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文・イラスト:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)
樺太アイヌの犬ゾリ文化は、ソリの形状や名称などにニヴフ文化やアムール地方とのつながりが強く感じられます。知里真志保氏は「樺太アイヌの神謡」の中で、犬ゾリに関する様々な語彙がニヴフ語からの借用語であり、犬ゾリ文化そのものがニヴフ民族から渡来したものだと述べています(注1)。それは、イヌの装具類についても同じことが言えます。
イヌの装備品と、引き綱および周辺の装備を表1にまとめました。先頭犬はハナと呼ばれる首輪をつけます。ハナはメインの引き綱「ヌソトゥシ」でシケニに結ばれます。引き綱には皮を編んだ縄、または麻縄が使われ、その両端にはねじれを防止するために転環(撚り戻し)がついています。首輪と引き綱をつなぐ転環をマハルと呼び、シケニと引き綱をつなぐ転環をタカオコマハルまたはシケニオコホペ呼びます。先頭犬とシケニの間に他のイヌの引き綱「マクアハ」と首輪が結ばれます。それぞれのハナと引き綱の間にも撚り戻しがついています(図1)。なお、ソリイヌの連結法には幾つかのタイプがあります(図2)。サハリンの民族はいずれも、主となる引き綱の左右に互い違いに他のイヌが連結されるCタイプです。
▲図1 イヌとシケニの連結
▲図2 イヌのつなぎ方いろいろ 芳賀(1959)より
アイヌ(和田・山本・葛西) | ニヴフ (梅棹) |
ウイルタ (梅棹) |
説明 | |
首輪 | hana セタハナ ハナ |
ha'l | ninda halani | イラクサの繊維で織った物(山本)。 |
鈴 | コンコ | — | — | 首輪に2、3個つける(山本)。 |
イヌ頭飾り | キラウ キラウ |
— | — | 先頭犬の頭飾り。アザラシ皮で作り、馬の尾を束ねてつける(山本)。先頭犬・副先頭犬の頭飾り。赤木綿の裂地で作り、小鈴2個をつける(葛西)。 |
主綱 | ヌソツシ ツシ ヌソトシ |
— | njusk | イラクサを撚って作った物(山本)。アザラシ皮で作る(葛西)。 |
中綱 (本体側綱) |
タカペシ | tuːbops | saːlda | 本体と引き綱aをつなぐ部分。皮製の物が多い。 |
引き綱 固定具 |
タカペシポニ | — | — | タカペシの末端に付けられたフック。骨角製。 |
縒り戻しa | タカオコマハル シケニオコッペ マハル |
― | njusk áaːni(?) | 輪の部分はトナカイの角、芯棒はシラカバまたはナナカマドで作る(山本)。 |
枝綱 | makuax | ospax(?) | snaːni(?) | メインの引き綱に連結する綱。 |
縒り戻しb | maxru マハル |
maxt | makt'ni | 輪の部分はトナカイの角、芯棒はシラカバまたはナナカマドで作る(山本)。 |
手綱 | タカ タカ タカ |
ofgas | ― | イラクサを撚って作った物(山本)。皮製(葛西)。 |
▲表1 イヌの装具および連結具一覧
※アイヌ語名称のうち下線のある物は山本(1970)に、太字は葛西(1928)に記載の名称。
ハナは海獣やトナカイの皮で作ります(図3)。首輪部分にも皮ひもの編み込みや染めた毛などで装飾的に作ったものもあり、イヌへの思い入れが感じられます。また、実物資料は未見ですが、ハナにはコンコ(鈴)を着けると言います。
ベルト状に切った皮を半分に折り曲げてU字型にし、端を折り曲げて細い皮ひもで縫い留めます。折り曲げた部分は筒状になります。輪になった皮途中に細めの皮ひもを取り付けます。これは補助ベルトにも見えますが、少し長さが足りないように見えるので、イヌの体にフィットしやすくするための物と考えられます。函館市立博物館には、馬場修氏が東海岸タライカで収集した2種の首輪が収蔵されており、そのうち民族1780は、補助ベルトを持つタイプです(図4 右)。アムール地方では首だけでけん引するタイプが古く、20世紀に入ると体躯全体でけん引するタイプ(補助ベルトを持つタイプ)が導入されたといわれていますので、アイヌ民族にもこうしたタイプが取り入れられたのでしょう。加藤九祥氏は、ニヴフ文化における2つのタイプを示し、繋留用とけん引用の違いとしています(図5)。
▲図3 ハナa 首でけん引するタイプ 左はREM2815-6を元にイラスト作成
▲図4 ハナa(民族1781)函館市立博物館収蔵 | ハナb(民族1780) |
▲図5 ニヴフ文化のイヌ用首輪 加藤九祥『北東アジア民族史の研究』(1986)より
マハル(転環)はトナカイの角や骨が使われます(図6)。転環はイヌやトナカイを飼育する文化で、ソリにつなぐ場合の他、家のそばにつないでおく場合にも綱のねじれを防ぐために用いられます(注2)。ノルウェーやフィンランド、シベリア、カムチャツカ、アラスカやカナダ、グリーンランドなどの諸民族文化に見られ「すべての極北文化に波及した要素の一つ」だとされます(注3)。
中央に穴を開けて木製や骨製の芯棒を通します。この芯棒が回転することによって、引き綱のねじれが解消されます(図7)。芯棒を通す穴の両側には皮ひもを通すための少し小さな穴があけられます。ここに通した皮ひもを、首輪の筒状になった所に通して連結します。木材と釘を使ったシンプルなもの、金属製の物などもありました(図8)。
▲図6 マハル(転環) 山本祐弘『樺太アイヌ 住居と民具』(1970)より
▲図7 マハルの構造と連結法
▲図8 いろいろな素材・形状のマハル
メインの引き綱とシケニとは、タカペシという中綱で連結されます。タカペシの端にはタカペシポニという骨角や木で作られたフックが着けられており、図のように固定するものと思われます。
▲図9 タカペシポニと固定法
ヌソには多い時には12~13頭のイヌがつながれます。これらのイヌを総称してヌスセタといいます。知里氏によれば、ニヴフ語でソリを表す「ヌチ」がアイヌ語に借用される際に「ヌシ」となったもので、橇イヌを表す言葉として残っているのだとしています。橇イヌにするのはオスで、子犬のうちに「ノキ・アシンケ(睾丸・摘出=去勢)」します。その方がイヌどうしのケンカが少なく、走行中の尿の回数も少なく、エサの量も抑えられるのだと言います。イヌの飼料は「(犬ゾリを使う民族は)犬のために貧乏をしている」と言われるほど大きな経済的負担となっていたようです。今で言えばガソリンの値段のようなもので、そのコストをいかに抑えるかは死活問題でもあったでしょう。
また、イヌどうしのじゃれ合い・ケンカを防ぐために、尾は切断した方が良いといいます。絵葉書類などに残っているヌソの写真では、尾の切断が確認できる例は稀です(注4)。時代や地域によっても施術をどの程度実施したかには差があるでしょうが、当時を知る方の証言では是非ともした方が良いとのことです。
