く手がかりが欲しいところなので、最後にアイヌ民族博物館資料の散文説話で語られているカタムサラについてまとめておくことにします。

織田ステノ(語り)「家の守り神と娘」C018OS_34120A_34120B
主人公:人間の娘
カタムサラの位置情報:川の上流
場所の位置づけ:カタムサラ建っていた家の守り神である木幣が人間の姿となり主人公を呼び寄せる
描写部分:「川をさかのぼって行くと川の上流にきれいなカタムサラがあって、その真ん中に大きな家が建っていました」

織田ステノ(語り)「パナウンペとハルニレの木」C023OS_34127A
主人公:パナウンペ(川下の者)
カタムサラの位置情報:東の方
場所の位置づけ:ハルニレ神がパナウンペに示した移住先
描写部分:「『(ハルニレ神が)ここから東の方へ行くと、大きくてきれいなカタムサラがあるのでそこに家を建てて暮らしなさい』と教えました」

織田ステノ(語り)「パナウンペとハルニレの木」C034OS_34144B_34157A(C023OS_34127Aの別伝)
主人公:パナウンペ(川下の者)
カタムサラの位置情報:東の方
場所の位置づけ:ハルニレ神がパナウンペに示した移住先
描写部分:「『(ハルニレ神が)ここから東の方へ行くと、きれいなカタムサラがあるのでそこに家を建てて暮らしなさい』と教えました」

織田ステノ(語り)「いつの間にか子供ができ置き去りにされた娘」C111OS_34449B_34450A
主人公:人間の娘
カタムサラの位置情報:神の山の上
場所の位置づけ:主人公が子供を産んで暮らすために、父親の指示で家族がカタムサラに家を建てる
描写部分:「川をさかのぼって行った先の神の山の上にきれいなカタムサラがあるので、そこに家を建てなさいと父が兄達に命じました。」

 

 これらによると、カタムサラは「東の方」や「山の上」に存在すると考えられていたようです。そして植物名が何かということ以上に「わけあって主人公が暮らすことになる移住地」もしくは「神が住んでいる場所」という、日常とはかけ離れた特別な空間というイメージで語られていることが重要なのではないかという気がしました。

 口承文芸資料に登場するものの実像がよくわかっていないカタムサラ。あたかもアイヌ文化における桃源郷のようなその場所を山に登るたびに探してしまいます。なかなかこれぞまさにという場所は見つけられないものの「チエトゥイマ コロ ラクラクパイェレ(遠くまでのどかに見え渡る)」とは下の写真のような景色のことを言うのかな、などと想像をふくらませながら。

▲写真3 樽前山から支笏湖を見下ろす

 

(注1)地域は知里1953によると「長万部、幌別、斜里、美幌」。

(注2)高い山の上にある湿原を指すと誤解されている場合がありますが、低地帯にも高層湿原は存在します。寒冷地でミズゴケなどの植物遺体が分解されず泥炭となって堆積しドーム状となり、周囲の川や湖沼から水が流れ込まない状態になった湿原のことです。

(注3)海岸近くにある高層湿原です。実際に行ってみると泥炭地とはいえ足が沈み込むことなく普通に歩けますが、ピョンピョンとジャンプすると地面が揺れ、とてもやわらかいことを実感しました。ちなみに白老町の近隣では他にもホロホロ湿原でツルコケモモを観察することができます。

 

<参考文献・データ>
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
奥田統己『アイヌ語静内方言文脈つき語彙集(CD-ROMつき)』(1999年)
久保寺逸彦『アイヌ語・日本語辞典稿』北海道教育委員会(1992年)
J.batchelor『アイヌ・英・和辞典』岩波書店(1938年)
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館(1996年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所 (1953年)
宮部金吾・三宅勉 『樺太植物誌』 樺太庁(1915年)

(やすだ ちか)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7

 

 

 

《みんな、昔なに食べた? 第2回》昌子編

 

 文:八谷麻衣

 

《今回のお話に登場する人》

八谷昌子、昭和20年生まれ、旭川市北門町出身。
  (イラスト:山丸賢雄)

 

-昌子さんは昔食べていたもので印象に残っているものってありますか?

