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月刊シロロ

月刊シロロ  8月号(2017.8)

 

 

 

 

 

《シンリッウレシパ 第23回》北方の楽器たち(補遺2) 千島? 釧路? のカチョ

 

 文:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

▲城石梨奈氏撮影

 

 

はじめに


 前回(北方の楽器たち(補遺1))の記事を書いていた折に、釧路市立博物館の学芸員・城石梨奈さんから、同館が所蔵するカチョの情報をご教示いただきました。その後、実際に資料を見る機会を得ましたので、今回はその紹介をします。

 

1.資料概要


 この太鼓(資料番号84005)の名称は「かちょう」とされています(写真参照)。釧路市春採にお住まいだった志富卯之助氏が佐藤直太郎氏に譲渡し、昭和27年7月に同氏から釧路市博物館に寄託(昭和44年に寄贈)されたものです。資料の来歴は2通り伝わっています。

①博物館の記録(資料台帳)

 志富卯之助氏が千島に出稼ぎ(クマ射ち)に行った際に、クマの毛皮と交換して入手した。膜の素材はクジラの「腹仔」(胎児?)の皮。

②志富氏の親族の談話

 志富氏本人が作ったもの。素材は千島に出稼ぎに行った際に入手した。

 どちらも、千島方面への出稼ぎ()が契機となっていることは共通していますが、①と②では、この太鼓が千島の文化なのか釧路の文化なのかが分かりません。また、資料本体に貼られた札には「鯨の内臓」と書かれており、素材についても異なる情報があることになります。これらの情報が、収集のどの過程で加えられたのか、追跡調査が必要です。

 

2.資料の特徴


 本資料は胴の両面に膜が張られた太鼓です。胴は、桶の様に割り板を筒状に並べて作られ、両端に鉄製のタガが嵌められています。その上に重なる様に膜が貼られ、ところどころ釘を打ってあります。釘を打つ場所には、皮を痛めないためでしょうか。小さな赤い金属板が当ててあります。

▲写真1 釧路市立博物館所蔵のカチョ(側面)

▲写真2 釧路市立博物館所蔵のカチョ(正面)

▲写真3 同(俯瞰)

▲写真4 膜面の札

▲写真5 膜面の裂け目から割り板が見える

▲写真6 膜面の裂け目アップ 

▲写真7 鉄製タガ

▲写真8 金属板と釘で固定

▲写真9 胴の紐あと

▲写真10 桴(全体)

▲写真11 桴(先端)

▲写真12 桴(先端の断面)

 胴の周囲には紙が貼られ、紙の表面には、紐で締めたような跡があります。太鼓を吊る紐にしては細いように見えますので、胴を作る過程で固定したものかもしれません。

 桴は芯を残したままの木で作られ、両端はノコギリで切断、一端にくびれがあります。1本だけですので、わきに抱える様にして打ったのでしょうか。

 

3.終わりに


 釧路市博のカチョは、美幌のものと形状がよく似ています。このような太鼓を志富氏が作ったとしても(あるいは知識として知っていた物を試作したとしても)それほど不思議はないように思えます。

 今年新たに翻刻された金成マツの叙事詩に、カチョが登場する伝承があるので、併せて紹介します。太鼓を使うのは、主人公オタサム村の男が許嫁であるエトロバ村の娘です。雷神の娘が主人公に横恋慕し、途中にあるクナシリなど各地の首長と諍いを起こすよう仕向けます。この戦いで主人公が死ねば、その魂を盗んで夫にしようと企てたのです。ところが、主人公の強さは雷神の娘の予想を超えており、毒の槍で刺されて狂ったまま、クナシリほかの村々を壊滅させてしまいます。

 エトロバの娘は、母から受け継いだカチョ(太鼓)を手にした瞬間に、雷神の娘の奸計に気づきました。傷ついた主人公がオタサムに戻ると、エトロパの娘がカチョを持って駆けつけます。毒を吸い出した後、カチョを打って巫歌を謡い、フッサによって主人公を治癒させました。

 原文では、カチョを叩いて巫術を行う仕草が4829行目から次の様に書かれています。「kani kacho rapte eshiyarbok-amba kane(金の太鼓を取り出し、脇に抱えた)」

 美幌のカチョ、そして釧路市博蔵のカチョの使用法を考える上で貴重な情報です。

 ということで、簡単ではありますが釧路市博物館の太鼓を紹介しました。情報提供および調査に当たって種々ご協力くださった城石梨奈さんに御礼申し上げます。

(注) 志富氏は、頻繁に千島に行っていたようです。ご子息たちも千島で漁業や海獣猟に従事していたとのことで、ラッコの毛皮をなめしている写真が残っています。残念ながら島名はわかりません。

 

参考文献
(財)アイヌ民族博物館
2005『西平ウメとトンコリ』。

沖野慎二 
1994「アイヌ民族に“うなり板”は実在したか?」 『北海道立北方民族博物館研究紀要』3号、北海道立北方民族博物館。

金谷栄二郎・宇田川洋1986『樺太アイヌのトンコリ ところ文庫2』常呂町郷土文化研究同好会。
北原次郎太
2003「tonkoriとシャマニズム」『itahcara』創刊号itahcara創刊号編集事務局。
2017「アイヌ口承文芸に見るシャマン儀礼の再検討」『口承文芸研究』第40号、日本口承文芸学会。

北原次郎太(編)
2013『和田文治郎 樺太アイヌ説話集』1、北海道大学アイヌ先住民研究センター。
北原次郎太(編)
2014『和田文治郎 樺太アイヌ説話集』2、北海道大学アイヌ先住民研究センター。

北原次郎太(ciwrantay)
2015「hemata kusu ene kacotaata=anihi」深澤美香・吉川佳見(編)『parunpe』第10号、パルンペ同好会。

切替英雄・高橋靖以
2017『アイヌ民俗文化財・ユーカラシリーズ56
   金成マツ筆録アイヌ叙事詩「ユーカラ 太鼓を持つ女」』北海道教育委員会。

金田一京助・杉山寿栄男
1996『アイヌ工芸』北海道出版企画センター。

篠原智花・丹菊逸治
2009「サハリンの口琴再考」『itahcara』第6号、itahcara編集事務局。

甲地理恵
2011 「アイヌ音楽の録音・録画のあゆみ 第1回 音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(1)」『アイヌ民族文化研究センターweb連載 フィールドから・デスクから』http://ainu-center.pref.hokkaido.jp/11_02_001.htm
2011 「アイヌ音楽の録音・録画のあゆみ 第2回 音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(2)」『アイヌ民族文化研究センターweb連載 フィールドから・デスクから』http://ainu-center.pref.hokkaido.jp/11_02_002.htm

平良智子・田村雅史ほか編2007『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承 歌謡・散文編』四宅ヤエの伝承刊行会。