先頭につながれるリーダーのイヌ(サブリーダーを立てることもあるようです)は、イソホセタと呼びます(注5)。1808年から1809年にかけて、樺太調査で実際に犬ゾリに乗った間宮林蔵は、先頭犬について「多力猾猛なるものにして、能挽曳のことに馴れたる犬を連頭に置て挽しむ。是を名付けてイシヲセタ前導犬と称す。島夷此犬を擇むことを専務とす。此犬あしき時は、衆犬情逸して其用をなさず。故に此れを交易することあるに、其価大抵斧一二頭より、高価の者は五六挺に至る」と記しています。他のイヌを統率する役割を持つことから、利口で体力があり、ソリ曳きに慣れたイヌが選ばれます。優れた先頭犬は確保が難しく貴重であったことから特別に大切にされました。葛西猛千代氏によれば、先頭犬が真価を発揮するのは吹雪の時で、視界が悪く方角が分からなくなった時には、先頭犬に任せるしかなかったといいます。明治末頃の先頭犬の購入価格は30円~40円です。当時の公務員の初任給が14円程度といわれますから、イヌ一頭の値段としてはかなり高価ですが、いざという時生死を左右すると考えれば、それも納得ですね。また、他のイヌは屋外で飼われているのに対し、先頭犬は常に家の中で、家族と起伏をともにしていたといいます。
先頭犬には(先頭が2頭立ての場合は副先頭犬にも)セタキラウ(イヌ角)とよぶ頭飾りが付けられます。イヌの群れを率いる先頭犬は、操縦者にとっても頼みにする存在ですから、吹雪の中でも先頭犬がどこにいるか見えやすいようにという意味合いもあるでしょうが、装着した姿はリーダーに相応しい堂々としたものです(扉絵参照)。ロシアやドイツの博物館に収蔵されているものは、獣皮を曲げて輪状にし、上部を2つに裂き、頭頂には様々な色に染めたウマやヤギの毛を編んだ房飾りを立てます。函館市立博物館の収蔵品(民族1782)を見ると、頭頂に立つ房状の飾りは、木製の芯に紐(獣毛を使ってコイリングしたもの)を巻き付けて作られているようです(図10)。
▲図10 セタキラウ 函館市立博物館収蔵 民族1782(左) 民族1783(右) |
▲図11 アムール河口のプイル村で撮影された頭飾りをしたイヌ
“Народы Нижнего Амура и Сахалина : фотоальбом”(2001)より
図11はアムール河口左岸のプイル村で撮影されたニヴフの橇イヌです。解説には「結婚式のお祝いやクマのための特別な旅行のための頭の装飾を持つ犬」とあります。これに従えば、先頭犬が常に用いるというよりは、特別な場面での正装ということになります。アイヌ民族とは用途が少し異なりますが、形態はほぼ同じです。
樺太では、飼いクマ送りの際にイソキラウという頭飾りをクマに装着します。名称・形状とも、クマとイヌの頭飾りは相互に関連していることがうかがえます。
冒頭で、アイヌの犬ゾリに関わる習俗・語彙の多くはニヴフ民族から取り入れたものだとする知里氏の見解を紹介しましたが、このセタキラウもそうした従来の見方を補強するものと言えます。文化の伝播がどの方向に起こったかということは簡単には結論づけることはできません。しかし、これほど共通性の高い文化がサハリン・アムール地域で形成されてきたこと、それがクマ送りに関わる物質文化・精神文化にも及んでいることは大変興味深いことと言えます。そうした事実そのもの、また知里氏や山本祐弘氏、和田文治郎氏といった樺太で文化研究を行った研究者がそのことに注目し指摘・強調してきたことももっと知られるべきでしょう。
次回は、御者の装備と操縦法を紹介します。
(注1)同論文によれば、シケニ(ソリ本体)を製作することをアイヌ語で「シケニ・ター(シケニを彫る)」と言い、これは船の製作を意味する「チシ・ター(船・彫る)」から派生した言葉だといいます。つまり、シケニの方が年代が新しく、それに先行した船作りの言葉が応用されたということです。なお、知里氏はシケニよりも船が先行することのもう1つの論拠として、船のムダマ(構造船の本体)を「シケ」と呼ぶことを上げています。ソリの名称シケニも、本来はムダマを指す言葉だったという解釈です。知里氏が挙げている例は文学中の用例ですが、樺太西海岸ライチシカ方言では、日常的に用いる板船の底板のことを「シキ」と呼んでいます。ただ、このシケ/シキについては、日本語の「敷板(しきいた)」からの借用という可能性も考慮してみる必要を感じます。
(注2)グリーンランドでは、海獣猟に用いる銛に結び付けられた綱にも転環が使われるそうです。
(注3)転環はウシの飼育にも同じく役立つはずですが、トゥヴァの中の牛を飼養するグループをはじめ、モンゴル、ブリヤートの文化では用いられないようです。
(注4)犬ゾリは樺太に入植してきた和人にも運搬・移動の手段として普及していました。、写真からどの民族のソリかを判別するのは難しい場合があります。
(注5)知里真志保氏の「樺太アイヌの神謡」に先頭犬を語り手とする一篇(話者は西海岸マオカ出身多蘭泊在住の女性、筆録者は佐々木弘太郎氏)があり、その解説の中で、先頭犬の名称はisoxseta(<i-sa-ot-seta それの前に・就く犬)だと書かれています。なお、神謡のアイヌ語原文では、先頭犬に当たる言葉はisos setaとなっています。
参考文献
犬飼哲夫
1959「カラフトイヌの起源と習俗」『からふといぬ』日本評論新社。
梅棹忠夫
1990(1943)「イヌぞりの研究」『梅棹忠夫著作集第1巻 探検の時代』中央公論社。
荻原眞子、古原敏弘
2012「アイヌの犬橇関係資料概要―ロシアの博物館所蔵品について─」『アイヌ民族文化研究センター研究紀要』 第18号、北海道立アイヌ民族文化研究センター。
葛西猛千代
1975a(1943) 『樺太アイヌの民俗』みやま書房。(菊池編1997に再録)
1975b(1928) 『樺太土人研究資料』私家版(謄写)。
萱野茂
1978『アイヌの民具』アイヌの民具刊行運動委員会。
北原次郎太
「樺太アイヌの歴史」『樺太アイヌ民族誌』(公財)アイヌ文化振興・研究推進機構。
久保寺逸彦編
1992『アイヌ語・日本語辞典稿』北海道教育委員会。
2012(平成24)年3月発行
千徳太郎治
1980(1929)『樺太アイヌ叢話』(『アイヌ史資料集第六巻 樺太篇』(北海道出版企画センター)に再録)。
知里真志保
1987(1953)「樺太アイヌの神謡」『北方文化研究報告』第4冊、思文閣出版。
1975(1954)『分類アイヌ語辞典 人間篇』『知里眞志保著作集 別巻Ⅱ』 平凡社。
西鶴定嘉
1974『樺太アイヌ』みやま書房。
芳賀良夫
1959「南極用犬ソリの編成と訓練」『からふといぬ』日本評論新社。
福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邉欣雄(編)
1999『日本民俗大事典〈上〉』吉川弘文館。
北海道立北方民族博物館
1998『A.V.スモリャーク氏寄贈資料目録~ニヴフ・オロチ・ウリチ・ナーナイ』。
