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月刊シロロ

月刊シロロ  2月号(2017.2)

 

 

 

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)18》樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-3 

 

 文・イラスト:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

 

はじめに

 

 これまで、樺太アイヌのヌソについて、シケニ(ソリ)の構造、イヌの装具の順に紹介しました。今回は御者の装備と操縦法、それから記録に見られるヌソの性能について書きます。

第1回 ▶第2回

 

1. 御者の装備

 

 北海道でも、雪の振る季節に自転車に乗っていると、ゆっくり走っていても手がかじかんできます。ヌソに乗る人は低体温症を防ぐため、特殊な装備で低体温症に備えます(扉絵参照)。

 ヌソにのる場合に限らず、寒い季節にはルシと呼ばれる毛皮製の上着を着用します。素材にはアザラシやクマの毛皮が使われ、特にイヌ皮で作ったセタルシ(イヌの皮コート)が好まれます。気温が低い中で作業をしていると、毛皮についた雪がそのまま凍り付いてたくさんの氷の玉がつくことがあります。こうなると、冷たい上に毛が切れて毛皮がいたむ原因にもなります。イヌの毛皮は氷がつきにくく、雪中での使用に向いているといい、手袋などもイヌ皮製の物がよく用いられます。

 ルシの上からホネカリシ(腹をぐるっとまわる物)というスカートのようなものを履きます。これは上着の隙間から冷気が入るのを防ぐ役割をします。また体に降り積もった雪を簡単に払い落とせるように、という意味もあったでしょう。

 手には、ワンパッカやマトゥメレと呼ぶ、毛皮製のミトン手袋をはめ、さらにモイシナハという帯のような物を手首に巻き付け、上着の袖と手袋のすきまを完全にふさいでしまいます。こうすると容易に手袋をはずすことはできません。そこでロープワークなど細かな作業をするために、つけたまま親指だけは出し入れできる構造になっています。

 頭には防寒用のイカムハハカという帽子をかぶり、足にはキロという毛皮ブーツを履きます。ハハカの頭頂にはよく紐を編んだカラッジ(あわじ玉)のような装飾がつけられていますが、こうしたスタイルはアムール川のナナイ民族やモンゴルなどの帽子を思わせます。

 雪中の移動に、北海道ではカンジキを使いますが、樺太ではストー(スキー)を使用します。山仕事に使うストーは、150cmほどの長さで板には反りがつけてあり、裏にはアザラシの皮が貼ってあります。アザラシ皮は、頭が前に、尾が後ろにあたるように貼ります。こうすることで斜面を滑り下りるときはよりスムーズに、斜面を登る時には毛が立って滑り止めの役割をします[1]

 これに対し、ソリ用のヌソホストー(nuso oh sutoo ソリに乗る者のスキー)は、より短く作り、アザラシ皮は貼りません。短い方が乗り降りの動作がしやすいことと、前進のみのヌソには滑り止めが不要なためでしょう。 

 

2.操縦法

 

 操縦者はヌソホストーを履いてシケニにまたがります。1910年~11年にかけての南極探検にヌソを採用した白瀬矗ひきいる探検隊の練習風景[2]を見ると、スタート時には操縦者もヌソを押して助走を手伝い、ある程度スピードに乗ってから飛び乗っています。これは現在の犬ゾリレースでも見る光景です。ニヴフ民族・ウイルタ民族のソリを調査した梅棹氏によると、御者は、雪が深すぎたり融けて軟らかいなど路面状態が悪い時はソリを降りて荷物だけを引かせ、状態が良くなると飛び乗って横乗りの状態で走らせていたといいます。またストーはかじ取りにも多少関わっていたようです。

 両手には、カウレ[3]またはヌソクワ(nusokuwa ソリ用の杖)という制御棒を2本もちます。カウレはシケニ(ソリ)の足の間にさしこみ、先端が交差するようににぎります。先端を雪にさし、てこの原理で抵抗をかけてスピードを調節、止めるときは雪の中に深く突き入れます。重要なのはイヌとシケニのスピードを同じくらいに保つことで、イヌのスピードが落ちたときにはシケニもブレーキをかけないと、引き綱がたるんでイヌの足に絡まってしまい、場合によってはイヌがケガをしてしまいます。

 また、アザラシ革やイラクサ繊維で作ったタカ(手綱)という手綱を引き綱に結び、端を御者の左右どちらかの手首にかけておきます。葛西猛千代氏は、ストー、カウレ、タカの三つで舵をとったと書いていますから、おそらくタカを引くなどして引き綱に振動を与えることでも先頭犬に指令を伝えたのでしょう。また、万が一転倒したり振り落とされた場合に、御者とヌソをつないで、置き去りになることを防ぐ目的もあったと思われます。

 

▲図1 カウレ/ヌソクワ

▲図2 ヌソを描いたもの 御者の手から伸びている紐がタカ 上『北夷分界余話』 下『樺太アイヌ 住居と民具』 

 前進、ストップなどのイヌへの指示は、主に号令によって行われます。号令は次の4通りです。

 

アイヌ(山本)

アイヌ・ニヴフ

・ウイルタ(芳賀)

ニヴフ・ウイルタ(梅棹)

前進

tox!tox!tō![4]

トウトウ

tou,tu

加速

hoj!hoj!hoj!

口笛

曲がれ

kaj!

カイカイ

kae,kai(右!)

チョイチョイ

tʃei, tʃoi(左!)

停止

perá!perá!