直川礼緒
1994「口琴の美8 ハバロフスク地方ウリチ地区、ロシア」『口琴ジャーナル』No.8 日本口琴協会。
2016「日本の博物館収蔵の樺太(サハリン)アイヌの金属口琴」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第1号、北海度立北海道博物館。

谷本一之
2000『アイヌ絵を聴く 変容の民族音楽誌』北海道大学図書刊行会。

千葉伸彦
2011『久保寺逸彦の収録したトンコリ楽曲の基礎資料(五線譜を含む)』(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構平成22年度研究助成事業成果品)。

知里真志保
1973(1948)「アイヌの歌謡(第一集)」『知里真志保著作集』2、平凡社。
1973(1952)「呪師とカワウソ」『知里真志保著作集』2、平凡社。

戸塚美波子
2003『金の風に乗って』札幌テレビ放送株式会社。

林誠
2007「北海道立図書館マイクロフィルム「金田一京助採録ユーアラ・ノート」の細目次」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第13号、北海道立アイヌ民族文化研究センター。

藤村久和・平川善祥・山田悟郎(編)『北海道開拓記念館調査報告第5号 民族調査報告書 資料編Ⅱ』北海道開拓記念館。

増田又喜
2010 『アイヌのふるさとに歌を求めて』文芸社。

桝谷隆男
1997「楽器学から見た狩猟用具-鹿笛概説(その2)」『アイヌ文化』21号、(財)アイヌ無形文化伝承保存会。
1997「樹皮トランペット型鹿笛の一考察:動物の擬声を作りだす囮笛と音楽の起源」『北海道立北方民族博物館研究紀要』6号、北海道立北方民族博物館。

松浦武四郎
1969『近世蝦夷人物誌』(谷川健一(編)『日本庶民生活史料集成第4巻 探検・紀行・地誌(北辺篇)』所収)株式会社三一書房。

間宮林蔵述・村上貞助編・洞富雄・谷澤尚一編注
1988「北夷分界余話」『東韃地方紀行他』平凡社。

R.ヒッチコック著 北構保男訳
1985『アイヌ人とその文化』六興出版。

 

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2

第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4

第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5

第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名 2016.6

第15回 アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物 2016.7

第16回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-1 2016.12

第17回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-2 2017.1

第18回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-3 2017.2

第19回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-4 2017.3

第20回 アイヌの衣服文化⑶「アイヌ文様は魔除け?」を検証してみた 2017.4

第21回 樺太アイヌの防寒帽 2017.5

第22回 北方の楽器たち(補遺1) 鉄製口琴で戦う乙女-ほか 2017.6

 

 

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)13》昔はどうだった? 矢筒の背負いかた構えかた

 

文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

はじめに


 アイヌ民族の口承文芸の中で、主人公の少年英雄が生まれ育った館から出かける場面に、次のような常套的表現があります。

【原表記】    
tar-ush ikayop tar us ikayop 背負い縄のついた矢筒を
a-ra-(w)ekatta a=rawekatta 引き下ろし
a-e-shi-setur ka a=esiseturka 背中の上に
e-terkere, -eterkere, 投げかけ
karimpa ush ku karinpa us ku 桜皮の巻かれた弓の
ku-num noshike kunumnoskike 弓柄の真ん中を
a-teksaikare a=teksaykare さっと掴み
i-resu sapo i=resu sapo 育ての姉の
soine hike soyne hike 出て行った
setur kashike setur kasike 背中を
a-yai-rarire. a=yayrarire 追いかけていった
 (久保寺1977「聖伝5 アエオイナ神の自叙」より 一部改訳)


 主人公が荒々しく矢筒を取り、背負い縄をかけ、背中に回す姿が目に浮かぶような活き活きとした描写です。…と言いたいところですが、この場面で主人公はどのように矢筒を背負っていたのでしょうか。背負い縄はどのようなもので、頭に掛けたのでしょうか、肩に掛けたのでしょうか。矢筒は背中で縦になっていたのでしょうか、それとも横を向いていたのでしょうか…。何となく分かっているようでも、突き詰めて考えてみると、実はあやふやな知識しかないという場合は少なくありません。

 アイヌ民族の弓矢猟は、明治期の毒矢使用の禁止、その後の鉄砲への移行によって、今では直接体験した世代の方々から話を伺うことは叶いません(註1)。今回は、残された記述や写真をもとに、弓矢猟に用いられた矢筒の取扱が、実際にはどのようなものだったのかを考えてみたいと思います。

 

1. 北海道アイヌの矢筒


(1) 矢筒の種類

 戦前から活躍したアイヌ文化研究者、名取武光氏は、現在の北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園所蔵資料についての網羅的な解説を残しており、矢筒の形をしたものとして狩猟用と儀礼用、さらに儀礼用矢筒を模した「雛形」の三種があることをのべたうえで、狩猟用の矢筒について以下のように記述しています。

「矢筒は①木製の筒を桜の皮で巻き、樺皮、毛皮などを包み蓋とし、熊を斃した鏃は記念として之に結び着け、又削花(イナウキケ)や酒箸(イクパシュイ)等の伴っているものもある。②稀には桜皮を巻いて筒形とした原始的なのもある。提げ緒で肩から左前に掛け、出猟、出征等の場合は手持矢(チアニアイ)なら12本位入れるのが普通である」

(名取1972.番号下線筆者加筆)

 この文章には、狩猟用の矢筒には木製のものと樹皮製のものの二種類があることのほか、使用方法に関する今では得がたい情報が含まれています。中でも、携帯する際に「提げ緒で肩から左前に掛け」るとしている点は、背中にまわすとする冒頭の物語の描写とは異なっていることも、注目しておきたい点です。

 平取町二風谷に住んだ萱野茂氏は、アイヌ文化研究に留まらない多大な業績で知られていますが、民具研究についても、研究史上の金字塔と言うべき著作『アイヌの民具』(萱野1978)を残しています。この中で萱野氏は、狩猟用の矢筒として木製のikayop、および樹皮製のyarikayopを図/写真入りで詳しく紹介しています。

 

(2) 木製の矢筒


▲写真1 木製の矢筒(表面)(北海道博物館所蔵 資料番号130613)


▲写真2 木製の矢筒(裏面)(北海道博物館所蔵 資料番号130613)

 木製の矢筒は、二枚の木製の板を貼り合わせて本体を作った上に、サクラ樹皮を巻き付け、中心部に羽根状の部品を二つ固定したものです。また破損した部位から、サクラ樹皮の下に巻かれたシラカバ樹皮が見える事例もあります。サクラ樹皮は二枚の板を強く引き締めるとともに、密に巻かれた部分では防水の役目を担い、シラカバ樹皮も水分を通しにくいため、同じく防水の役割を果たしているものと考えられます。

▲写真3 サクラ樹皮の下に巻かれたシラカバ樹皮(北海道博物館所蔵 資料番号33178)