2014『北海道立北方民族博物館第29回特別展 船、橇、スキー、かんじき 北方の移動手段と道具』。
山本祐弘1970『樺太アイヌの住居と民具』相模書房。
和田完
1965「アイヌ語病名資料―和田文治郎遺稿2―」『民族學研究』30-1号、日本文化人類学会。
А.В. Смоляк 2001 Народы Нижнего Амура и Сахалина : фотоальбом Mocĸва
[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]
第1回 はじめに|農耕 2015.3
第2回 採集|漁労 2015.4
第3回 狩猟|交易 2015.5
第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6
第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7
第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8
第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9
第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11
第9回 イクパスイ 2015.12
第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1
第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2
第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4
第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5
第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名 2016.6
第15回 アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物 2016.7
第16回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-1 2016.12
文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)
前回は刀帯作りの最初の段階として、経糸(タテイト)の準備までを扱いました。今回は、緯糸(ヨコイト)の編みかたに関わるあれこれを紹介します。
(1)編み具の据え付け
経糸を固定した編み具は、かつては囲炉裏の上に設置された火棚から紐を下げ、それに結びつけていたという記述がありますが(註1)、生活が変化した現在では、多くの家に火棚はありません。そこで、タンスや棚など、いろいろなものに固定するようになっています。
固定する高さは、浦河地方の伝承者は上から吊り下げるようにし、目線のやや下の位置で編んでいくようにするのに対し(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構2007)、旭川の製作者はテーブルの上に置いた低い台に結びつけて編んでいます(財団法人アイヌ無形文化伝承保存会1986)(写真1)。
▲写真1 いろいろな編みの姿勢
私は今回、ギタースタンドにS字フックを吊り下げて、編み具とのあいだには木綿糸を使用しました。
(2)緯糸の用意
これまでに調査した刀帯(241点)を見ていくと、緯糸の素材は無文部と文様部で傾向が大きく異なります。
無文部は、イラクサなどの繊維(以下「靱皮繊維」)から自製した糸を用いる場合が圧倒的に多くなっています。一方、文様部では全て靱皮繊維で編まれるものもないわけではありませんが、ごく稀で、靱皮繊維と赤い毛糸を組み合わせるもの、木綿糸と靱皮繊維を組み合わせるもの、全て木綿糸で編まれるものの順で、資料が多くなっています。
文様部のこうした素材の違いには、製作された年代も関係していると考えられ、木綿糸が入手しにくかった時代には靱皮繊維を染色したり、赤く染めた動物の毛を組み合わせたりしていたものが、木綿糸が大量に流通するようになるにつれ、素材が置き換わっていったようです。今回の目的は歴史的な変遷を明らかにすることではないので、こうした年代差を考える根拠などは後日改めて紹介することとします。
博物館収蔵資料に最もよく見られるタイプとして、無文部には靱皮繊維を撚った糸、文様部には紺木綿と白木綿をモデルとすることにしました。
(3)糸巻
緯糸は多くの場合、糸巻を用意して巻き付けてから使用します。糸巻は、現在では木の薄板を整形して一方に穴をあけたものを使用している製作者が多くなっています(写真2)。これは、先端の尖った部分を緯糸をきつく締める目的にも用いることがあり、一つの道具に「糸を巻く/編み目を締める」という二つの機能が合体した便利なものです。
▲写真2 木製の糸巻(筆者製作)
▲写真3 布を使用した糸巻(筆者製作)
もう少し簡易なものとしては、布や太い糸を二つ折りにしたものがあります(写真3)。この場合には、布を二つ折りにしてできる環が木のヘラにあけられた穴と同じ役目を果たすことになり(註2)、緯糸を締め付ける道具は別に用意することになります。
なお、靱皮繊維から自製する糸を使う場合は、前もって長い糸を撚って糸巻に巻くこともできますが、数メートル撚っては編み、足りなくなる度に繊維を継ぎ足していくことも可能でしょう。そうした場合には糸巻はとくに必要ありません。
緯糸を編む代表的な技法には2種類あり、一つ目は、2本の緯糸をもじりあみするもので、多くの場合で経糸2本を1単位とし、1段毎に編み目を0.5単位(経糸1本)ずらしていくことで、強固な編物を作り出しています。これを今回は「技法A」(写真4-1)と呼ぶことにします。二つ目は、もじり編みの変形で、任意の場所で表裏の糸を入れ替えることができるように工夫されたもので、今回は「技法B」(写真4-2)と呼ぶことにします。
▲写真4 緯糸の編みの技法
無文部は、ほとんどの資料で「技法A」で編まれています(註3)。文様部は、「技法A」で編む場合には、原則2本おきに表裏の緯糸が入れ替わるため、矢羽根文や菱形など、モチーフが限定されることになります。ただし、仕上がりはどちらを表にしても良い、いわばリバーシブルとなることが特徴です(写真5)。「技法B」は任意の場所で色を切り替えることができるので、より多様なモチーフを編み出すことができますが、この場合にはリバーシブルにはなりません(写真6)。
▲写真5 文様部を「技法A」て“編んた”事例(北海道博物館所蔵) | ▲写真5(裏面) |
▲写真6 文様部を「技法B」で編んだ事例(北海道博物館所蔵) | ▲写真6(裏面) |