ブライ

bre,brei,pore

▲表1 サハリン諸民族が用いるイヌへの号令

 ソリの各部名称と同様に、これらの号令も各民族間でよく似ており、樺太アイヌがこれらを北方から取り入れたことが想像できます。なお、樺太でソリを利用した和人もこの号令をそのまま使っていたそうです。  

 これで基本的な操作はできますが、次々と変化する路面に対応し、方向転換をしたり転倒を防ぐためにも御者はこまかな体重移動が必要です。イヌたちのコンディションも、排便をしたり気が散ってケンカをしたりと常に変化しますので、状況を適宜判断しながら操縦するには熟練が必要だといいます。

 

3.ヌソの性能

 

 ヌソは現在のようなスポーツではなく、移動や運搬のための実用本位の乗り物でした。ロシア領時代の樺太では、敷香(現在のポロナイスク)から大泊(同コルサコフ)までを月2回往復して郵便物を運んでいました。では、ヌソの積載量と移動距離、スピードはどれくらいのものでしょうか。最後に、こうしたヌソの性能について記録を見ておきます。

 1801年に『樺太雑記』を記した中村小市郎と高橋次太夫は、ヌソに乗って調査をしたと考えられます。中村によれば、多来加(ポロナイスク付近)の人々は、北知床岬まで、ヌソで7日間かけてアザラシ狩に行き、東海岸の内淵から富内まで約110㎞の距離はヌソで5日間の行程。

 次に、間宮林蔵『北蝦夷図説 巻の二 産業部』には7,8頭引きのヌソで1日に約70kmを進むとあります。ただし、氷上を走る時は、氷の凹凸のために振動が激しく転倒しやすいと書いています。揺れの為に振り落とされると、ソリは何かに引っかからなければどこまでも行ってしまい、たいへんな苦労をすることになります。林蔵自身も何度かそうした体験をしています。

 犬飼哲夫氏は、複数の事例を紹介しています。西田源蔵著『樺太風土記』を引用し、乗客2、3人と荷物(通常250kg程度)を積んで1日に60㎞〜80㎞を走る、と書いています。イヌの頭数が書かれていませんが、おそらく13頭引きでしょう。3頭引きの場合、1人乗りで1日40km、無理をすれば80km進み、3人乗り・7〜8頭引きの場合は時速12km程度。最も長い距離を移動した記録としては、栄浜町と内路町の間240㎞を1日で走った例があります。また、輸送業をしている者は、優秀なイヌを集めた6頭引きのヌソに480kgの荷を積み、毎日24kmを往復しました。戦時中は輸送用のウマが軍馬として供出されたため、木材の運び出しに犬ゾリが使われました。4、5頭引きで1600kgを運んだと言います。 

 また軍は犬ゾリそのものを通信などの面で軍事利用することを考えました。まず、海軍が青森県にイヌを送って訓練を試みましたが、青森県でも樺太とは10度の気温差があり、イヌたちは暑さで全滅しました。陸軍は千島で実用化を目指し、30頭を買い集めて前線へ送ろうとしましたが、送り始めた所で敗戦となり、イヌたちの多くは戦死をまぬがれました[5]

 梅棹氏は、自身の調査の中で複数の条件下で計測しており、たとえば森林地帯の深い軟雪を走った場合は移動距離28.6kmに対し所要時間10時間(時速2.9km)、荷物を積まずに人だけが3〜4人乗り込みかたい路面を走った場合では移動距離44.8kmに対し所要時間5.2時間(時速8.6km)で、平均時速を4.3kmとしています。梅棹氏らの調査以前に行われた極地探検等では移動距離、スピードとも数値が大きい事にも触れ、これらの数値はイヌの頭数、ソリの構造、御者の熟練度、荷の重量や路面の状態など様々な要素によって大きく変動すると述べています。

 梅棹氏の述べる通り、積載量は路面状態によっても変わり、移動の目的(長距離移動・短距離の運搬)によっても変わって来ます。

 もう1つ重要なのは飼料の問題です。馬の飼料は容積が大きく、その分運搬には手間がかかります。これに対し、イヌの飼料は魚やアザラシで、現地調達で賄うことができます。1頭あたり、生魚なら1日に4kg、アザラシ肉なら2kgを与えました[6]。梅棹氏は、ソリイヌが健康状態を保ち、本来の能力を発揮するには肉食が最も適しており、残飯を与えるなどして穀食をさせるべきではないと述べています。水分はイヌが自ら雪を食べて補給しました。他の犬ゾリを使う地域でも共通して言われることですが、給餌は必ず走り終わってから行い、走る前は空腹状態にしておきます。先にエサを与えると、満腹したイヌたちは走る意欲をなくして眠ってしまい、無理に走れば体調が悪くなると言います。

 ヌソの問題点としては、ヌソ同士がすれ違うときにケンカが起こりやすいことがあります。このため、御者は別なヌソが見えると警戒して、相当手前からコースを変え、距離をあけてすれ違うようにしました。

 

おわりに

 

 さきに書いたように、1875年以降ロシア領期、その後の日本領期でも、ヌソは逓送(手紙や荷物の運搬)に使われていました。ロシア領期の料金は、トナカイソリなら1台10ルーブル、犬ゾリは13頭引きで1台30ルーブルです。日本領期(昭和4年頃?)になると、敷香から大泊まで馬車やトナカイソリなら100円、犬ゾリは70円でした。千徳太郎治氏によれば、逓送は一種の請負事業となっており、東海岸のアイヌ民族にとっては冬のくらしの助けになったと言います。

 ロシア、そして日本に統合された樺太先住民は、それ以前からの生業が制限され、一方で植民者の社会に参画する道も開かれておらず、苦しい生活を余儀なくされました。そうした中で、前代から引き継いだ文化が新しい形で人々の暮らしを支えました。また、犬ゾリは移住者である和人にとっても、樺太での生活に適応するために必要な手段として取り入れられ、大きな役割を果たしたのです。

謝辞

 この記事を書くにあたり、白瀬南極探検隊記念館の皆さま、田村将人氏にご協力いただきました。御礼申し上げます。

 

(注1)なお、最上徳内の「蝦夷草子後編」には、アイヌがストーを履いて両手にストックを持ち、帯につないだ綱でイヌに引かせ氷上を移動するという話が書かれています。夏場には船を引くなど、イヌたちは1年中活躍します。

(注2)この時の様子を記録した映画が残っており、秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館で視聴することができます。

(注3)名称については2016年12月号の表1参照。

(注4)近年のアイヌ語表記ではxはh、jはyで表します。カナ表記ではそれぞれ「トホ!トホ!トー!」「ホイ!ホイ!ホイ!」「カイ!」「ペラ!ペラ!」となります。

(注5)田村将人氏(国立アイヌ民族博物館準備室)の教示によれば、戦前に樺太で発行されていた新聞紙面でもしばしばソリの軍事利用が話題にのぼり、犬ゾリに対してトナカイゾリの方が隠密行動に適している、などといった議論がされていたそうです。