 蓋は、シラカバ樹皮を折り曲げたものをサクラ樹皮で固定したものや、クマの毛皮を縫って作られたものがあり、本体に隙間なくはまり、簡単には落ちないように作られています。
矢筒の表面には、しばしばイナウや、イクパスイ(捧酒篦)に似た部品が固定されていたり、イクパスイそのものが挟み込まれている例もあります。

▲写真4 矢筒の表面に取り付けられたイナウなど(北海道博物館所蔵 資料番号22246)

 なお、戦後に作られた木製の矢筒はやや大ぶりで、表面に彫刻が施されたものが多く見られますが、表面に厚く煤が付着した相対的に古いと見られる資料はコンパクトで非常に軽く作られており、彫刻が施されたものも多くないようです。弓矢を用いた狩猟が盛んに行われていた時期には、防水などの機能面が重視されたのに対し、弓矢が実際の狩猟に使用されなくなった後、華麗な彫刻を施したものへと変化していったのではないかと推測できます。


(3) 樹皮製の矢筒

▲写真5 樹皮製の矢筒(表面)(北海道博物館所蔵 資料番号17083)

 樹皮製の矢筒はサクラやシラカバの樹皮を筒状にしたものに、底部に板を填めこんだもので、羽根状の部品を二つ付けたものが多く見られますが、写真のように、羽根状の部品が一つしかつかないものもあります。蓋は木製のものにつくものと同様です。


(4) 背負い縄の形態

 こうした資料の中には、「背負い縄」にあたる部分が付属したものがあります(写真1・5)。この背負い縄は、冒頭に紹介した物語の中でtarと呼ばれていることが分かりますが、その形態はいずれも、一般的な背負い縄tarと呼ばれているものに比べて大変細く、短いものです。

▲写真6 一般的な背負い縄tarの使用例(アイヌ民族博物館提供)

 一般的な背負い縄は、薪や水桶など、数十kgに及ぶ重い荷物を背負うためにも用いられるのに対し、矢筒は非常に薄く、軽く作られています。tarと一言でいっても、対象の重さに合わせた形態の違いがあることが分かります。

 

2. 記録に見る矢筒の扱い


(1) 保管場所

▲写真7 家屋内に保管された狩猟用矢筒(写真提供 函館市中央図書館)

 ここにあげた写真は、1909年に初版が発行された絵葉書で、現在の八雲町落部で撮影されたものです。撮影にあたって演出が加わっている可能性はありますが、当時の屋内の様子を鮮明に写した写真は思いのほか少なく、読み取ることができる情報は貴重なものです。

 写真を詳しく見ると、神窓の右側にはマンボウのような形をした板が吊り下げられているのが見えます。これは、余市町で漁労に関連する祈りに用いられていた「カムイギリ」(難波・青木2000)と呼ばれる資料に類似しており、同様の祭祀が噴火湾沿岸にも存在したことを示唆します。対して、神窓の左側には、弓とともに、イナウが取り付けられた矢筒が吊り下げられています。

 実は、八雲町落部から海岸に沿って北約45kmに位置する長万部町旭浜では、家屋東側の神窓に向かって右手が海での漁労、左手が山猟に関連するゾーンになっていたことが記録されています(名取1940)。写真7は、落部でも長万部と同様の屋内配置が見られた可能性を示唆し、それが正しいとすれば、矢筒は山猟に関連するゾーンに置かれていたことになります。


(2) 使用方法

▲写真8 背中に回された狩猟用矢筒(画像提供 函館市中央図書館)

 次に、写真7と同時期に撮影された2枚の絵葉書から、矢筒の使用方法を見てみましょう。なお、絵葉書を発行したグループが残した新聞連載の内容からは、撮影が行われた当時、すでに主な狩猟具は鉄砲になっていたことが分かりますから(北海道立アイヌ民族文化研究センター編2005)、あえて当時すでに使用されていなかった装備を身につけている可能性を考慮しておく必要があります。とはいえ、演出が加わっているとしても、実際に弓矢猟を行った経験がある世代が多くいた状況の中での再現には、今では得がたい情報が含まれている可能性が高いでしょう。
写真8は、冬眠しているクマを狩る様子を撮影したもので、クマの冬眠穴の入口を塞ぐ3本の杭は、ロープで上方の木に固定されており、そのロープには弓が立て掛けられています。そして、右側の人物の背中に、横向きに乗った矢筒が見えます。この写真からは、山中で行動する際に、矢筒を背中の上に横向きにする場面があったことが読み取れます。

▲写真9 狩猟用矢筒を左前に構えた例(1)(画像提供 函館市中央図書館)

 写真9もクマを狩る様子を撮影したもので、絵葉書に添えられた説明によれば、まず左の人物が鉄砲をクマに向けて発射し、それでもクマが倒れなかった場合、次弾を装填する間に右の人物が矢を射かけ、なおクマが襲いかかってきた場合には鉄砲を構えた人物が持っている毛皮を目くらましとしてクマに投げつけ、クマが毛皮に襲いかかっている間に山刀で立ち向かうとされています。

 この絵葉書で注目するべきは、弓矢を構えた人物の左側の腰の位置に矢筒が見えることです。この写真から、弓を左手に持ったまま、左の腰にある矢筒から右手で矢を取り出し構える動作が復元できます。先に紹介した名取による「提げ緒で肩から左前に掛け」という記述は、このような姿をもとにしたものだったのでしょう。

▲写真10 狩猟用矢筒を左前に構えた例(2)(画像提供 函館市中央図書館)

 最後の写真は、さらに年代が降り、1930年代に長万部町で撮影されたものです。この写真は、失われつつあった生活文化を伝える目的で計画された施設「エカシケンル」の建設に伴って撮影されたもので、当時、このような服装・装備での狩猟が行われていた訳ではありませんが、毒矢猟が禁止されてから半世紀以上の時間が経ってなお、左側の腰に矢筒を構えるということが記憶されていたことが分かります。

 

3.さいごに


 今回は、矢筒に焦点を絞って、現在では行われなくなった弓矢による狩猟の一場面を復元することを試みました。結果として、北海道南部のアイヌ民族は、矢筒を横向きに背負って行動し、矢を射る場面では左の腰に回して構えていたことが確認できました。博物館に所蔵されたたくさんの民具についてより詳細な説明を可能にするため、今後も、断片的な記述や古写真の地道な分析を進めていきたいと考えています。

註1 弓矢猟の禁止やその後の鉄砲の受容について詳しく知りたい方は、山田伸一氏による著作(山田2011)などを参照して下さい。

 

参考文献

萱野 茂1978『アイヌの民具』すずさわ書店
久保寺逸彦1977『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』岩波書店
古原敏弘・小川正人2009「長万部町教育委員会所蔵のアイヌ資料」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』15
北海道立アイヌ民族文化研究センター編2005『ピリカ会関係資料の調査研究』
名取武光1940「北海道噴火湾アイヌの捕鯨」『北方文化研究報告』3
名取武光1972「アイヌ土俗品解説」『名取武光著作集Ⅰ アイヌと考古学(一)』(再録)
難波琢雄・青木延広2000「沖の神(シャチ)とカムイギリ」『北海道の文化』72
山田伸一2011『近代北海道とアイヌ民族-狩猟規制と土地問題』北海道大学出版会