昌子:そうねぇ、私はウタリ(同胞・アイヌ民族)だからって特別何か食べていたものってないかもしれないわ。

 川村家は観光業をしていたから、ケーキやらお菓子やら貰って食べていたから何も珍しいものはないんじゃないかしら。

-では、アイヌのという事でなくてもいいので、何か好きだったものや、忘れられないものというのはありますか?

昌子:家の応接間にね、石炭ストーブがあって、そのうえに鍋をかけて中にでんぷんを入れてぐるぐるーっと混ぜて、そこにお砂糖を足して食べていたわ。

-日常的なおやつのような感じですか?

昌子:そうね。よく母さんが作っていたわ。あ、そうそうホルモンをドラム缶に入れて自転車に乗って売りに来る人がいたから、量り売りで買っていたわよ。

-それは大体いくらくらいだったんでしょうか?

昌子:値段は自分では買った事がないから知らないわね。大きいまま切らないで、茹でて洗って焼いて食べていたわ。マキリ(小刀)を使って切りながら食べるの。豚の骨も、肉がついているのを切って大きな鍋で煮て、骨の髄を吸って食べていたわ。昔、食べようとしたときに荒井源次郎さんが家に来て、源次郎さんは骨を食べない人だったから、食べようとしている私たちを見て「しまいなさい」と言われて食べられなくてずっと我慢したりした事もあったわ。

-お肉が多かったんでしょうか?

昌子:そんな事はないわよ。雨紛の山の中の川に、松明をつけて父さんが歩いて行くと、魚が寄ってくるから、それを網でとって焼いて干してルル(汁物)の出汁なんかにして食べていたりもしたわ。小さい小さいカジカ。骨ばっかりでね、身がそんなにないからあんまり出汁は出てなかったけどね。

記念館では熊を飼ってましたよね。イオマンテ(熊送りの儀式)の際の料理で覚えているものはありますか?

昌子:イオマンテの料理ね。イオマンテのときには、チノイベ(脳みそのあえ物)するの。そのときにはネギなんかは入れてなかった。生ぬるい血をみんなで飲んでた。私も飲まされたけど、どろっとしていて美味しくないんだけど、体に良いから飲めって言われて飲まされるの。いやだったわ。

 あとね、キリボ(脂身)を生のままくちゃくちゃと食べていたわね。みんなは美味しい美味しいと食べていたけれど、私は美味しいとは思わなかったなぁ。

-熊といえば、確か昔襲われかけた事がありますよね。

昌子:そうなの!あれは怖かったわー。小学校のころにね、米軍だか自衛隊だかの熊を家で預かっていたの。それはそれはきかない熊で、私は傍に近づいた事はなかったの。

 みんなに意地悪されて檻から逃げ出してね、私は押し入れの布団の中に、そのときにいた使用人と一緒に隠れたの。熊は玄関の大きな扉を壊して入ってきて、中の戸もバリっと壊して2階に上がってきて、押し入れの戸もバリーっと壊されたの。でもね、布団の中に深く入っていたから気付かれなくて、熊はそのまま下に降りていった。そのあとに教育大学の方に向かって行って、うちの向かいにいたIさんの事を襲って、顔も何もめためたにされてしまっていた。今でも忘れたころに夢に出てきてとても怖いわ。本当に怖かった。

-どれくらいの頻度で熊を食べてましたか?