(注6)余談ですが、イヌは安産だと考えられており、イヌのエサ入れを出産儀礼に用いることがありました。その他、樺太ではイヌはさまざまな宗教儀礼に関与し、北海道アイヌの文化におけるタヌキに似た位置にあります。

 

附録:ヌソが歌われたヤイカテカラ(即興歌)

 樺太西海岸から北海道へ移住したある女性は、ヌソが歌い込まれた珍しい歌を伝承していました。この方は1885(明治18)年生まれで、若い時に近所の老人からこの歌を聞き、良い歌なので自分でも歌っていたということです。

 老人はロシア人の依頼で、豊原(ユジノサハリンスク)からクスンコタン(大泊/コルサコフ)まで手紙を運んだそうです。路面状況が悪く、苦労して運んだ末に報酬として渡されたのはボロボロで綿がはみ出た服1枚でした。老人は、心の中で泣きたいほど落胆し、その気持ちを歌にして周囲の人々に聞かせました。

1回目
ハイヤア ハイヤア
(はやしことば)

ヌチャ イレンカ ヌチャ イレンカ  チヌイェカンピ
ロシア人の意向で ロシア人の意向で 文字をつづった手紙を

ウナンパレ クスネマヌ。 
私に運ばせるのだそうだ

セタ クオー クスンコタン コタン
イヌに 乗り  コルサコフ の村へ

ヌチャ イレンカ カンピ アナンパレ 
ロシア人の意向で 手紙を 運ばされて

アンラム オンナイケ タ トゥ ポン チシラムポ ヤイコンテ
私の心  の中   で  2つの 泣きたい気持ち を抱いて 

ヘマタ イコンテ チウェンテ イミーポ 
何を 私にくれたか ボロボロの 服よ

ハイヤアア ハイヤア

2回目
ハイヤアア ハイヤア

ヌチャ イレンカ ヌチャ イレンカ  クスンコタン コタン
ロシア人の意向で ロシア人の意向で コルサコフの 村へ 

カンピ イアンパレ クスネ マヌ
手紙を 運ばせる  のだ そうだ

セタオーアン カンネ ルー カイキ ウェン アンペ
イヌに乗り  乍ら  道  だって 悪い のに

ヌチャ イレンカ ウ カンピ  
ロシア人の意向で ロシア人の意向で 文字をつづった手紙を

アナンパ カンネ パイェアン ナンペ
たずさえ ながら でかけて  みたら

ヘマタ エンコテン クン ペ  アンラム
何を  私にくれる ものだろうと 思ったら

アンペネ チウェンテ イミーポ
まったく ボロボロの 服

ハイヤアア

 (日本放送協会 『アイヌ伝統音楽』に収録)

 

参考文献

犬飼哲夫
1959「カラフトイヌの起源と習俗」『からふといぬ』日本評論新社。

梅棹忠夫
1990(1943)「イヌぞりの研究」『梅棹忠夫著作集第1巻 探検の時代』中央公論社。

荻原眞子、古原敏弘
2012「アイヌの犬橇関係資料概要―ロシアの博物館所蔵品について─」『アイヌ民族文化研究センター研究紀要』 第18号、北海道立アイヌ民族文化研究センター。

葛西猛千代
1975a(1943) 『樺太アイヌの民俗』みやま書房。(菊池編1997に再録)
1975b(1928) 『樺太土人研究資料』私家版(謄写)。

萱野茂
1978『アイヌの民具』アイヌの民具刊行運動委員会。

北原次郎太
「樺太アイヌの歴史」『樺太アイヌ民族誌』(公財)アイヌ文化振興・研究推進機構。

久保寺逸彦編
1992『アイヌ語・日本語辞典稿』北海道教育委員会。
2012(平成24)年3月発行

千徳太郎治
1980(1929)『樺太アイヌ叢話』(『アイヌ史資料集第六巻 樺太篇』(北海道出版企画センター)に再録)。

知里真志保
1987(1953)「樺太アイヌの神謡」『北方文化研究報告』第4冊、思文閣出版。
1975(1954)『分類アイヌ語辞典 人間篇』『知里眞志保著作集 別巻Ⅱ』 平凡社。

西鶴定嘉
1974『樺太アイヌ』みやま書房。

芳賀良夫
1959「南極用犬ソリの編成と訓練」『からふといぬ』日本評論新社。

福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邉欣雄(編) 
1999『日本民俗大事典〈上〉』吉川弘文館。

北海道立北方民族博物館
1998『A.V.スモリャーク氏寄贈資料目録~ニヴフ・オロチ・ウリチ・ナーナイ』。
2014『北海道立北方民族博物館第29回特別展 船、橇、スキー、かんじき 北方の移動手段と道具』。

山本祐弘1970『樺太アイヌの住居と民具』相模書房。

和田完
1965「アイヌ語病名資料―和田文治郎遺稿2―」『民族學研究』30-1号、日本文化人類学会。
А.В. Смоляк 2001 Народы Нижнего Амура и Сахалина : фотоальбом Mocĸва

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2

第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4

第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5

第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名 2016.6

第15回 アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物 2016.7

第16回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-1 2016.12

第17回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-2 2017.1

 

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓22》春待つ日々のサクラ4種

 

 文・写真:安田千夏

 

 まだ寒い毎日が続いておりますが、これからは水もぬるみ、春を察するのが早い木々の芽のふくらみを観察しながら花の季節を待ちわびる、そんな時期にさしかかってまいりました。花といえば待ち遠しいのはやはりサクラという人が多いことでしょう。桜前線が到達するのが遅い北海道では、ゴールデンウィーク頃にソメイヨシノよりも自生種エゾヤマザクラがメインで満開となります。まだ2ヶ月半も先の気が早い話ではありますが、映画公開前の予告編といったおもむきでわくわくしながら写真を見ていきたいと思います。