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2

《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する⑶ 2016.3

《エカシレスプリ(古の風習)4》木綿衣の文様をたどる 2016.4

《エカシレスプリ(古の風習)5》小樽祝津のイオマンテ 2016.5

《エカシレスプリ(古の風習)6》噴火湾アイヌの信仰-イコリの神 2016.7

《エカシレスプリ(古の風習)7》刀帯作りあれこれ(1) 2016.10

《エカシレスプリ(古の風習)8》刀帯作りあれこれ(2) 2016.11

《エカシレスプリ(古の風習)9》刀帯作りあれこれ(3) 2017.1

《エカシレスプリ(古の風習)10》刀帯作りあれこれ(4) 2017.3

《エカシレスプリ(古の風習)11》刀帯作りあれこれ(5) 2017.5

《エカシレスプリ(古の風習)12》刀帯作りあれこれ(6) 2017.6

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓26》オロフレ岳と敷生川のミヤマハンノキ

 

 文・写真:安田千夏

 

 2017年8月7日、伝承者育成事業「アイヌと自然講座」で壮瞥町のオロフレ岳に登りました。頂上の標高は1230.7mですが、930mの展望台駐車場まで車で行ってそこから登り始めます。登山未経験者でも亜高山性植物を観察するのに最適な山であり、アイヌ民族博物館から片道1時間ほどで行くことができるという点でもご近所感があります。今回は展望台駐車場からの標高差100m前後、足がすくむような難所がなく20分ほどで行くことのできる羅漢岩を目的地とすることにしました。

▲写真1 オロフレ岳展望台駐車場より羅漢岩を望む(注1

 

▲googlemapより

 

 さて大胆にショートカットをしているとはいえそこは山道。平地を歩くのとでは体への負担が違います。特に私のような中高年は油断大敵と思い、1ヶ月間休日に2㎞ジョギングをして基礎体力をつけてから行きました。そうまでして行きたかった理由は何かというと、同じ属の植物が平地と高山ではどのように違うのか、そしてそれをアイヌの先祖達はどのように認識し名づけていたのか。それを自分達の目で見て触れて確かめてみる。それが海でも山でも一貫して変わらない本講座のテーマだからなのです。

 さてこの講座が始まって10年、歴代の受講生が繰り返し興味を持って調べてきた樹種があります。それはハンノキの仲間。種にもよりますが赤い樹液を染料にする、薬として飲む、木幣を作るなど、とても有用性が高い木です。低地(湿地)から高山帯にかけて外来種、交雑種も含めていろいろな種がありますが、基本3種にアイヌ語名の区別があります。そこで私はこの講座の冒頭にこのハンノキ類の話をして、樹木に対する興味のとっかかりとして来ました。受講生の中にはそのままハマって3年間をかけてハンノキ類のスペシャリスト(?)となって卒業して行った人もいますし、3種のハンノキの樹液をそれぞれ抽出して色や味の違いを分析した人もいました。さてそのハンノキ類のアイヌ語名とおもな分布域の図鑑情報を標高の低い順に表にしたものが以下の通りです。

 

日本語名

アイヌ語名

分布

(ヤチ)ハンノキ

ニタッケネ、サラケネ
(湿地のハンノキ、ヨシ原のハンノキ)

平地(湿地)

ケヤマハンノキ

ケネ
(ハンノキ)

平地〜山地

ミヤマハンノキ

カムイケネ、ホロケウケネ など
(神のハンノキ、オオカミのハンノキ)

山地〜高山


 葉で比較すると3種の違いが良くわかります(注2)。

▲写真2 ヤチハンノキ

▲写真3 ケヤマハンノキ

 
▲写真4 ミヤマハンノキ  

 

 まず受講生を悩ませるのが、日本語名の基本種「いわゆるハンノキ」が1.ヤチハンノキであるのに対し、アイヌ語名の「いわゆるハンノキ」が2.ケヤマハンノキであるという点です。ひと通り説明した後、現場で見かけたハンノキ類を指して「はい、このハンノキの日本語名は?」「ではアイヌ語名は?」と質問すると、最初はかなり混乱して正確に答えられるようになるには時間がかかりますが、各自が視覚、触覚、ときには嗅覚を使って見分けのポイントを自分で見つけ、日本語とアイヌ語の名前を一致させる良い練習になります。

 さて本日の目当ては3.ミヤマハンノキです。オロフレ岳の遊歩道はさすがに亜高山植物の宝庫、ミヤマハンノキだらけ。湿地をフィールドにするヤチハンノキだらけの世界から来た我々には新鮮な光景でした。

 ところで私はミヤマハンノキについて疑問に思っていたことがありました。知里1953には樺太(白浦)、手塩、北見、斜里で「沖の神に捧げる木幣を作った」(注3)と書かれているのです。沖の神に捧げる木幣をわざわざ高い山まで採りに行くのかなと。しかしあるとき白老を流れる敷生川下流部でミヤマハンノキを見つけてしまったのでした。折しも夏なのにうすら寒い、山の上にかかるような霧の中。それから意識して探してみると、数は多くありませんが平地、山地でミヤマハンノキを見かけるようになりました。寒冷な気候ではミヤマハンノキは平地でも生きられるのであり、「高山、亜高山に分布する」という図鑑情報を鵜呑みにしたことによるとんだ思い違いをしていたことを知りました。フィールドで知り得た事実から類推すると、沖の神の木幣を作る木は高い山に登って採って来るのではなく、身近にある木で作っていたのかも知れない、ということになります。

 そうした分布の特徴を裏づけるような文献の記述もありました。

平野ニアルモノハ高サ三四丈ニ達スル喬木ヲナシ、高山ニアルモノハ高サ二三尺ヲ超ヘズ。(中略)島内各所ノ山野ニ産シ海邉ヨリ上層濶葉樹林帯及ビはひまつ帯ニ至ル間ニ生ズ(宮部・三宅1915)(注4

平野及蹊谷等にあるものは喬木(中略)高山にあるものは灌木(菅原1939)

 

 これらは樺太のデータで、かの地では平野部でも普通に見られるということになります。白老では平地でミヤマハンノキを見ることはまれですが、より寒冷な道北や道東では数が増えるだろうと予測されます。そう考えると知里1953に書かれている「ミヤマハンノキを木幣にする」地域情報がリアルに納得できるような気がして来ました。

 また当館資料では、とある伝承者がミヤマハンノキについて次のように語っています。

ひらまえ(=山の中腹)でホロケウケネの皮を剥ぎました。葉っぱが大きいものでした。その木の皮で染めると、きれいな赤い色がつきます。(伝承者非公開資料)

 