昌子:毎年毎年熊が家に来ていたから、2年に一度食べる機会があったわね。熊の餌を炊く小屋があって、そこの上で熊の肉を燻製にしていたわ。脳みそはね、頭の肉をきらずにごろんとなったままで茹でて、それから脳みその中に入れて混ぜていたわよ。脳みそが少ししかないときは茹でた豆腐を入れたりもしていたわね。味付けは塩。Aさんがね、マキリでしゃしゃしゃっと熊をさばいてくれていたわ。肉はルル(汁物)にして食べたわね。シト(団子)もルルに入れていたわ。

-今回も面白い話をありがとうございました。

 

《みんな、昔なに食べた? バックナンバー》

 

第1回 木ネズミ(エゾリス)の味 2016.2

 

 

 

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」

 

 アイヌ民族博物館で行われている伝承者(担い手)育成事業受講生の新着写真等を紹介します。

▶木幡弘文の一枚

▲和名:マタタビ アイヌ名:マタタンププンカラ 他 7月26日 白老町若草

 

写真を見て先月の写真と一緒と思う方もいるかと思いますが、違います。

猫が酔っ払うマタタビの花です。アイヌ文化では実を食べる事が主立っていました。

しかし、コクワほどおいしくないとの事でアイヌ名の中には「チカプクッチ(鳥のコクワの実)」と「チカプ(鳥)」の意味を冠する言葉で表現されることも。

コクワと違う所は葉柄部分が比べて赤くなく、雄しべが黄色である所が見分けるポイントかと思われます。葉っぱを見るほうが見分けはしやすそうですね。

(木幡弘文)

木幡弘文のアルバム

 

▶新谷裕也の一枚

▲ホタルブクロ  7月23日 白老町森野


 大きくて可憐な釣鐘状の花を咲かせるホタルブクロはキキョウ科の多年草で、北海道に自生している花ではなく、園芸種です。花には赤紫のものと白いものがあります。大きい花には虫が密を求めて集まってきていました。これだけ大きいと密も沢山ありそうですね。

(新谷裕也)

新谷裕也のアルバム

 

▶中井貴規の一枚

▲オオハナウド 白老町森野 7月23日 中井貴規

 

オオハナウドは、アイヌ語でピットクと呼ばれます。

以前、ピットクを採取して、茎を少し食べてみたのですが、同じセリ科のセロリのような食感でした。

エカシやフチのお話によると、ピットクは「特別な役割を持って天から降ろされたもの、カムイラタシケプ」なのだそうです。

アイヌ民族博物館では、毎年春と秋にコタンノミという儀式が行われます。

その儀式の際、このピットク、シケレペキナ(ヒメザゼンソウ)などの山菜や、

タバコ、干した魚の尾ひれなどを火にくべて、ハルエオンカミという病魔よけのお祈りが行われます。

(中井貴規)

 

中井貴規のアルバム

 

▶山本りえの一枚

和名:クジャクシダ アイヌ語:エトゥケムヌムン、ケムトゥイェキナ  白老町森野 7月23日

 

クジャクが羽を広げたように華やかに生えるシダ植物です。アイヌ文化では血を止める薬や、温湿布にも使われました。リュウマチの薬に使って治ったという人もいるそうです。私の父はこの草を「カムイノヤ」と言い、お茶にして飲んでいたと言っていました。まだ私は飲んだことがないので、今度飲ませてもらおうと思います。

(山本りえ)

山本りえのアルバム

 

 

▶山丸賢雄の一枚

タモギタケ アイヌ語名 チキサニカルシ cikisanikarus  白老町森野 7月23日

 

 ハルニレになるキノコなのでチキサニカルシ cikisanikarus(ハルニレになるキノコ)と言います。伝承ではタモギタケが食べられるという事を教えたのはマムシの神様です。少年の姿になったマムシの神が一人の男性を自分の家に招き、タモギタケの汁を振る舞います。そしてこう言いました。「私たちの食糧でもあるタモギタケですが、人間は食べることができるのに全く食べないのでいつも腐ってしまっています。今、あなたに食べられることを教えたのでこれからは食べるようにしてください。また、マムシには悪さをする物もいれば悪さをしない物もいます。悪さをしない物は叩いてはいけませんよ。」そう言ってマムシの神が人間にタモギタケが食べられることを伝えたそうです。

(山丸賢雄)

 

山丸賢雄のアルバム

 

 

▶山道ヒビキの一枚

▲和名:アキカラマツ アイヌ名:アリッコ 2016.7.23 森野

 

 