そのほかに、ごく稀(241点のうち3点)ですが、緯糸1本を使用した「技法C」(写真5-3)が用いられたものがありました。「技法C」を用いると、きつく締めつけながら編んでも緯糸の隙間が広くなり、経糸がかなりはっきり見えるようになりますが(写真7)、この隙間を活かして、斜めや菱形の図形を編み出すことが可能です(註4)。この技法は、これまで刀帯の製作技術として伝承記録が残されていなかったため、復元製作したものを示しておきます(写真8)。
▲写真7 「技法C」の実例(北海道博物館所蔵)
▲写真8 「技法C」の復元(筆者製作)
次回は、「技法A」による無文部の編みかたを紹介します。
註1 こうした細かな編み方の違いは、古原・村木(1998)が整理したものを参照しました。
註2 刀帯そのものではありませんが、同じ技法を用いて編まれる荷縄の製作にこうした糸巻が使われた事例として、ペンシルバニア大学所蔵資料(1901年に平取町で収集)が公開されています。
註3 旭川市博物館所蔵番号4212は、無文部を全て技法Bで編んだように見えましたが、よく観察してみると、染め分けた靱皮繊維を用いて山形文を編み出したものでした。このように燻されて文様がよく見えなくなっているものも多く、観察には注意が必要です。
註4 杉山(1942)の図版69-1~3には、技法Cで編まれたとみられる資料の様々なバリエーションが示されています。
参考文献
古原敏弘・村木美幸1998「エムシアッについて―アイヌ民族博物館が所蔵する児玉コレクションから―」『アイヌ民族博物館研究報告』第6号
財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構2007『アイヌ文化生活再現マニュアル 編む――タラ・エムシアッ』
財団法人アイヌ無形文化伝承保存会1986『アイヌ文化伝承記録映画ビデオ大全集 シリーズ(4)フチとエカシを訪ねて 第4巻~織る・奏でる・祈る~』
[バックナンバー]
《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1
《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2
《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する⑶ 2016.3
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《エカシレスプリ(古の風習)7》刀帯作りあれこれ(1) 2016.10
《エカシレスプリ(古の風習)8》刀帯作りあれこれ(2) 2016.11
文・写真:安田千夏
今回取り上げるのは、伝承者育成事業自然講座においてはその見た目のユニークさ、デンジャラスな利用法でイケマに続き常に人気トップスリーに入って来る野草です。それは北海道に自生するテンナンショウの仲間。和名はエゾテンナンショウ、コウライテンナンショウと本によっても様々で、同定に関しては筆者も決してプロではないので詳しく語ることはできないのですが、アイヌ語名は短くて覚えやすい「ラウラウ」(アイヌと自然デジタル図鑑)。これは嬉しいことに全道で通用するのです(注1)。まずは写真でシーズン中のこの植物の姿を追いかけてみましょう。
春先の芽吹きの頃、その茎に注目してください。蛇体のような文様が現れています。じつはこの植物のもうひとつの和名は「マムシグサ(注2)」。この時期すでにとても目をひくビジュアルなので、誰でも一発で覚えることができるというわけなのです。
▲写真1 ラウラウ芽吹き ポロト湖 5月下旬
花が咲くのは初夏の頃。写真の通りヘビが鎌首をもたげたような姿で、向かって右に伸びる茎には蛇体文様がさらにくっきりとしてヘビ感が増しています。
▲写真2 ラウラウの花 ウトナイ湖 6月18日
アイヌ文化とは直接関係がないのですが、ここでちょっと寄り道です。この花には雌花と雄花があり、花の蜜を吸いに来て花粉を運ぶ役割をする昆虫に雄花から雌花に移動してもらわなければ受粉ができないにも関わらず、すっぽりと筒状の仏炎苞の中に入った昆虫は容易に脱出することができません。ところが一説によると雄花の方には仏炎苞基部に昆虫の脱出口がついていて(写真3の向かって右側)、動線に配慮されているというのですから驚きです。仏炎苞を傷つけてしまうため奥にある花の雌雄をいちいち確認してはおりませんが(注3)、確かに仏炎苞の形は2種類ありました。でもどうせならどっちにも脱出口をつけてあげてくださいと思うのは私だけでしょうか。
▲写真3 仏炎苞の基部形状2種 |
それはさておき、秋になると一転鮮やかな赤い実をつけます。さらなる和名「ヘビノタイマツ」はこうした秋の姿を表現しているのでしょう。
▲写真4 ラウラウの実 ポロト湖 9月26日
さて何かと目をひくこの野草、じつはサトイモ科の有毒植物です。球根にシュウ酸カルシウムが含まれているので食べると口が腫れ上がり、ショックで死に至ることもあるほどだとか。そうであるにも関わらずアイヌ文化ではこの球根を食用にします。激辛ラーメンのようにつらさを快感に変えながら食べるというわけではなく、毒の部分を取り除いてから食べるのです。大事なのは採取時期で、霜が降りるくらいに秋が深まってから採取するということ。それより前の時期には根全体に毒がありますが、この時期になると根の中心に有毒部分が固まって来るので、その部分を取り除いてから焼く、蒸すなどの加熱をして初めて食べるというわけなのです。きちんと正しい加工法に従って食べるとデンプン質が豊富でおいしいことには感心したものでした(注4)。このことは知里1953にも簡潔に説明されていますので、試してみたいという方は以下を重ねてご確認ください。
晩秋、球茎を掘って炉の熱灰の中に埋けて焼いて食べた。ただし、球茎の中央黄色い部分は有毒なので、食べる際は必ずえぐり取って捨てた。 |
▲写真5 中心が有毒部分 堀江純子氏提供
そしてアイヌ文化ではさらなる利用法があります。それは「毒を変じて薬となす」を地で行くような話で、知里1953には次のように書かれています。
頭痛の時、この根茎を刻んだのを布に包んで鉢巻きにした(幌別)。(中略)種子は干して2年でも3年でも貯えておき、腹痛の時、2粒ずつ飲んだ(美幌)。子宮病あるいは神経痛に、根茎の中央にある有毒部をとって、ごく少量おろして布から紙にのばして足の裏に貼った(幌別)。 |
さらに吉田1918には以下のような記述があります。
六、ラウラウ(てんなんさう) 塊茎は焼いて、癪の発作せんとする前に、足のひらに当つ、又歯痛には頰にあてて共に解熱の効あり、(後略) |
記述の中に散見する痛みをやわらげる湿布薬としての利用法は一般的なものであったのかどうか、デジタル図鑑から伝承者の語り部分を抜粋してみましょう。