 この研修で3種のハンノキの樹皮からそれぞれ色を抽出した受講生がいると先ほど紹介しましたが、その結果は確かにミヤマハンノキがもっとも「赤」に近い色で、ケヤマハンノキとヤチハンノキはどちらかというと茶色に近いという印象を受け、この伝承者の「(ミヤマハンノキは)きれいな赤い色がつく」という意見と一致したのでした。

 フィールドで実践的に得られた知識は何ものにも勝る説得力がある、そのことを痛感した一連の経験となりました。

 かくして中高年ガイドによる初心者のためのオロフレ岳ツアーは目的を達成して無事終了したのですが、翌日は周到な準備虚しく体が重くて容易に起き上がれなかった私に、来年また同様に登山をするという日は訪れるのでしょうか(続く?)。

写真5 羅漢岩付近からの景色

写真6 羅漢岩から頂上を望む

 

(注1)当日は曇っていて視界が悪かったので、本稿では過去に研修で登った時の写真を紹介します(以下同)。向かって右が太平洋側、左が内陸側。この時は海側がガスっていました。

(注2)3種のハンノキの詳細については月刊シロロ2016年12月号の中井貴規氏「ハンノキについて学んだ者が物語る」をご参照ください。

(注3)久保寺1971や更科1976aにも同様の記述がありますが、どちらも知里1953のデータに基づくものです。また久保寺1971にはこれ以外にも、沙流地方では「便所の神、木原に棲む女魔、ザリガニ、高脚グモの神など」に捧げる木幣を作るという特殊感のあるデータが書かれています。こうした点は地域によって違いがありますので要注意(儀式に関して筆者は決して詳しいわけではないのですが)。

(注4)「喬木」は高木、「灌木」は低木のことです。高い山の上に行くと木は軒並み背が低くなり、オロフレ岳でも標高1000m前後ではミヤマハンノキはどれも人の背丈より小さなものでした。ちなみに「濶葉樹林帯」は広葉樹林帯のことです。

 

<参考文献・データ>

宮部金吾・神保小虎「北海道アイヌ語植物名詳表」『東京地學協會報告第14年第1號』(1892

宮部金吾・三宅勉『樺太植物誌』樺太廳(1915

ジョン・バチェラー『アイヌ・英・和辞典』岩波書店(1938

菅原繁蔵『樺太植物誌Ⅱ』巌松堂書店(1939)国書刊行会(1975

知里真志保『分類アイヌ語辞典 植物編』日本常民文化研究所(1953

久保寺逸彦「沙流アイヌのイナウに就いて」『金田一京助博士米寿記念論集』三省堂(1971

更科源蔵・更科光『コタン生物記Ⅰ 樹木・雑草編』法政大学出版局(1976a

更科源蔵・更科光『コタン生物記Ⅱ 野獣・海獣・魚族編』法政大学出版局(1976b

アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015

 

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7

《図鑑の小窓》16「カタムサラ」はどこに 2016.8

《図鑑の小窓》17 イケマ(ペヌプ)のおまもり  2016.9

《図鑑の小窓》18 クリの道をたどる 2016.10

《図鑑の小窓》19 くまのきもち 2016.11

《図鑑の小窓》20 エンド(ナギナタコウジュ)のつっぺ 2016.12

《図鑑の小窓》21 わけありのラウラウ(テンナンショウの仲間) 2017.1

《図鑑の小窓》22 春待つ日々のサクラ4種 2017.2

《図鑑の小窓》23 タクッペ(やちぼうず)の散歩 2017.3

《図鑑の小窓》24 カッコク カムイ ハウェ コラチ(カッコウ神の声のように) 2017.6

《図鑑の小窓》25 トゥレプ(オオウバユリ)とトゥレプタチリ(ヤマシギ) 2017.7

 

 

 

 

 

《映像資料整理ノート》忘れられた野菜「アタネ」について


 文:木幡弘文

 

はじめに


 私は映像資料を整理するなかで「アタネ」という栽培植物があることを知りました。調べてみると、アイヌにとってはヒエやアワなどと同様に身近な作物だったようですが、我々の世代ではその名を聞くこともなくなっています。以下に紹介する映像資料は、調査のために市販の種を黒川セツさんに栽培していただき、昔の記憶を元に収穫から調理に至るまでを再現し、映像に収録したものです。

▲写真1「アタネ」(2001年10月16日黒川セツ宅 DV0243より)

 

▲写真2「アタネ全体」(2001年10月16日黒川セツ宅 DV0243より)

▲写真3「アタネ花」 ※購入した種をアイヌ民族博物館野草園で栽培、開花させたもの


 

1.「アタネ」とは?


「アタネ」は少し大型のカブといったおもむきの根菜類です。アタネというアイヌ語は日本語「ナタネ」が移入されたとも言われていますが、近代に入って移入されたスウェーデンカブ(ルタバガ)も含め、カブの総称としてアタネと呼ばれていたようです。

 

2.「アタネ」の特徴


 アタネはカブと同様に寒さに強く暑さに弱い特徴があり、春と秋どちらかの季節に収穫ができるように植えられていたようです。また植える際はヒエやアワを織り交ぜながら植えていたということで、近似種との交雑を避けるという意味もあったようです。

 葉っぱの特徴:カブの葉に似ていますが少し大きく、大きいもので葉の大きさが20cmを超えます。
 花の特徴:1〜2cmほどの4枚の花弁の黄色い花が咲きます。
 根の特徴:個体差がありますが、黄色から白色でとても繊維質です。また皮を剥く際には包丁などで切って剥くのですが、硬さはダイコン以上カボチャ並だと言われています。
 特記すべき特徴:茎の部分を本稿では「首」と呼ぶことにしますが、そこに大きな特徴がでます。首は赤紫色で、市販のカブではこのような首に当たる部位が見られません。またアイヌ語でこの首の部分をアタネレクチ(知里1953)と呼びます。

 

3.「アタネ」の利用方法

 

3-1.食用としての「アタネ」

 アタネは根、茎、葉、余すことなく食べることが出来ます。根はアイヌの伝統料理ラタシケプ、葉はオハウなどの汁物の具材とされました。またアタネの特徴である首の部分は煮込んでから皮を剥いて食べたそうです。しかし、このアタネは先述の通り独特の臭気があることと独特の甘みがあり、人によって好き嫌いが分かれるものであったようです。

 2001年〜2002年にかけて村木美幸氏、本田優子氏が行った調査の映像資料(DV0243〜0246)にアタネの収穫と調理を行ったものがありますのでそのダイジェスト(10:32)をご覧ください。 

▲映像1「アタネ 収穫と保存と調理」

映像資料:DV0243  DV0244  DV0245  DV0246
撮影年:2001年10月16日(DV0243) 2002年4月10日(DV0244〜0246)
語り手:黒川セツ(平取町) 木村イト(平取町)
聞き手:本田優子、村木美幸
採録地:黒川セツ宅