アキカラマツの葉が紅葉していました。茎が折れ、栄養がなくなったため早く紅葉したのですね。

記録には、「気の短い人、気の荒い人、酒癖の悪い人、疳の強い子に、この種実を飯に混ぜて食べさせた」とあります。

その際に“エラム アンライケ”「お前の心、殺したぞ」というようなおまじないの言葉を唱えていたそうです。

ぜひ、短気な人や酒癖の悪い人のご飯に混ぜてみてくださいね。

(山道ヒビキ)

 

山道ヒビキのアルバム

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

1月号 2016.1

5月号 2016.5

6月号 2016.6

7月号 2016.7

 

 

《伝承者育成事業レポート》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

《レポート》ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4

 

 

 

 

《儀式見学の予備知識3》祭神⑵ 祭壇の神々

 

 文:安田益穂

 

1. はじめに

 

 この連載では、第1回で「式場とマナー」について、前回第2回は儀式で祭る「家の神々」をご紹介しました。家の神々は、建物、囲炉裏、窓、戸口、上座、庭など、家の中やその周辺の具体的な場所に宿る神でした(図1=再掲)。ですから多くの場合、神に直接お神酒を垂らしながら祈ることができました。

▲図1 ポロチセの家の神々とその配置(再掲)

 一方、今回紹介する「祭壇の神々」は、チセの東側の屋外に10メートルほど離れて設けられた祭壇(ヌサ、ヌササン、イナウサン等とも)に祭られます。祭壇に祭られてはいますが、実際のすみかは海や山、川など広範囲に及びます。例えば山の神(=ヒグマ)は、祭壇にではなく山に住んでいます。他の神々も同様で、儀式のたびに海や山、川に出向けませんから、祭壇に神々の「窓口」を集約し、実際の儀式は祭壇の前で行うわけです。この点は和人の神棚や仏壇も考え方は同じでしょう。ハンケカムイ(近い神)、トゥイマカムイ(遠い神)という言い方がありますが、家の神々は前者、ヌサに祭る神々の多くは後者に当たります。

▲写真1 ヌサの前で神々に祈る(コタンノミ 2005.11.13)

 本来ヌサに祭る神々は地方や家系によって異なり、神名、祈りの言葉や方法などが厳格に受け継がれます。また祭るに至った由来などが神話や伝説として残っている場合もあり(注1)、これらに通じていることは一人前のアイヌ男性として欠かせない教養でした。

 当館ポロチセの祭壇の神々も、アイヌの伝統に基づいていることは間違いないのですが、特定の家系や地域の伝承に基づくものではなく、白老の文献や各地の伝承を総合して復元したものであることに留意する必要があります。そのため神々の由来や祭り方など不明な点が多くあります。こうした白老の儀式伝承が失われた経緯を少し見ておきましょう。

 

2.白老のヌサはいつごろなくなったか

 

 ヌサは本来どの家(チセ)にもあるもので、熊送りなどの儀式や冠婚葬祭はもちろん、粗末にできないものを納める(動物の骨、穀物のぬか、古くなった臼や杵・祭具などを処分する)場所として日常的にもアイヌの生活に欠かせないものでした。

 しかし明治以降和人の入植によって生活が大きく様変わりし、アイヌの神々を祭って代々ヌサを守り伝えることが難しくなると、粗末になることを危惧したアイヌの人々はヌサを送り(=処分し)ました。また「自分が死んだらヌサは処分してくれ」と周囲に託す人もいました。白老では早くからアイヌ文化が失われたため、1940年ごろ白老でヌサを持つ家はすでに10軒未満だったと言います。

 これに更に拍車をかけたのが戦争です。儀式は基本的には男の役割ですから、男たちを兵隊にとられればヌサが粗末になります。そこで残されたヌサはまとめて仙台藩白老元陣屋跡の塩竈神社の山の麓などに納めたので、若者たちが戦争から帰った1945年以降には白老にはヌサがほとんど消えていたと言います。(伊藤年吉・熊野末太郎 30602、30604、30616ほか) その後もヌサを必要としない家庭内でのシンヌラッパ(祖先供養)や個人的な祈りなどはあったと思われますが、本格的なカムイノミ(儀式)の伝統は一旦途絶えます。