「あれ薬だっちゅうもんな、痛いとこにつけるっていう。生で擦って。おばさんになる人は足痛くて、欲すいて(=欲しくて)誰か持って来て使ったようであった。」伝承者非公開 「[湿布には]ヘビノタイマツ使ったことある。huci(おばあさん)たちとって来て、ひざ痛いとか打ち身になったとかったら、芋おろすやつ、鉄板でこう釘で穴開けたやつで。それで擦って。そして手ぬぐいでもタオルにでも塗って。直にやると焼ける、皮剥けるから、直にやらないで。」沙流35269,35270 黒川セツ |
こうしてみると、食べた場合に毒となる部分が効力を発揮する湿布薬としての利用法が確かにあると確認され、さらに効き目がありすぎてじか張りができないという薬効をリアルに物語る証言を得ることもできました。
さてデジタル図鑑にはさらにもうひとつ気になる記述があります。「頭がはげている人を『ラウラウ』と呼んでばかにしました(伝承者非公開)」と。でも「ラウラウ」と「はげ頭」がどうもつながりません。花と実を見るとヘビやたいまつは連想できたものの、特に「はげ頭」を連想させるものではありませんでした。ずっとどういうことなのかなと思っていたのですが、掘り起こした根をくるりとひっくり返してみると謎が解けました。「オハイネ タンペ タシ(なるほどこれぞまさに)!」
▲写真6 根をひっくり返したところ
※本稿の球根採取は、白老町が指定したアイヌ伝統文化のための素材供給地で乱獲にならないよう配慮しながら行ったものです。
(注1)樺太では別の名があるらしく、菅原1939にはカラフトヒロハテンナンショウ「イレラウ」と記載されています。
(注2)テンナンショウ属のひとつの種名ですが、北海道では一般名(俗名)としても使われています。
(注3)このくだりを書いていて思いついたのですが、仏炎苞に長めの綿棒を差し入れ、花粉のつき方で雌雄を判断するという方法は有効かも知れません。次のシーズンにやってみようと思います。
(注4)鈍感な私は平気でしたが、過敏な人はこの状態でもしびれや痛みを感じることがあるといいますので要注意。
<引用参考文献・データ>
吉田巌「アイヌの薬用並に食用植物」『人類学雑誌第三十三巻第六号』日本人類学会(1886年)
菅原繁蔵『樺太植物誌 第二巻』(1939年) 国書刊行会 (1975年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所 (1953年)
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』 (2015年)
[バックナンバー]
《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3
《図鑑の小窓》2 カラスとカケス 2015.4
《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5
《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6
《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8
《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9
《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11
《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12
《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1
《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2
《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3
《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4
《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5
《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6
《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7
《図鑑の小窓》16「カタムサラ」はどこに 2016.8
《図鑑の小窓》17 イケマ(ペヌプ)のおまもり 2016.9
《図鑑の小窓》20 エンド(ナギナタコウジュ)のつっぺ(安田千夏) 2016.12
文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師)
ここに掲載するものは、名取武光氏が記録したイヨマンテの祈り詞です。名取氏の論文「沙流アイヌの熊送りに於ける神々の由来とヌサ」(『北方文化研究報告 第4輯』、1941年、北海道帝國大學)には、仔グマを連れ帰った場面からイヨマンテを終えるまでの一連の祈り詞54編と、その意訳が収録されています。名取氏の同論文は、1941年に最初に発表され(戦前版)、その後1974年に著作集『アイヌと考古学(二)』に収められました(戦後版)。著作集収録の際、浅井亨氏がアイヌ語の校正をしており、一部解釈や表記が変わりました。
第3期「担い手」育成研修では、2016年1月頃からアイヌ語研修の一環として、これらの祈り詞の逐語訳に取り組みました。和訳にあたっては、新旧のアイヌ語原文を比較しましたが、ここでは戦前版での表記とアイヌ民族博物館で用いられている表記法(辞書で引けるような表記)で書いたものを並べ、戦後版については必要に応じて引用しています。なお、原典では改行せずに書き流していますが、ここでは、一般的な韻文の形式で、一行と考えられる長さごとに改行しています。それぞれの最後に、名取武光氏による意訳をのせています。
今回は、そのうち3と4を掲載します。 (→前回)
参照した辞書の略号は次の通りです。
【太】:川村兼一監修、太田満編、『旭川アイヌ語辞典』、2005、アイヌ語研究所
【萱】:萱野茂、『萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版]』、2002、三省堂
【久】:北海道教育庁生涯学習部文化課編、『平成3年度 久保寺逸彦 アイヌ語収録ノート調査報告書(久保寺逸彦編 アイヌ語・日本語辞典稿)』、1992、北海道文化財保護協会
【田】:田村すず子、『アイヌ語沙流方言辞典』(再版)、1998、草風館
【中】:中川裕、『アイヌ語千歳方言辞典』、1995、草風館
戦前版の表記 |
新表記 |
和訳 |
Ainumonga | aynumonka | 人間の手の上 |
enupurukamui | enupurkamuy | で霊力を持つ神 |
chikubenitono | cikupeni tono | イヌエンジュの神 |
kamuishupkuru | kamuy sukupkur | 神の若者よ、 |