 10月に収穫を行い、およそ深さ1m直径1.5mほどの穴を設けて、穴底の土が見えなくなる程度にモミガラを敷き、そこに収穫したアタネの根を入れて、上からまたモミガラを敷いて土を被せて翌春4月まで保存を行いました。また首から上の茎と葉も陰干しを行い、同じく翌春の4月まで保存しました。

 4月に保存した根と茎と葉をそれぞれ調理し、根は長時間煮て柔らかくなったところで食し、葉は汁物の具材にしました。またこの際に切り分けられた首部分は調理最中に皮を剥いて食べていました。

 味の感想としては、柔らかくなるまで煮た根は「苦味と甘味がある」、汁物に入れた茎と葉は「クセが無い味でダイコンの葉とは違った味で美味しい」、首の部分は「今回は煮炊きが足りないくて辛い」ということでした。

▲写真4 アタネの葉のオハウ(汁物)

▲写真5 アタネの煮物

 

 文献(知里1953)などでもアタネを煮る時間は半日と書かれており、この映像資料では1時間未満の煮炊きで食べたことが首の味に辛味がでたのではないでしょうか。また根の方も1時間以上は煮てはいるのですが、本来は半日煮ることが必要であるというところから、甘味だけでなく苦味も出ていたと思われます。かつての暮らしでは囲炉裏やストーブの上でじっくりコトコトと煮たということなのではないでしょうか。

 

3-2.魔除けとしての「アタネ」

 アタネは煮炊きをした際に独特な臭気をもっており、その臭気にアイヌ文化では魔除けの力があるとして、アタネの皮を囲炉裏で乾かしながら燃やしたり、流行病がある時は兎やキキンニ(ナナカマド)と合わせて煮炊きしたと知里1954で述べられています。また子守唄(知里1973)や祈り詞(知里1954)の一節でもアタネが登場することがあります。残念なことにそのにおいを筆者は知りません。しかし先程の調理の際に煮た首のにおいについては「ダイコンの漬物タクアンのようなにおいがする」と語られていました。

 

3-3.薬用としての「アタネ」

 3つ目の利用方法として薬用があります。知里1953によると、葉っぱを火で炙り、はれものにあてて吸い出します。また、はれものの熱を取る方法として干して保存したアタネの葉を冬季間の際に一度お湯にもどして柔らかくし、患部に貼ると良いとされています。



▲写真6 蝦夷生計図説「ラタ子乃圖」

 

おわりに


 以上、当館でかつて行われたアタネの調査資料紹介を中心に報告しました。かつてはポピュラーな作物であったことは文献等でも明らかになりましたが、現在では入手が困難になっています。

 先祖が確実に食べていたであろう野菜の味やにおいを想像し、いろいろと考えてみたことはとても良い経験になりました。今後も引き続き調査をしていきたいと思っています。

 本稿をまとめるにあたり、木村イト氏のご遺族、札幌大学教授の本田優子氏に調査資料の使用をご快諾いただきました。記して感謝いたします。

〈参考文献〉
村上貞助 1809(序)『蝦夷生計図説』(1990 北海道出版企画センター)
知里真志保 1953 『分類アイヌ語辭典 植物篇』 財団法人日本常民文化研究所
知里真志保 1954 『分類アイヌ語辞典 人間篇』 財団法人日本常民文化研究所
林善茂 1960 「アイヌの播種技術と栽培作物」『北方文化研究報告 第十五輯』 北海道大学
林善茂 1969 『アイヌの農耕文化 考古民俗叢書』 慶友社
林善茂 1971 「アタネ(アイヌ蕪)の栽培と利用」『民族学研究 36巻3号』 日本民族学会
知里真志保 1973 『知里真志保著作集 第2巻』 株式会社平凡社
林善茂 1976 「アタネ(アイヌ蕪)考」『北方文化研究 第10号』 北海道大学
田畑アキ(口述)蓮池悦子(構成) 1984 「1白老地方の生活について」『アイヌ生活誌 AINU LIFE AND CUSTOM』 財団法人アイヌ無形文化伝承保存会 
稲田浩二 小澤俊夫 1989 『日本昔話通観 第1巻 北海道(アイヌ民族)』 株式会社図書印刷同朋舎
萱野茂 1996『萱野茂のアイヌ語辞典』株式会社三省堂
田村すず子 1996『アイヌ語沙流方言辞典』株式会社草風館

 

[バックナンバー]

サパンペ(儀礼用冠)の製作について(木幡弘文) 2017.2

《映像資料整理ノート1》川上まつ子さんのサラニプ(背負い袋)づくり 2017.6

《映像資料整理ノート2》サラニプ(背負い袋)についての新資料報告 2017.7

 

 

 

《アイヌの有用植物を食べる3》ヒメザゼンソウ

 

 文:新谷裕也

 

はじめに

 

 「アイヌの有用植物を食べる」シリーズも3回目となりました。前回前々回はオオウバユリについて紹介しました。今回はアイヌの有用植物の中でも注意して食べなくてはいけない植物、ヒメザゼンソウについて紹介します。

 

1.ヒメザゼンソウとは

 

【写真1】 ヒメザゼンソウ

 サトイモ科ザゼンソウ属の多年草。早春に葉を出します。葉は長い卵型の葉で、葉が出た後の初夏にアズキ色の仏炎苞(注1)に包まれた花が咲きます(写真2)。アイヌ語では「シケレペキナ」といいます。由来としては、この葉がシケレペ(キハダの実)のようにいがらっぽい味がするからと言われています。アイヌが食用とするのは葉の部分で、春に採取します。ザゼンソウに似ていますが、ヒメザゼンソウの方が葉は小さく(写真3)、開花時期も異なります。

▲写真2:ヒメザゼンソウの仏炎苞

▲写真3:左がザゼンソウ、右がヒメザゼンソウ

 

 食用以外ではアイヌは儀式の供物のひとつとしてヒメザゼンソウを供えました。静内地方ではこれを「神の山菜(カムイラタシケプ)」と呼んでいて、人間が儀式をするために天から降ろされた野草だと言われています。特に伝染病の神が近づくと、ハルエカムイノミという儀式を行ってヒメザゼンソウなどを供え、「どうかよその村へ行って下さい」と祈りました。

 また、ヒグマが好んで食べると言われていて、村で飼育している熊に食べさせていたと言います。

 ヒメザゼンソウは実は毒草です。シュウ酸カルシウムが含まれていますが、これはサトイモやホウレンソウなどにも微量含まれている成分で、とろろを食べて舌が痺れたり、口の周りがかゆくなるのもこれが原因です。顕微鏡でシュウ酸カルシウムを見てみると、針の様な形をしています。ヒメザゼンソウには特に多く含まれ、生のまま食べると口の中や喉がとげで刺されたように痛くなり、しばらく治りません。一度に大量に摂取してしまうと消化器障害、呼吸困難を引き起こし、最悪の場合は昏睡状態になったり、死亡することもあるという危険な成分ですが、よほど大量に摂取しない限りそのようなことにはなりませんので安心してください。