 戦後アイヌ観光が盛んになると興行的なイヨマンテ(熊送りの儀礼)が度々行われるようになりました。白老でも昭和30年代と思われる写真には、ヌサの前でポーズをとる観光客らしき人々の記念写真が見られます。

 その後、1965年にアイヌコタンの見学用施設を市街地から現在のポロトコタンに移転してチセ(家)やヌサが順次復元され、1984年に博物館がオープン、儀式は観光色を薄め博物館の文化伝承事業の一環として行われるようになりましたが、その頃には儀式に通じた白老の古老はすでに亡くなっていました。

 このような経緯から、今みなさんが見学されるヌサは、限られた文献、特に白老アイヌの記録である満岡伸一2003(1924)『アイヌの足跡』に記された「白老酋長熊坂家の祭神」や、他地方の伝承者の指導などを総合して復元しており、もはや由来を遡ることが難しくなっているのです。

 

3.当館ポロチセの3つのヌサ(幣棚)

 

 来館者の皆さんが見学されるアイヌ民族博物館のポロチセの東側の野外には、祭壇が3つあり、14柱の神々を祭っています。これは前述の通り復元したヌサであり、確かに失われた伝統もありますが、白老アイヌの伝統を後世に伝えるべく諸先輩が検討を重ねたものであり、現時点の白老の儀礼伝承の集大成だとも言えます。


▲図2 ポロチセの祭壇の神々 (クリックで拡大)

 ①ポンヌサ(小さい祭壇)②ポロヌサ(大きい祭壇)は、日高地方では①ラムヌサ(低い祭壇)、②リーヌサ(高い祭壇)と呼ばれ、それぞれ数神を祭りますが(図4参照)、白老の場合①にはヌサコロカムイ1神のみ祭るため、①はヌサコロカムイ、②は単にヌサと呼ぶこともあったようです。③シンヌラッパヌサは1994年に追加されたもので、元々は柵状の構造物はなかったとのこと。また、現在当館のポンヌサはポロヌサと同じ高さがありますが、古い写真や記録映画を見ると、ラムヌサ(低い祭壇)と呼ばないものの実際にはやはり背の低い祭壇だったことがわかります。

▲写真2 ヌサの前で祈る人々(木下清蔵写真より。大正末期〜昭和初期の白老。左の低い祭壇がポンヌサ、3人が祈っているのがポロヌサ。男性二人はエムシ[儀刀]を佩いている)

 ヌサに立てるイナウやその部材はヤナギを多く使いますが、ヤナギは挿し木が容易で根付くことがよくあり、この写真でもあちこちにヤナギが伸びているのがわかります。アイヌはヌサにヤナギが根付いて生い茂るのを一族繁栄の吉兆として喜んだと言います。現在のヌサは1997年に再建したもので、それ以前は根付いたヤナギが見られましたが、新しいヌサは土壌をすべて砂にしたためか、見られなくなりました。

 

4.ヌサの14神

 

 図2で掲げた14神(①〜⑭)について、少し詳しく見ていきましょう。

▼表1 アイヌ民族博物館の祭神14神と白老の祭神
      (橙色の神名は、満岡2003(1924)に見えないもの)