▲写真1 エゾヤマザクラ 5月7日

 アイヌ語名は「カリンパニ(注1)」。アイヌ文化では花を愛でるのはもちろんですが、樹皮を刃物のさやなどのはぎ合わせや補強の材としたため、実用品としてのイメージが先行します。マキリ(小刀)さやの末端や開口部に巻かれていることが多いのは、柄や刃があたり破損しやすい箇所なのでしっかりと樹皮で補強する必要があったということを示しているのでしょう。

▲写真2 エゾヤマザクラの樹皮が巻かれたマキリ(アイヌ民族博物館蔵)

 エゾヤマザクラの花が散ってもサクラシーズンはそれで終わりというわけではなく、次々とサクラの仲間が開花します。二番手はエゾノウワミズザクラ、アイヌ語名は「キキンニ」。アイヌ文化では木の独特なにおいを病魔除けに使うことで知られています。

▲写真3 エゾノウワミズザクラ 5月28日

 さてここで問題がひとつ、キキンニという名を持つ木がもう一種類あります。それは北海道では街路樹としてもおなじみナナカマドなのです。知里1953を見ると、美幌で確かにナナカマドのアイヌ語名が「キキンニ」と採録されており、それに対してエゾノウワミズザクラが「キキンニ」と採録された地域は「北海道、樺太」。後者の方が広く使われていた名称と書かれていますが、じつは話はそれで終わりません。『アイヌと自然デジタル図鑑』制作の過程で、静内地方の伝承者織田ステノ氏が指す「キキンニ」はナナカマド(注2)であることがわかりました。利用法は「風邪をひいたときに枝をお茶にして飲んだり、おかゆに入れたり」し、また魔除けの意味で「枝を窓や戸口に刺したり、水桶に入れたり」したということです。

 そして「キキンニオッカイ(ナナカマドの男)」という人物が主人公の散文説話が以下のように語られています。

 家の外にナナカマドばかりが生えている場所で、ひとりきりで育った男がいました。どうしてそのような境遇なのか知りませんでしたが、ある時神からそのわけを教えられました。その男の村はかつて普通の村だったのですが、ある時病気の神が上陸して来て皆死んでしまいました。その男だけが生き残りナナカマドの森の中で暮らす「キキンニオッカイ」と名づけられたのだということです。そしてこの男が暮らす川筋には上流にも下流にも村がありたくさんの人が住んでいるのですが、これから津波が来ることになっていることを教えられました。そして神をなだめる特別な力を持ったその男にナナカマドで木幣を作り祈って村を守りなさいと指図をしました。男はその通りにして村を守り、川筋の人々はその男に感謝をし、やがて立派な村長になったのだといいます。(静内34102 織田ステノ)

 

▲写真4 ナナカマド(デジタル図鑑より)

 このように、静内地方ではナナカマドがキキンニ、そして大変重要な役割を持った木であることがわかったのでした。また沙流地方の黒川セツ氏も風邪をひいた時に「キキンニサヨ(ナナカマドのおかゆ)」を食べたと言っていますので、美幌のみならず沙流、静内地方ではナナカマドをキキンニと言っていた、少なくともそのデータがあるということがやっとわかって来ました。

 アイヌ語話者が「キキンニ」と言った場合に、どちらの木を指しているのかをその場でしっかり確認しない限り後々わからなくなってしまうというのをまたしても痛感することになりましたが、そこはあきらめず地道な頑張りどころです。アイヌ民族博物館の資料では、十勝地方の山川弘氏がキキンニには「黒い実がなる」と証言しています(30110)。ナナカマドの実はいうまでもなく赤であり、エゾノウワミズザクラは黒です。今のところこれが最もエゾノウワミズザクラ寄りの証言ということができるでしょう。

 さて2番目がかなり長くなってしまいましたが、サクラの話に戻ります。次に開花するのがシウリザクラ。エゾノウワミズザクラも穂咲きですが、こちらはより整然とした穂咲きです。アイヌ語名もなぜか日本語名と同じ「シウリ(注3)」と採録されていて、アイヌ文化ではおもに木材としての用途がいくつか記録されています。

▲写真5 シウリザクラ 6月2日

 おもな記録を年代順に並べてみると次のようになります。

1. 材ハ堅硬緻密ニシテ弾力アルヲ以テ北海道「アイヌ」ハ「アマッポ」ノ弓車櫂若クハ昆布採集用ノ竿ニ賞用ス。(宮部・三宅1915)
2. この木で仕掛弓、槍や銛の柄、車櫂などを作った。(幌別)(知里1953)
3. 北海道の胆振幌別では仕掛弓とか山狩の槍、海漁のときの銛の柄や舟の車櫂などをこれでつくったという。(更科1976)

 

 下線は筆者によりますが、こうして並べてみると仕掛弓(アマッポ)、車櫂という語の並びがどれも同じで、引用しつつ書かれているようにも見えます。しかしそもそも1.の文献には地域についての情報はなく、2.3.の文献については参考、引用などの情報が抜けている点に注意が必要です。アイヌ文化での樹木利用を説明する場面は野外活動で需要が増えつつありますが、こうした問題を整理して話すというのはなかなかに難しいことでもあるのでした(注4)

 最後はミヤマザクラ(シロザクラ)、これはむつかしいことはいわずに美しい花を愛でることに専念いたしましょう(注5)

▲写真6 ミヤマザクラ(シロザクラ) 6月2日

 花の季節を妄想しつつ枯れ色の森を見つめる日々ですが、春はもうすぐそこまで来ています。立春の頃からさえずり始めているカラ類の声にもそれが感じられ、思わずうきうきとしてしまう今日この頃なのでした。

▲写真7 足でつかんだエサをついばむハシブトガラ(注6) ウトナイ湖

 

(注1)宮部・神保1892、宮部・三宅1915、batchelor1938、更科1942、知里1953など

(注2)高山性のタカネナナカマドなどもありますが、織田氏は街路樹のナナカマドを指してキキンニと言っています。

(注3)宮部・神保1892、宮部・三宅1915、batchelor1938、知里1953など。イケマがそうであるように、日本語名アイヌ語名が共通する植物が時々見られます。どちらかからの移入語であるかどうかは、今のところ不明という他はありません。