 

2. ヒメザゼンソウの調理方法


 アイヌもこの野草をそのままでは食べていたわけではありません。調理方法も「焼く」「煮る」「炒める」「茹でる」といった普通の方法だけではダメです。

 ここでは、ヒメザゼンソウを用いた伝統的な料理「シケレペキナラタシケプ(ヒメザゼンソウの混ぜ煮)」の作り方を紹介します。

①茹でる(写真4▶)

まず採取してきたヒメザゼンソウを大きな鍋で30秒ほど茹でます。

茹ですぎると溶けてしまうので注意します。

茹でているとサイダーの様な甘い香りがしてきますが、まだ食べてはいけません。

②干す(写真5▶)

茹でたヒメザゼンソウを干して乾かします。

天気が良い日に外で天日干しすればすぐに乾きます。

この状態の乾いたヒメザゼンソウを病魔除けの儀式の供物として使います。

③煮る(写真6▶)

乾燥したヒメザゼンソウを水で戻してから長時間ゆっくり煮ます。

茹で汁が甘いので、この茹で汁を十分に吸わせて汁がなくなるくらいまで煮ます。

煮る時間が短いと、口の中が痺れるので注意します。

④味つけ(写真7▶)

1センチほどに切ってから塩、タラの油で和えて味をつけたらシケレペキナラタシケプの完成です。

⑤完成(写真8▶)


 ヒメザゼンソウは刺激さえなければ甘くておいしい山菜です。採取してから数日経たないと食べられないので、とても手間がかかる料理ですが、これはイオマンテ(熊の霊送りの儀式)の際に食べられたとても重要で貴重な料理だったそうです。

 昔のフチが「こんなに甘くておいしい物はない」と言っていた料理で、この話を聞いた筆者もぜひ食べてみたいと思いました。

 

3.ヒメザゼンソウの実食


 去年の春に伝承者育成事業の研修で、ヒメザゼンソウを採取する機会があり、白老で1回、静内で1回採取しました。

 最初は白老で採取したヒメザゼンソウを食べてみました。この時は調理という調理はせずに、1分ほど茹でてから、タラ(鱈)の油をつけて食べてみました。味は、甘い良い香りで、ホウレンソウにすごく似ていました。刺激は軽く舌が痺れる程度だったので、想像していたよりも全然大丈夫でした。

 後日、静内で採取したヒメザゼンソウをシケレペキナラタシケプにして食べてみようということになり、まずは30秒ほど茹でました。茹で上がった物をひとかけらつまみ食いしてみると、白老で採取したヒメザゼンソウとは比べ物にならないくらいの激痛が口の中いっぱいに広がりました。小さい棘で口の中を刺されているような感覚です。ここで飲みこんだり、水を飲んだりすると喉にも刺激が走りますので、痺れが引くまで我慢しないといけません。ただ、唾液にはすでにシュウ酸カルシウムがついているのか、唾液を飲みこんだだけで喉がいがいがしてきます。 想像以上の刺激に1時間以上舌と喉の痛みが続きました。採取地によって味が変わると言われていましたが、こんなに違うとは思いませんでした。これで、茹でただけでは刺激はなくならないと感じました。

 茹でたものを干して、数日後にシケレペキナラタシケプを作りました。主に調理したのは山本りえさん(注2)で、朝早くからヒメザゼンソウを煮ていてくれました。 数時間煮てから1㎝ほどで切り、タラの油と塩で味つけをしました。

 味は、甘くて良い香りがするおひたしという感じでした。砂糖を加えていないのに甘みをちゃんと感じる事が出来るので、ヒメザゼンソウがおいしいと言われている理由がわかりました。
ただ、やはり刺激が完全になくなっている訳ではなく、味に若干の渋さと舌に痺れを感じました。

 おいしいかおいしくないかと言われれば微妙なところですが、これは現代の我々と昔の人とでは味覚が違うので、当時は甘くて本当においしい御馳走だったのではないかと思いました。

 

4.おわりに


 今回紹介したヒメザゼンソウは調理するまでにとても時間がかかり、扱いにくい野草でした。有毒植物ですが、地域によってはとても大切にされていて、アイヌやこれを食するヒグマにとってはかかせない植物であるということがわかりました。刺激さえなければ本当に甘くておいしい野草なので、それをなくす調理法がわかれば今後また挑戦してみたいです。

 ヒメザゼンソウを食べてみたいと思った方は、食べるとしばらく口の中に痛みとしびれが残りますので、それを覚悟の上じゅうぶん気をつけて食べてください。

 アイヌの有用植物の中には他にもコウライテンナンショウやイケマという人体に害があるにも関わらず食用とした植物があるので、今後も注意をしながら食べてみたいと思っています。

 

(注1)花を包む苞が大きくなり、一枚の花びらのようになったもの。仏像の光背になぞらえてこの名がある。

(注2)伝承者育成事業第3期生のメンバー。筆者とは同期生。

 

<参考文献・データ>

知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
更科源蔵、更科光『コタン生物記Ⅰ樹木・雑草篇』財団法人法政大学出版局(1976年)
『日本の食生活全集 聞き書アイヌの食事』社団法人農山漁村文化協会(1992年)
姉帯正樹他「アイヌ民族の伝承有用植物に関する調査研究(第12報) シケレペキナの形態学的、化学的および薬理学的研究」『アイヌ民族博物館研究報告第8号』アイヌ民族博物館(2004年)
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)

 

[バックナンバー]

《伝承者育成事業レポート》イパプケニ(鹿笛)について 2017.1

《アイヌの有用植物を食べる》1 オオウバユリ(前) 2017.6

《アイヌの有用植物を食べる》2 オオウバユリ(後) 2017.7

 

 

 

 

 

《第3期伝承者育成事業レポート》イヨマンテでの祈り詞(平取地方)その9

 

 文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師)

 

 

 ここに掲載するものは、名取武光氏が記録したイヨマンテの祈り詞です。名取氏の論文「沙流アイヌの熊送りに於ける神々の由来とヌサ」(『北方文化研究報告 第4輯』、1941年、北海道帝國大學)には、仔グマを連れ帰った場面からイヨマンテを終えるまでの一連の祈り詞54編と、その意訳が収録されています。名取氏の同論文は、1941年に最初に発表され(戦前版)、その後1974年に著作集『アイヌと考古学(二)』に収められました(戦後版)。著作集収録の際、浅井亨氏がアイヌ語の校正をしており、一部解釈や表記が変わりました。

 第3期「担い手」育成研修では、2016年1月頃からアイヌ語研修の一環として、これらの祈り詞の逐語訳に取り組みました。和訳にあたっては、新旧のアイヌ語原文を比較しましたが、ここでは戦前版での表記とアイヌ民族博物館で用いられている表記法(辞書で引けるような表記)で書いたものを並べ、戦後版については必要に応じて引用しています。なお、原典では改行せずに書き流していますが、ここでは、一般的な韻文の形式で、一行と考えられる長さごとに改行しています。それぞれの最後に、名取武光氏による意訳をのせています。