  神名 和名 備考(神体、由来等)
ヌサコロカムイ 幣場を司る神 ポンヌサに祭る神。ヌサ全体を統率するほか、農業神で、糠を盛る。門別1966等「ヘビの姿」、葛野1995「土」
シリコロカムイ 大地を司る神 樹木
ハシナウウクカムイ 柴幣を受け取る神 鳥の姿
クッタルシヌプリコロカムイ 窟太郎山を司る神 窟太郎山は倶多楽湖の外輪山の白老側。⑲と同一神か。
メトッウシカムイ 山奥の神 クマ。狩猟を授ける。別名イウォロコロカムイ。
ペテトクンカムイ 水源の神 犬飼1954「ペッカムイノミ」で祭る
ケマコシネカムイ キツネの神 キツネ
トーコロカムイ 湖沼の神  
ワッカウシカムイ 水の神 葛野1995「水」。
トマリコロカムイ 舟着場の神 門別1966「ヨモギ人形、疫病を退ける」
チワシコロカムイ 河口を司る神  
マサラコロカムイ 海岸を司る神 門別1966「エンジュの神、舟の出入りを見守る」
アトゥイコロカムイ 海を司る神 1989年のイヨマンテで日川善次郎氏の提案で「今回限り」として祭る(2003a)
コタンコロカムイ 集落を司る神 シマフクロウ
以下は満岡2003(1924)に「白老酋長熊坂家の祭神」として記載があるが現在当館で祭っていない祭神
チロンヌプカムイ キツネ神 熊坂家のチャシコッを守る神(⑦と同一か)
スルクカムイ 毒草の神  
イヌイナカムイ 隠れ処の神 白老山奥に疫病を避けて隠れた岩穴
ベンテンシャマ 弁天様 内地の神だが白老漁場請負人当時から氏神として祭り今でも神社に合祀している。
ヌプルペッ カムイ タプカシ エヌプル カムイ 登別温泉の神 満岡2003(1924)に伝説あり(④と同一か)
シランパカムイ 大地を掌握する神 別名「山の中腹の神」

 

 祭神及び捧げるイナウの種類は、1989年に日川善次郎氏(屈斜路湖畔在住、伝承地は沙流地方)を招いて実施したイヨマンテを元に、1997年のヌサ再建を経て、その後もいくつか変更を重ねながら現在の形になっています(アイヌ民族博物館2003a)。

 

5.儀式ごとの祭神

 

 ヌサの祭神は、どの儀式でも全ての神を祭るわけではありません。14神すべてを祭るのはコタンノミ(春秋の大祭)やイヨマンテ(熊送りの儀式)、チセノミ(新築祝い)などの大祭に限られ、その他の儀式では儀礼の趣旨に関連する神々を選抜して祭ります。現在当館で毎月1日に実施しているチュプカムイノミ(月例儀式)をはじめ、いくつか例を示します。

チュプカムイノミ(月例儀式=復元儀礼)※図1の家の神は全神祭る
①ヌサコロカムイ 祭壇の神
②シリコロカムイ 大地の神
⑧トーコロカムイ 湖沼の神
⑨ワッカウシカムイ 水の神
⑭コタンコロカムイ 集落の神

 

地鎮祭(満岡2003[1924])
❶カムイフッチ 火の神(図1❶)
①ヌサコロカムイ 穀物の神
⑨ワッカウシカムイ 川の神で将来この家に居住する者に水を供給する神
⑳シランパカムイ 山の神で建築材料を供給する神

 

疫病よけの祈り(満岡2003[1924])
❶カムイフッチ 火の神(図1❶)
❷チセコロカムイ 家の守護神(図1❷)
①ヌサコロカムイ 穀物の神
⑩トマリコロカムイ 海の神
⑪チワシコロカムイ 川尻の神
⑫マサラコロカムイ 海岸の神

 

ペッカムイノミ(犬飼1954)
❶カムイフッチ 火の神(図1❶)
⑥ペテトクンカムイ 川上の神
 ペップトゥンカムイ 川下の神
⑦ケマコシネカムイ キツネの神
⑩トマリオルンカムイ 入江の神
⑪チワシコロカムイ 河口の神

 

 

6.イナウ(木幣)のセット

 それぞれの神には数本のイナウをセットにして立てます。神によって①キケチノイェイナウ(削り掛けを撚った木幣)、または②キケパラセイナウ(削り掛けが広がった木幣)を③イナウケマ(幣脚)と呼ばれるヤナギの棒と接合して中心に配し、左右に④ストゥイナウや⑤ハシナウ、⑥チェホロカケプと呼ばれるイナウを配置します(各イナウの写真)。材はミズキかヤナギを用います。

▲図3 1神に立てるイナウの組み合わせの一例(アイヌ民族博物館2000より引用)