(注4)知里1953はイタヤカエデ、マユミの項についても同様の問題が指摘できます。

(注5)知里1953にはアイヌ語名retar karumpani(阿寒)とあります。用途についての記述はありません。

(注6)本州以南の方は「コガラでは?」と思われるかも知れませんが、北海道ではハシブトガラがとても多いのです。見た目はよく似ていますが、これからの時期はさえずりが異なるので違いがわかやすくなります。

〈引用参考文献〉
宮部金吾・神保小虎『北海道アイヌ語植物名詳表』東京地学協会報告第14年第1号(1892年)
宮部金吾・三宅勉『樺太植物調査概報』樺太庁(1907年)
宮部金吾・三宅勉『樺太植物誌』樺太庁(1915年)
J. batchelor『アイヌ英和辞典』(第4版)岩波書店(1938年)
更科源蔵『コタン生物記』北方出版社(1942年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 植物編』(1953年)
更科源蔵・更科光『コタン生物記1 樹木・雑草編』法政大学出版局(1977年)

アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
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《伝承者育成事業レポート》イヨマンテでの祈り詞(平取地方)その3

 

 文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師)

 

 

 ここに掲載するものは、名取武光氏が記録したイヨマンテの祈り詞です。名取氏の論文「沙流アイヌの熊送りに於ける神々の由来とヌサ」(『北方文化研究報告 第4輯』、1941年、北海道帝國大學)には、仔グマを連れ帰った場面からイヨマンテを終えるまでの一連の祈り詞54編と、その意訳が収録されています。名取氏の同論文は、1941年に最初に発表され(戦前版)、その後1974年に著作集『アイヌと考古学(二)』に収められました(戦後版)。著作集収録の際、浅井亨氏がアイヌ語の校正をしており、一部解釈や表記が変わりました。

 第3期「担い手」育成研修では、2016年1月頃からアイヌ語研修の一環として、これらの祈り詞の逐語訳に取り組みました。和訳にあたっては、新旧のアイヌ語原文を比較しましたが、ここでは戦前版での表記とアイヌ民族博物館で用いられている表記法(辞書で引けるような表記)で書いたものを並べ、戦後版については必要に応じて引用しています。なお、原典では改行せずに書き流していますが、ここでは、一般的な韻文の形式で、一行と考えられる長さごとに改行しています。それぞれの最後に、名取武光氏による意訳をのせています。

 今回は、そのうち5と6を掲載します。 (→その1 →その2

 参照した辞書の略号は次の通りです。

【太】:川村兼一監修、太田満編、『旭川アイヌ語辞典』、2005、アイヌ語研究所
【萱】:萱野茂、『萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版]』、2002、三省堂
【久】:北海道教育庁生涯学習部文化課編、『平成3年度 久保寺逸彦 アイヌ語収録ノート調査報告書(久保寺逸彦編 アイヌ語・日本語辞典稿)』、1992、北海道文化財保護協会
【田】:田村すず子、『アイヌ語沙流方言辞典』(再版)、1998、草風館
【中】:中川裕、『アイヌ語千歳方言辞典』、1995、草風館

 

5)Inunba ikuorun inonnoitak (1. kamuihuchi) 第2段階の仕込み
酒をこして火の神に申す祈り詞

 

戦前版の表記

新表記

和訳

Ireshukamui  iresu kamuy  育ての神の 
kirishamkashi  kirsamkasi  お側で 
chishipinere  cisipinere[1]  支度を 
aekarakarakunip  a=ekarkar kuni p  なすべきものが 
inaukoroasikoro  inaw kor askor  祈りの酒 
newakusu  ne wa kusu  なので 
akaraetoko  a=kar etoko  仕込む前に 
kamuianure  kamuy a=nure  神に申し上げ 
kirokkusu  ki rok kusu  ていたので 
nehikorachi  ne hi koraci  そのとおりに 
tapantonoto  tapan tonoto  この酒が 
pirikawatap  pirka wa tap  美味しくでき 
tantootta  tanto or_ ta  今日 
shirarikashi  sirari kasi  酒粕の上に(?) 
akopekawa  a=kopeka wa[2]  受け取って 
inunba  inumpa  搾った 
ashikoro  askor  酒を 
ashinnarae  asinnoraye[3]  新たに押しやる 
kishirihi  ki sirihi  次第です 
sekorankusu  sekor an kusu  ですから 
ashiriiyahunkene  asir iyahunke ne  新たに仕込みを 
anshirihi  an sirihi  する次第 
newakusu  ne wa kusu  ですから 
isapkeashikoro  isapke askor  味見の酒を 
kamuianure  kamuy a=nure[4]  神にきいていただく 
kishirihi  ki sirihi  次第 
nehitapanna, ne hi tapan na. でございます 

 

 

5.名取意訳

火の神様よ、貴方の酒元なく始めて造るので、心配であったから、前に火の神様にお願いして、よい酒が出来るようお頼みしました。それで今酒になって、新しい酒を今濾して、その酒をまた他の入れ物に仕込んで、酒を造るようにしたところであります。今出来たこの酒、貴方の酒であるから、あんばい見してください。それによって仕込んだ酒、よい酒になるように、また酒と幣を差し上げる迄、見守って下さい。

 

6)  Inunba ikuorun inonnoitak(2. nusakorkamui) 
酒を濾して幣所の神に申す祈り詞

 

戦前版の表記

新表記

和訳

Nusakorokamui  nusakorkamuy  幣所の神 
kamuiekasi  kamuy ekasi  神なる翁よ 
ireshukamui  iresu kamuy  育ての神
kotonoto  kor tonoto  の酒は 
taneanakne  tane anakne  今や 
shirarikashi  sirari kasi  酒粕の上に(?) 
akopekawa  a=kopeka wa  受け取って 
asirikinne  asirikinne  新たに 
ashiriiyahunkeni  asir iyahunke ne  新たな仕込みを 
anruetapan  an ruwe tapan  しています。
sekorankusu  sekor an kusu  そうしたわけなので 
inunbaashikoro  inumpa askor  搾った酒を 
nusakorokamui  nusakorkamuy  幣所の神に 
asapkereshiri  a=sapkere siri  きいていただく 
nehitapanna. ne hi tapan na. 次第です

 