tapanhepere | tapan heper | この仔熊を |
areshuteksama | a=resu teksama | 育てる際に |
akoyayapte | a=koyayapte.[1] | 私は心配に思います。 |
kamuineyakka | kamuy ne yakka | 神とはいえ |
tennepnekusu | tennep ne kusu | 赤ん坊なので |
shukupteksama | sukup teksama | 育つ傍ら |
chiesemanan | ciesemanan | 気遣わしく[2] |
akarakarawatap | a=karkar wa tap | 思うので |
tanbekusu | tan pe kusu | そこで |
tapanhepere | tapan heper | この仔熊を |
eepunkine | e=epunkine | 貴方が守護する |
kikushitapne | ki kus tapne | ために |
akoheperepo | a=kor heperpo | 「我が仔熊が |
eanansotki | ean amsotki | そこに休む寝床」と |
shinepshirine | sine p siri ne | 一体として[3] |
aeare | a=e=are | あなたを鎮座させ |
kiruwetapan | ki ruwe tapan | るのです |
sekorankusu | sekor an kusu | ですから |
attukonno | attukonno[4] | ただ只管に |
tapanhepere | tapan heper | この仔熊を |
eepunkine | e=epunkine | 見守って |
kikushitaptap | ki kus taptap | 下さるよう |
taneanakkune | tane anakne | 今や |
chikotuyashi | cikootuyasi[5] | お頼み |
sekarakanna. | a=e=karkar_ na.[6] | いたします。 |
3.名取意訳
アイヌの荒神チクベニトノよ、どうぞお願申します。この仔熊を養うに就ては、熊の神であるとは云うものの、まだ子供であるから、養うのに心配である。若し魔物につかれる様な事があれば困るので、仔熊が達者で育つ様に守護して下さい。何分子供であるから、貴方をお守役に立てて居りますから、其の事のみ考えて守護して下さい。
戦前版の表記 |
新表記 |
和訳 |
Ireshukamui | iresu kamuy | 育ての神様よ、 |
shinripuri | sinrit puri | 先祖の習慣 |
ekashikarapuri | ekasi kar puri | 祖父が作った習慣 |
eakushitap | ne a kus tap[7] | であるので |
ireshukamui | iresu kamuy | 育ての神の |
kamuikirisama | kamuy kirsama | 神のお側に |
chioikeushi | ceoykius[8] | 捧げることを |
akarakarakusu | a=karkar kusu | するために |
tapaniyahunke | tapan iahunke | この招待にて[9] |
tonotokamui | tonoto kamuy | 酒の神に |
chiramatkore | ciramatkore | 役割を言い聞かせ |
aekarakarakusu | a=karkar kusu | るので |
neetok | ne etok | その前に |
akoyayapte | a=koyayapte | 心配を |
chikorankushutap | sekor an kusu tap[10] | するので |
aekotekamui | a=hekote kamuy | 頼みにしている神に |
anurehawe | a=nure hawe | お聞かせする |
sekottapanna | sekor_ tapan na. | 次第です。 |
teksamoroke | teksam oroke | その側を[11] |
kopunkirewa | kopunkine wa | 見守って |
ikoropareyan | i=korpare yan. | 下さい。 |
4.名取意訳
火の神様よ、どうぞお願申します。祖先の時代からの、習慣であるから、お酒を造ります。今何も酒元もなしに、始めて拵える所で、尚心配だから、この酒がよく出来るように、気をつけて見守って下さい。
(注1) 【久】p.27(68)apte:危うく思う、危惧される、自信なし。
(注2)【久】p.237(767)semanan:気遣う、心配する。文脈からsemananは自動詞だと考えられます。接頭辞e「〜について」が付き、さらにciが付いて全体として名詞化されています。ciesemanan a=karkarで「気遣わしく思う事を私がする」という意味になります。祈り詞の中には、こうしたci+他動詞 a=karkarのような表現が頻出します。
(注3)仔グマの檻にaynumonka enupur kamuy「イヌエンジュの神のイナウ」を祭ることを、「一体として」と表現しています。
(注4)【久】p.245(792)eattukonno:ただ一筋に、ただ只管に
(注5)【田】p.496 otuwasi:〜に白羽の矢を立てる?、〜を見込んで頼りにする?田村辞典ではwが使われていますが、原文の通りotuyasiという表記にしています。
(注6)原文ではsekarakannaですが、文脈からこのように解釈しました。戦後版でも同様に解釈せれています。
(注7)原文ではeakushitapですが、文脈からこのように解釈しました。
(注8)鍋澤元蔵・扇谷昌康『アイヌの祈り詞』p.97にchituye kuwa cheo-iki us nehi tapan na「ただ切った墓標を渡されるものである」という例があることから、ここでは「捧げる」と解釈しました。なお、次の2例も参照のこと。【久】p.183(595)oikius:いじる、手をかけ世話をする。【太】p.135 oikus:~に~を持たせる。kamuyimoka pirkaimoka ci=oikus sir tapan ne.「神のお土産、良きお土産を私たちは持たせるのでございます」
(注9)酒を仕込むことを「酒の神を家に招待する」と表現したものと解釈しました。
(注10)原文はchikoranですが、文脈からこのように解釈しました。
《伝承者育成事業レポート バックナンバー》
女性の漁労への関わりについて 2015.11
キハダジャムを作ろう 2015.12
ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2
アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3
アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4
ガマズミ・ミヤマガマズミの見分けについて(山本りえ)2016.11
イヨマンテの祈り詞(平取地方)その1 2016.12
「ハンノキについて学んだ者が物語る」(中井貴規) 2016.12
文:新谷裕也(伝承者育成事業第三期生)
伝承者(担い手)育成事業第3期生は、12月5日(月)に工芸研修としてイパプケニ(鹿笛)を作った。
鹿笛を作るにあたって、鹿笛の用途や特徴について学んだので、今回学んだ事や作業工程をレポートにまとめた。
▲イパプケニ(アイヌ民族博物館収蔵資料) |
鹿狩りの時に用いられた笛。
本体は木でできており、萱野茂のアイヌの民具では『たて八センチ、横十二センチ、厚さ三センチくらいの木を削って作ります。』と書いている。
削った木に鹿の膀胱や耳の皮、蛙の皮、あめますや鮭の皮などの薄い皮を空気の出口に樹皮で綯った紐や煮皮で固定し、吹き口から息を吹くと、空気の出口から息が出るので皮が振動し、音が鳴る。
鹿笛は音が鹿の鳴き声に似ており、吹くと鹿が寄ってくると言う。
萱野茂のアイヌの民具では『アイヌには鹿の鳴き声が「ワイヨー、ワイヨー」と聞こえるので、そのように吹きならすと、鹿は警戒しながら一歩一歩と近づいてきます。』と書いており、更科源蔵のコタン生物記では『「ピュー」とならすと、他の牡鹿が自分の領地近くにいると思って、牡鹿が勢い込んで狩人の前に姿を現すというものである。』と書いている。
①ソコガンギエイの皮
②木材(カツラ、ホオノキ)
③ツルウメモドキの繊維
今回はソコガンギエイの皮を使用した。木材はカツラとホオノキの2種類を用意し、樹皮の繊維はツルウメモドキを使用した。ソコガンギエイの皮はいぶり中央漁業同組合 白老支所に協力していただき、入手した。
▲ソコガンギエイの皮 | ▲木材(カツラ) | ▲ツルウメモドキの繊維 |
大きさは全長1メートル前後の海水魚で、体盤全体に鮫肌のような小さな棘があり、尾には鋭い小さな棘がある。北海道全沿岸、青森〜島根の日本海、青森〜の太平洋側に多く生息しており、鹿児島県近海などでも見つかっている。北海道でドブカスベ、北海道室蘭、白老でミズカスベ(水かすべ)と呼ばれスーパーなどで売っている。漁師の間ではドスベとも呼ばれており、単にカスベ(糟倍)、カスペとも呼ばれている。この語源は、酒をしぼった後に残る酒粕のように、残りかす(糟)のような取るに足りない魚という意味合いと言われている。他にもサメカスベ、サメカラゲア、テンカカスベとも呼ばれる。
①スクレーパー
②木のヘラ
③万力
④彫刻刀セット
⑤ボンド
▲スクレーパー | ▲木のヘラ |
⑴ソコガンギエイの皮を処理する
ソコガンギエイの皮についている肉や膜を取る作業。今回は木の棒で作ったヘラ、スクレーパーも使った。注意するのは皮についた肉を削ぐときに皮を破かない様にすること。スクレーパーでは肉は綺麗に削げるが、皮を傷つけるので場所によっては木の棒で作ったヘラを使う。
⑵処理した皮を乾燥させる(窓にはりつける)
肉を削いだ皮を水で一度洗い、窓にはって乾かす。この時乾燥させすぎると皮が窓にくっついてしまうので注意する。空気の乾燥度合いによっては数時間置いただけでも取れなくなる。
⑶木材を彫る
笛の本体となる木を削る。今回は長方形に製材された木材を使った。木材についてはどの木を使うというのはないが、加工しやすい木を使う。
①吹き口となる穴を開ける。この時下まで貫通しないように気を付ける。
②笛の形を作る、この時吹き口の形を整える。
③木材の表面を彫り、先ほど開けた穴と貫通させる。
④木材の両端に溝をつける
⑷ツルウメモドキの繊維をよって糸を作る
ツルウメモドキの繊維をよって糸を作る。繊維自体は長くないので、継ぎ足しながら長くしていく。今回は、約1メートル半程より、首に下げれるようにした。
⑸乾燥させたソコガンギエイの皮を切る
皮が乾燥したか確認してから先ほど削った木材に当てて、同じサイズ(若干大きめ)に切る。この時小さく切ると、うまく音が鳴らないので注意。
⑹木材と皮をよった糸で縛り付ける
切ったソコガンギエイの皮を木材に当てて、先ほどよった糸で縛る。縛るときは木材に入れた切り込みの場所で縛る。今回はしなかったが、この時に木材と皮を煮皮(鮭の皮を刻んで煮つめて作る接着剤)でくっつけるというやり方もある。煮皮がなければボンドでも代用可能。
⑺完成(湿った状態だと音が鳴る)
木材の両側を縛って固定して、余った糸が首に掛けれるようになったら完成。
①空気の出口を少し湿らせる。(水を触った指で皮を触ると良い具合に湿る)
②イパプケニの両端を手で持ち、空気の出口の近くに指を置く。
③木材の吹き口に口をつけ息を吹く。
④穴の両側を指で押さえると音が鳴る。
音が鳴ったら、指の押さえ具合を調節して音を変えてみせる。
今回初めてイパプケニを作った。最初は小さい物なので簡単にできるんだろうなと考えていたが、実際は皮の処理を含め、とても根気のいる作業で、大変だった。
音を鳴らすときも、指の場所がずれると鳴らなかったり、皮が乾燥していると鳴らなかったり、デリケートな猟具だと感じた。
鳴らす事には成功したが、山で使用はしていないので、一般的に「鹿を呼ぶ笛」と言われているが、本当に鹿が寄ってくるのかという疑問が浮かんだ。もしかしたら音を出してびっくりして動かなくなった鹿を射るために使用していたんじゃないかという話も聞いたことがあったので、今後山で鹿笛を使用して本当に鹿が寄ってくるのか検証してみたいと思う。
参考・引用文献
萱野茂「アイヌの民具」『アイヌの民具』刊行運動委員会1978
更科源蔵・光「コタン生物記Ⅱ野獣・海獣・魚族篇」財団法人法政大学出版局1976
田中重弥「アイヌ民族誌」第一法規出版株式会社1970
《伝承者育成事業レポート バックナンバー》
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アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4
ガマズミ・ミヤマガマズミの見分けについて(山本りえ)2016.11
イヨマンテの祈り詞(平取地方)その1 2016.12
「ハンノキについて学んだ者が物語る」(中井貴規) 2016.12
文:安田益穂
▲2002年4月11日、野草園整備のひとこま。リヤカーに足を乗せた村木美幸現専務と困り顔の次男・桂(けい 5歳)。右後ろに舟材の大木が見えている。
新聞等で報道の通り、アイヌ民族博物館は2018年3月末日をもって閉館することが決まっています。2020年の「民族共生象徴空間・国立アイヌ民族博物館」開設に向けた施設整備が予定されているからで(→関連PDF)、これまで博物館を運営してきた現法人も同時に吸収合併される方向で準備が進んでいるようです。