 静内地方の伝承者・葛野辰次郎エカシ(エカシは長老の意)によれば、キケチノイェイナウはピンネイナウ(男の木幣)、キケパラセイナウはマッネイナウ(女の木幣)と呼び、男の木幣は女神に、女の木幣は男神に捧げるのだそうです。ただし、当館の祭神の場合、女神・男神の区別が明確でないため、このルール通りにはなっていません。

 

7.祭神のローカル度

 

 現在当館で祭る14神(表1の①〜⑭)のうち、白老の地名を冠した祭神は④クッタルシヌプリコロカムイ(窟太郎山の神)のみで、他は地名などはついていません。一方、満岡2003(1924)では「登別温泉の神」(表1の④)を紹介し、

白老アイヌは登別温泉の神を「ヌプルペッカムイタプカシエヌプルカムイ」[nupurpet-kamuy-tapkasi-epunkine-kamuy登別の聖なる山頂を守る神]と称し、諸神の中でも特に大切な神として祭る。この神に関する伝説は、……(略)」

と、由来譚の詳細を記しています。窟太郎山(→googlmap)は白老から見て登別温泉の手前にある山で、あるいは⑲登別温泉の神と同じ神かもしれませんが、詳細は不明です。

 また、表1の⑮〜⑳には、熊坂家と縁のある地元の祭神が含まれています。

 アイヌの神々には天地創造神話に基づく神など、広い地域で祭られる神もありますが、例えば「川の神」「山の神」と言っても全道各地で同じ川、同じ山を指しているわけではなく、コタン(集落)の周辺の川や山を指す場合が多いようです。例えば、葛野辰次郎家の祭神は、氏の居住地と、縁あって祭るようになった近隣地域の神々を多く含みます。(以下、藤村久和1982より引用)

 

▲図4 葛野家の祭神(クリックで拡大)。図5の番号と対応している。(藤村1985より引用)

 

▲図5 葛野家の祭神の所在(クリックで拡大) 図4の祭神と対応している(藤村1985より引用)

 

 

7.おわりに

 今回はヌサに祭る神々をご紹介しました。次回は儀式の式次第(進行)について取り上げる予定です。

 

 

(注1)2015年7月号で紹介した天地創造神話には、ヌサコロカムイやハシナウウクカムイなど、現在当館で祭る神々のルーツに関わる話が含まれている。

 

 

〈参考文献〉

アイヌ民族博物館2000:『伝承事業報告書 ポロチセの建築儀礼』

アイヌ民族博物館2003a:『伝承事業報告書2 イヨマンテ—日川善次郎翁の伝承による—』

アイヌ民族博物館2003b:『伝承記録7 葛野辰次郎の伝承』

青柳信克編1982:『河野広道ノート 民族誌篇 イオマンテ・イナウ篇』北海道出版企画センター

犬飼哲夫1954:「アイヌの鮭漁に於ける祭事」『北方文化研究報告』9 北海道大学

葛野辰次郎・ツル(語り)・藤村久和(訳註)1995:「2 静内町でのくらし」『アイヌのくらしと言葉4』北海道教育委員会

葛野辰次郎(語り)・藤村久和(訳註)1997:「Ⅱ 静内町でのくらし」『アイヌのくらしと言葉5』北海道教育委員会

藤村久和 1982:「アイヌの信仰—葛野家に見る神と人との共存—『探訪神々のふる里10 みちのくの神と祈り』小学館

満岡伸一2003(1924):『アイヌの足跡』第9版 アイヌ民族博物館

門別町郷土史研究会 1966:『アイヌの祈詞』

 

(やすだ ますほ)

 


【儀式見学の予備知識 バックナンバー】

1.式場とマナー 2016.6

2.祭神⑴ 家の神々 2016.7

 

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1.「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

2.『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9

3.第29回 春のコタンノミ開催 2016.5

 

[資料紹介]バックナンバー

1.映像でみる挨拶の作法1 2015.10

2.映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

3.映像で見るアイヌの酒礼 2016.1

4.白老のイヨマレ(お酌)再考 2016.3

 

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第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

 

 

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