6.名取意訳

 幣所の神よ、この酒、今火の神の前に出した酒ですが、今新しい酒をこして、その酒をまた新しく酒を造る様に、別に仕込んでおります。あんばい見ていた為に幣所の神に差し上げますから、召し上がって下さい。

 

(注1)【久】p.248(802)shipine:用意する、装束する、身支度する shipinnere:用意させる eshipinnere:を用意させる
sipinereは上記sipinnereと同じく「用意させる、支度させる」と同じものと考え、ciが付いて名詞化され「用意すること」という意味になっていると解釈しました。cisipinere a=ekarkarで「(火の神のそば)で用意する事を私がする」という意味になります。祈り詞の中には、こうしたci+他動詞 a=(e)karkarのような表現が頻出します。

(注2)kopekaはpeka「~を受け取る」にko「~に対して/~と共に」がついた形です。ここでは酒(酒と酒粕が分離していない状態)が出来上がったことを「酒粕と共に酒を受け取った」と表現したものと解釈しました。

(注3)asinnorayeは直訳すれば「新たに押しやる」です。ここでは一度出来上がった酒をいくつかの容器に分け、そこに新たに材料を加えより多くの酒を仕込むことを言っています。「押しやる」とは酒の材料を入れた容器を上座に置くことです。

(注4)日本語でも「聞き酒」などと言うように味を見ることを「聞く」と表現しますが、アイヌ語でも味見にkera nu「味を聞く」と表現することがあります。

 

 

《伝承者育成事業レポート バックナンバー》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3

アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4

ガマズミ・ミヤマガマズミの見分けについて(山本りえ)2016.11

イヨマンテの祈り詞(平取地方)その1 2016.12

「ハンノキについて学んだ者が物語る」(中井貴規)  2016.12

イヨマンテの祈り詞(平取地方)その2 2017.1

イパプケニ(鹿笛)について(新谷裕也) 2017.1

 

 

 

 

 

 

 

《伝承者育成事業レポート》サパンペ(儀礼用冠)の製作について

 

 文:木幡弘文(伝承者育成事業第三期生)

 

 

 2016年10月19日より大坂 拓氏(北海道博物館研究職員)を講師に迎え、全7回の日程でサパンペ(儀礼用冠)の製作を行いました。

 サパンペについては、2016年1月号から掲載された大坂拓「《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する(第1回第2回第3回)」で詳しく説明されているのでそちらをご覧下さい。

 

 

1. 素材について


 今回の製作では、以下の素材を使用しました。

1)ガマの葉
2)ホオノキ
3)イラクサ
4)ヤナギもしくはミズキ
5)木綿布

 

 ガマの葉は端にある耳と呼ばれる部分を使用してサパンペの軸となる部分を製作し、ホオノキはサパンペの先端に取り付ける飾りとして使用しました。イラクサは装飾を行う際の紐に、ヤナギ、ミズキはサパンペに取り付けるキケイナウの製作に使用しました。また、木綿布は飾りとして取り付けました。

 

2.製作期間・製作方法について


 研修を7回行いましたが、それでは足りなかったため研修外での作業も行いました。実際にかかった期間は1ヶ月程度です。

 製作方法は以下の通り行いました。

1)軸に使う縄の製作
2)軸の製作
3)軸に使う紐の製作
4)先端の飾りの製作
5)軸へ飾りの取り付け
6)木綿布の取り付け
7)キケイナウの製作
8)軸へキケイナウの取り付け

 

1)軸に使う縄の製作

 縄は素材の項目で記載した通りガマの耳を取り出し、細く裂いて、適当な太さで撚ります。撚り方はS撚りで、撚り方も男撚りのように2本で分けたガマの耳の束を左手を前から後ろに、右手を後ろから前に手のひらをすり合わせるように撚っていきました。私はこの作業がものすごく苦手であったため一番作業が難航していました。縄は1本あたり1メートル50センチ程で合計11本分撚り、次の作業となりました。

▲縄を撚っている様子

 

2)軸の製作

 軸の製作は先に製作した11本の縄を使い11本編みを行いました。編み方は端から1本持って2本毎に交差させて編みます。端まで行くと、今度は折り返して編んで行く作業を行いました。編み込む際、軸が真っ直ぐになるように、また編み込む縄を飛び越さないように注意しながら行いました。

▲11本編みの様子 ▲11本編みの様子

 

3)軸に使う紐の製作

 次に軸や先端飾りに使う紐の製作を行いました。方法は細く裂いたイラクサの繊維の束を両手で2束撚りながら持ち、撚った2束を更に撚りました。長さ1メートル弱程に製作しました。

ひも製作の様子

 

 

4)先端の飾りの製作

 先端の飾りは研修生各自が作りたい形を選び、ホオノキを彫って製作しました。また、一人は先端部の飾りは製作せずに以前紹介されたSSコイルの装飾を行う為にその製作を行い、もう一人はイナウを2本装飾するためにイナウの製作を行いました。私は2頭熊を彫りました。彫る際には飾りの取り付け方で軸に縫い付ける為の穴を彫っています。彫り終えた飾りはススなどで黒く色を付けました。

先端の飾りを製作する様子 飾りを黒く染める様子
サパンペに飾るイナウを作る様子 ▲SSコイルを作る様子

 

5)軸へ飾りの取り付け

 ここまでで製作した飾りを今度は軸へ取り付ける為に、まずは軸を自分の頭にかぶれるように先に製作したイラクサの紐で縫い付ける作業を行いました。ここで指1本が入るほどの隙間を空けて縫い付けました。

 縫い付け作業の後に飾りを先端に縫い付けます。ここではしっかり真っ直ぐ向いている事に注意しながら縫い付けました。

▲飾りをサパンペに取り付けた様子

 

6)木綿布の取り付け

 飾りの取り付けの後、今度は用意した木綿布を軸に縫い付ける作業を行いました。軸の側面に縫い付けるものと先端部を覆うように縫ったものがあり、私は側面に縫い付けるものだけを行いました。縫う際にはイラクサの繊維を細く裂いて縫い付けました。

▲木綿布をサパンペに取り付けた様子

 