一年後に迫ったこの節目の日は、現博物館最後の日であると同時に、私事ながら私の定年の日でもあります。
当館が開館30周年を迎えた一昨年の秋、私は30年史(注1)の編集を担当しましたが、正史には載らないものの個人的には忘れがたい出来事が数多くありました。問わず語りではありますが、私が見た20年余りのポロトコタンを、写真や動画などを交え、また私事や私見も交えながら連載したいと思います。長めの編集後記だと思って大目に見ていただければ幸いです。
第一回でとりあげるのは1996年です。
この年は1976年の財団法人設立から20周年にあたる年でした。記念行事として樺太アイヌ展や祝賀式典、フィンランド遠征など華やかな事業展開の一方、年末にはポロチセ火災という当財団史上の一大事(次回掲載予定)が待ち受けていて、波乱の多い、一口では言い尽くせない年でした。
……
1996年8月21日、地元の木材会社から一本のカツラ材が届きました。丸木舟を作るために購入したもので、長さ6.2メートル、直径82センチ、樹齢80年(推定)の大木です。さっそく地元の元漁師でアイヌ文化伝承者の野本亀雄さん(当時78歳)の指導のもと、役職員が材の清めの儀式を行いました。(舟造り事業の概要は安田益穂1996=PDFを参照。この時の舟造りの模様は、北海道博物館にも展示されています)
▲カツラの舟材。左は指導の野本亀雄さん(1996年8月21日)
儀式を終えて戻ると、当時同じ職場に勤務し産休をとって里帰りしていた妻が無事次男を出産との知らせ。名前はどうしようという話になり、つけた名前が「桂」(けい)。カツラの大木が届いた日に生まれた次男は、このカツラの木が名づけ親なのでした。
アイヌ文化ではカツラは素性の良い木とされ(=自然図鑑)、白老では丸木舟といえばカツラ材以外使わなかったそうです(野本亀雄氏談)。偶然とはいえこれも何かの巡り合わせ、迷いはありませんでした。
後日、当時お付き合いのあった女性アイヌ文化伝承者(故人)の方から、「私の憑き神(注3)はランコ(カツラのアイヌ語)だと思っているの。名前につけてくれてありがとう」と祝福してくれたのはうれしいことでした。
その次男が先日成人式を迎えました。樹齢20年、高さ184cm、重さ60kgと名づけ親のカツラよりはだいぶ貧相ですが、すくすく健康に育ってくれたので文句はありません。思えばわが家の子らは、夫婦そろってポロトコタンに勤めていたこともあって事あるごとにここに出入りし、職場の皆さんにかわいがってもらいました。文字通りこの職場に養ってもらい、育ててもらったわけで、それを思うと感謝しかありません。冒頭の村木さん(現専務)と桂の写真はそんな時期の中でも特に好きな写真です。
当時の私は事業記録を担当することが多く、この時も9月末の進水式(チプサンケ)までの約40日間、同僚と交替でビデオや写真撮影を担当しました。今見返してみると、まず場内の賑わいに圧倒されます。年間87万人を数えた入場者のピーク(1993年)は過ぎていましたが、まだ年間50万人を超える入場者があり、園内は弁当を広げる子どもたちが埋め尽くしています。20万人以下で推移している近年からすると隔世の感があります。
また古式舞踊公演は野外が主で、ポロチセ前の「広場」を舞台に、その周りを見学者が取り囲んで見学していました。チセキタイ(屋根のてっぺん)に草が生えた茅葺き屋根もなつかしく思い出されます。
▲舟造り(左端)の傍ら、園内を埋め尽くす子どもたち。
▲動画 舟づくり(1996/8/21〜9/30)
また、聞き取り調査や口承文芸鑑賞会などアイヌ語関連の事業も活発でした。チプサンケ(進水式)の前日まで、アイヌ語伝承者として知られる上田トシさんらを招いて「アイヌ文化教室」「アイヌ語合宿」が開催されていて、その参加者が舟の仮進水(最終的なバランスチェック)に加わっている映像には、私達夫妻が知り合い共に学んだ東京のアイヌ語学習サークル「銀のしずく購読会」(講師:中川裕先生)の面々が映っていて、なつかしさを禁じ得ません。
▲アイヌ語合宿の参加者と上田トシさん、鍋沢キリさん、講師の中川裕先生らを囲んで(1996年9月29日)
なお、完成した丸木舟はその後博物館旧館(特別展示室)に展示しましたが、シーズニング(ならし)していない木を空調が利いた室内に入れたため、あっけなく割れてしまいました。実にパッとしない結末ですが、私達夫婦はこのカツラの木の生命を次男が授かったのだと都合よく解釈しています。
(注1)『アイヌ民族博物館開館30周年記念誌』2014年10月25日発行、A4判64ページ。非売品。
(注2)安田益穂1996:「チプの製作と関連儀礼の実施」『アイヌ民族博物館だより No.34』pp.6-7、1996.12.1、アイヌ民族博物館発行 →PDF
(注3)詳しくは北原次郎太「《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)13》アイヌの精神文化 ラマッ⑷」『月刊シロロ 2016年5月号』を参照のこと。
(やすだ ますほ)
【儀式見学の予備知識 バックナンバー】
1.式場とマナー 2016.6
2.祭神⑴ 家の神々 2016.7
3.祭神⑵祭壇の神々 2016.8
4.儀式の日程と順序⑴開式まで 2016.9
5.儀式の日程と順序⑵開式からの流れ 2016.11
[トピックス バックナンバー]
1.「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6
2.『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9
3.第29回 春のコタンノミ開催 2016.5
[資料紹介]バックナンバー
1.映像でみる挨拶の作法1 2015.10
2.映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11
3.映像で見るアイヌの酒礼 2016.1
4.白老のイヨマレ(お酌)再考 2016.3
[今月の絵本 バックナンバー]
第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3
第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4
第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5
第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7
第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8
本文ここまで
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