7)キケイナウの製作

 飾りの取り付けの後はキケイナウの製作を行い、横に8本から12本ほどを、横に取り付ける為のキケイナウを更に8本ほど必要で、1人約20本ほどのキケイナウの製作を行いました。また、削った際に撚る作業が必要で、ドリルのような先端を残すように撚る作業も行いました。地域によって使う素材が違うのですが、私はヤナギを削り製作を行いました。

▲キケイナウを作る様子

 

8)軸へキケイナウの取り付け

 製作したキケイナウを、軸が横から見て隠れるように、側面に取り付けました。軸の幅が約5センチほどとなるので大体キケイナウが片方で4〜6本必要となりました。またサパンペの先端に1本、側面軸に片方3本ずつの6本、後端に1本、の計8本を取り付けのための固定用キケイナウとして使用しました。

 取り付ける際は、側面に取り付けるキケイナウに合流するように固定用のキケイナウのドリル部分を取り付け、後端ではドリル部分が出るように取り付けました。

キケイナウを取り付ける様子 ▲キケイナウを取り付けた様子

 

 

3.感想

 

 私自身、サパンペというとイナウを削る木だけで製作された物が最初に思い出され、今回の研修で製作した軸の存在は全く知りませんでした。また、サパンペをかぶる人とは長老格の人や権威者といったイメージが現在でも強いです。

 今回は軸の製作も初めてでしたが、先端部の飾りも初めてで2頭熊を製作する事にしたのは良かったのですが、どのように彫り出せば良いかすごく悩みました。また、縄撚りも全然上手くいかず再チャレンジしたいものとなってしまいました。

 反省点としては、縄撚りの際に小指程の太さで11本全てを均一にする事です。均一で無い場合でも11本編みを行う事は出来ますが、軸を真っ直ぐになるように製作する事が困難となります。
次回製作する際には以上の事を踏まえつつ製作したいです。

サパンペをかぶっている様子

 

 

《伝承者育成事業レポート バックナンバー》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3

アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4

ガマズミ・ミヤマガマズミの見分けについて(山本りえ)2016.11

イヨマンテの祈り詞(平取地方)その1 2016.12

「ハンノキについて学んだ者が物語る」(中井貴規)  2016.12

イヨマンテの祈り詞(平取地方)その2 2017.1

イパプケニ(鹿笛)について(新谷裕也) 2017.1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《ポロトコタン私史2》1996-1997 チセ火災と再建の3カ月

 

 文:安田益穂

 

▲2号チセの屋根葺き(頂上に立ってビデオ撮影しているのが筆者)1997年1月10日

 

はじめに

 

 アイヌ民族博物館はただの博物館ではありません。「博物館じゃなくて観光地でしょ」と悪口を言う人もいますがただの観光地でもありません。では何なのか。私の知る限り、それが最も端的に示されたのが1996年12月20日のチセ(伝統家屋)火災とその後の3カ月でした。

 まずはその日起きたことを新聞から。

白老のアイヌ民族博物館 資料170点も焼失(苫小牧民報 平成8年12月21日付)

 20日午後1時半ごろ、白老町若草町2の3、財団法人アイヌ民族博物館(熊野末太郎理事長)のポロチセ(大きな家)から出火、木造かやぶき平屋建て約142平方メートルを全焼。内部に展示していた漆器や民族衣装など文化資料約170点を焼失した。さらに二号チセ(約112平方メートル)も半焼した。職員や入場者にけがはなかった。
 苫小牧署と白老消防本部の調べによると、出火当時、チセ内には熊野理事長と職員ら5人が、正月用のイナウ(木幣)作りやキナ(ござ)編み、アツシ織りの伝承作業中で、入り口の照明スイッチ付近でパチパチという音とともに出火。職員が消火器を使って消そうとしたが、燃え広がった。電気系統の漏電が原因ではないかとみて調べている。

▲火災現場 右手前がポロチセ(全焼)、左奥が2号チセ(半焼)(2016.12.20)

 

タダモノではない伝承部門の底力

 

 冒頭に掲げた写真は、類焼し全体の7割を作り替えた2号チセ。日付を見ると1月10日とあります。火災が12月20日。予期せぬ火災から半月、すでに屋根葺きも最上段まで進んでいます。あまりのスピードに目を疑うばかりです。

▲2号チセの改築箇所(安田益穂1997「2号チセの修復」より→全文PDF

 

▲屋根の解体作業。火災翌日、炭化した上に消防の20トンの放水で凍った茅(注)を男性職員が屋根から下ろし、それを足場上で頭からかぶりながら地面へ下ろす筆者。▼それを女性職員らがブルーシートで引きずり、湖畔で燃やす過酷な作業。

 火災自体はあってはならないことであり、弁解の余地はありません。年末にもかかわらず焼け跡の片付けや茅の手配など、人的物的に関係各方面からご支援をいただきました。ただ、火災後も1日も休むことなく通常通り開館し、7割を損傷した2号チセを1カ月で修復、全焼したポロチセを2カ月で新築し、その間に20回の建築儀礼を行ったのは、まぎれもなくこの博物館の底力、とくに伝承部門の力でした。

 アイヌ民族博物館には学芸課、総務課の他に伝承課という部署があります。アイヌ古式舞踊をはじめ無形民俗文化財の実演公開などを行う部署で、伝承課の存在こそがこの博物館の大きな特徴です。チセ建設の中心となったのは建設会社でも文化財補修の専門業者でもなく、伝承課の職員たちでした。

 「アイヌなんだからチセぐらい建てるでしょ?」と思ったら大間違い。おそらく当時も今も、人が住んでいる、または住んでいたチセは一軒も残っていませんし、白老に茅葺きの家など見当たりません。当館のように見学施設として復元されたものがあるだけですが、それも一度建てれば次は10年先か20年先か。経験する機会がほとんどなく、この時もチセ建設の経験者は、男性職員では2人3人ではなかったでしょうか。

 にも関わらず、予期せぬ年末の火災にも「この人たち何者?」という獅子奮迅の働きぶりで、土木建築集団に早変わり。茅を刈り、木を伐り、重機を自在に操って造成し、柱を立て屋根を葺き、女性たちは茅を束ね、ござやすだれを編み、酒を仕込んで神々を祭る。こんなことが普通の博物館や観光地に真似できるとは到底思えません(まあ真似したいとも思わないでしょうが)。

 その辺は以下のビデオを見れば納得していただけるかと思います。

 

映像記録としてのチセ建設

 

 

 このビデオは、チセ建設の3カ月余りの間に撮影した113本、計142時間のビデオから、ポロチセを中心に建築工程をまとめたものです。1997年9月13、14日に開かれたアイヌ民族博物館公開シンポジウム「アイヌのすまいチセを考える」の資料映像として作成したものに今回字幕など若干手を加えました。発表者(野本正博)が上映しながら解説する想定のためナレーションもBGMもないカット編集のみで、冗長なところもありますが、今いるほとんどの職員は見たことがない映像で貴重かと思います。早送りででも見ていただければと思います。

▲資料映像『チセ火災から再建まで』(1997年[2017年再編集]30分 ※音量にご注意を)

 

現代的なチセづくり

 

 このチセ建設事業を一口で言うと「伝統と現代の両立」。つまりチセ建築の特徴とされる段葺きや屋根の三脚(ケトゥンニ)構造、屋内に柱や天井がない一間(ひとま)構造などチセの基本を踏まえつつ、機械や金物など現代的な手段を併用して強度を確保し、また新しい道具なども工夫して生産性を高めました。200人以上を収容する大規模施設を短期間で建設するには当然のことでしょう。

 その一方で、この3カ月は儀式に始まり儀式に終わる、合理性とは正反対の日々でもありました。藤村久和氏の指導のもと、火災後の魔払いの儀礼(ウニウェンテ 12/25)に始まり、地鎮祭(2/15)、火入れ(4/17)、新築祝い(4/19=祭主:葛野辰次郎エカシ)、家の守護神(4/27)、ヌサの建設(5/3)、物送りの儀礼(5/24)などのべ20回、20日間にわたり録音録画したテープは儀式だけで139時間。これを2年かけてまとめたのが『伝承事業報告書 ポロチセの建築儀礼』(2000年3月発行)。私の担当した出版物では一番の長丁場となりました。

▼各種建築図面(筆者作成)

 私はこの時博物館に就職して1年半。当時の業務日誌に目を落とすと、私の欄にはチセ建設作業、設計図面作成、ビデオ撮影のかたわら、伝承記録3『上田トシのウエペケレ』の編集・発行、前年夏開設した館ホームページに同書のWEB版(PDF)、『イヨマンテ—熊の霊送り—報告書』のWEB版を追加、前出の『アイヌ民族博物館だより』35号の発行などの学芸業務や、庶務として予算・事業計画の作成と多忙を極め、昼も夜もない状態。「なんてひどいブラック企業!?」と思いきや、当の本人はチセ建設作業を含め毎日が楽しくて仕方がありませんでした。というのも、本づくり、ホームページ、パソコン、データベース、ビデオ撮影、そして家づくり、どれもこれもずっとやりたかったことばかりでしたから。

 タイトルが「私史」ですから遠慮なく私事を書きますが、私の実家は昭和初期に香川県から旭川に入植した農家。父は農閑期に年1軒ペースで家を建てる半農半大工で、実家も父の手になるものです。その血を引く私も10歳になる前から父のお下がりの大工道具を与えられ、端材で大工のまねごとも。しかも高所で血が騒ぐ性分で、チセ建設の撮影や作業で屋根に上るのが全く苦になりませんでした。

 この時の経験が、翌年のより伝統的なチセ建設の記録事業『アイヌ生活文化体験マニュアル1 建てる—祖先の時代のチセづくり—』(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の受託事業) や2003年の緊急雇用対策事業「金色の家並み伝承事業」などに生かされました。ポロトコタンで働いた20年余りのうち、前半は毎年チセにどっぷりと浸かっていたように思います。私にとってもこのポロトコタンにとっても、かけがえのない経験を積んだ時期だったと思います。

 

おわりに

 

 さて、昨年春のこと、博物館正面、チセ群の入口にある4畳半ほどの小屋の屋根が突如ブルーシートで覆われました。何事かと聞くと雨漏りとのこと。茅葺きの家並みが自慢のコタンですから1日2日で改修されるかと思いきや、ブルーシートとビティ足場に囲まれて3カ月、ブルーシート葺きのまま月日は流れました。底力はふだん表に出ないからこそ底力。一旦ハートに火がつくと3カ月でチセ2棟を建てるのですが、ふだんはゆっくりゆっくり時間が流れていくのもまた、私の職場なのでした。

 

(注)茅(カヤ)と呼び習わすが実際はヨシ(アシ)。白老地方のチセはヨシ葺きが普通。カヤ(ススキ)はすだれなどに用いる。

 

 

参考文献

アイヌ民族博物館
1997『伝承記録3 上田トシのウエペケレ』(PDF
1998『アイヌ民族博物館公開シンポジウム アイヌのすまいチセを考える』(→shop
2000『伝承事業報告書 ポロチセの建築儀礼』(→shop

財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
2000『アイヌ生活文化体験マニュアル1 建てる—祖先の時代のチセづくり—』(PDF版

安田益穂
1997「2号チセの修復」『アイヌ民族博物館だより35号』(PDF
1998「ポンチセ建築速報——チセプニ初挑戦」『アイヌ民族博物館だより 40号』(PDF

(やすだ ますほ)

 


[ポロトコタン私史 バックナンバー]

1.樹齢20年のカツラ

 

【儀式見学の予備知識 バックナンバー】

1.式場とマナー 2016.6

2.祭神⑴ 家の神々 2016.7

3.祭神⑵祭壇の神々 2016.8

4.儀式の日程と順序⑴開式まで 2016.9

5.儀式の日程と順序⑵開式からの流れ 2016.11

 

[トピックス バックナンバー]

1.「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

2.『葛野辰次郎の伝承』から祈り詞37編をWEB公開 2015.9

3.第29回 春のコタンノミ開催 2016.5

 

[資料紹介]バックナンバー

1.映像でみる挨拶の作法1 2015.10

2.映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

3.映像で見るアイヌの酒礼 2016.1

4.白老のイヨマレ(お酌)再考 2016.3

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

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