 今回は、そのうち23、24、25を掲載します。 (→その1 →その2 →その3 →その4 →その5 →その6 →その7 →その8 )

 参照した辞書の略号は次の通りです。

【太】:川村兼一監修、太田満編、『旭川アイヌ語辞典』、2005、アイヌ語研究所
【萱】:萱野茂、『萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版]』、2002、三省堂
【久】:北海道教育庁生涯学習部文化課編、『平成3年度 久保寺逸彦 アイヌ語収録ノート調査報告書(久保寺逸彦編 アイヌ語・日本語辞典稿)』、1992、北海道文化財保護協会
【田】:田村すず子、『アイヌ語沙流方言辞典』(再版)、1998、草風館
【中】:中川裕、『アイヌ語千歳方言辞典』、1995、草風館

 

23)Petenkaushipe-ko-itak 門別川縁の山の神に申す祈詞

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Tapantonoto tapan tonoto このお酒
inaukoroashikoro inawkor askor イナウのついたお酒と
ireshukamui iresu kamuy 育ての神が
osongokote osonkokote 言伝を添えた
inauturano inaw turano イナウと共に
tonototura tonoto tura お酒と共に
petenkaushipe  petenkauspe ペテンカウㇱペ山の
pentapkashi pentapkasi[1] 東側を
anbakamui anpa kamuy 治める神
kamuiekashi kamuy ekasi  神の翁の
ashikorokashi askor kasi  手の上に
aekoongami a=ekoonkami 私が拝礼する
riishirihi ki sirihi こと
sekoranyakun sekor an yakun であるなら
pasekamui pase kamuy 尊い神の
ashikorokashi askor kasi 手の上
orikinyakkune orikin yakne に(供物が)上ったら
tukitasa tuki tasa 盃に向かって
chikohosari cikohosari 振り向くことを
iekarakarawa i=ekarkar wa 私たちにして
ikoreyakkune i=kore yakne くれたならば
utariturano utari turano 人々と共に
nishyashinoshukup nisasnu sukup 健康に育つ事を
akiwaneyakkun a=ki wa ne yakun 私たちがしたなら
kamuikeutumuoro kamuy kewtumoro 神の御心に
ekoongami ekoonkami 拝礼を
akinankonna. a=ki nankor_ na. いたします。
[1] 【久】p.205(670):pen tapka 「東の頂上」

 

23.名取意訳

 大昔疱瘡が流行った時、とても居られない為に、父親におぶさって、門別川に行って、川なりに水の中ばかり渡って、シヌシペツ川の澤の中へ、小屋をかけて居る時に、疱瘡の神が追っかけて行くのを、門別川縁の山の神(Petenkaushipe)が骨折ってくれたお陰で、私たちの祖先のカナイカリエカシは、父親共に助けてもらった。今ではカナイカリエカシは亡くなったけれども、私は其の血統であるから、其の御礼に、この酒と幣とを門別川縁の山の神に上げますから、この酒を受け取り次第に、私の所に見えて、私達が達者になる様に、子供迄皆達者で居られる様にお願申します。

 

24)Kotankorochikap inonnoitak アベツ川口にある梟神に申す祈詞

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Abetput apet put アベツの河口へ
osankunip osan kuni p 下りているもの
kotankorochikap kotankorcikap 村を司る鳥
kotankorokamui kotankorkamuy 村を司る神よ
tapankotan tapan kotan  これなる村を
eikopunkinep eikopunkine p 守る者が
kamuinewakusu kamuy ne wa kusu  神であるので
akoinaukorobe a=koinawkor pe  人々がイナウをお供えする者
kamuipasekuru kamuy pasekur  神の尊いお方が
enewakushitap e=ne wa kus tap  貴方であるので
akoinauashi a=koinawasi  私たちは(貴方に)イナウを立てて
tapaninau tapan inaw  これなるイナウ
tonototura tonoto tura  お酒と共に
kamuiashikorooro kamuy askor oro a=ekoonkami  神の手のところに
aekoongami ki sirihi  私たちは拝礼する
kishirihi ne hi tapan na. 様子で
ehitapanna tapan tonoto  ありますよ。
tapantonoto e=uk wa ne yak これなるお酒を
eukwaneyak tuki tasa  貴方が受け取ったなら
tukitasa cikohosari  酒杯に向かって
chikohosari i=ekarkar wa  振り返ることを
iekarakarawa urespa teksam 私たちにしてくださって
ureshipateksam cikopunkine 生活する側を
chikopunkine a=i=ekarkar wa お守り
aiekarakarawa nep patum  くださって
neppatum utumkus yakka 何の病が
utumkushiyakka kotan kurkasi  広がっても
kotankurukashi cirusisre[1]  村一帯から
chirushishire ooma kuni    病が払いのけられることが
oomakuni kamuy punkine  あるように
kamuipunkine kamuy kewtum a=ekoirawe[2]  神のご加護
kamuikeutum ki hawe  神の御心を
aekoerawe sekor_ tapan na. 私たちは期待して
kihawe   おります
sekottapanna.   と言っているのですよ。

[1] cirusisreでは辞書に載っていなかったため、cirusisre「払いのけられること」(ci「中相」ru「道」sis「のける、さける」re「~させる」)と解釈しました。

【萱】p.264:sisi「のける」、esisi「それをのける」

【久】p.253(817):shish(i)「避ケル」、p.68(212):eshishi「除ける、さける」 

[2]戦前版の表記ではeraweとされています。下記のように辞書類には他動詞としてeraweという単語も掲載されていますが、そこに目的語を増やすeやkoが付くとは考えにくいことからiraweだと解釈しました。iraweはraweの自動詞になった形で「願望を持つ」「願い」という意味です。これにeとkoが付いて「~に対して~を期待する」という意味になると考えられます。

【田】p.565:rawe「~を楽しみにしている」p.118:erawe「~をこれこそと楽しみにしている」

【久】p106(340):irawe hontom chikoetuye「望みの中途を切られる、望みを達しない中途で」p.135(435):koirawe「のぞむ、期待する、希望する」

 

24.名取意訳

 アベツの川口にいる梟の神よ、どうぞお願申します。この村中の事を、守護して、今迄居る通りに、今後も面倒見て下さい。色々の流行り病気もあるから、心配して居りますが、その様な事は、この村に障らぬ様に、梟の大神よ、骨折って助けて下さい。お願します。

 

25)Shitunbekamui-ko-itak 狐の神に申す祈詞

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Tapanpiraturu tapan piratur この平取 これなる置換
kotanseremaka kotan sermaka 村の背後に
aorankekunip a=oranke kuni p おろされた
shitunbekamui situnpe kamuy 狐の神
kamuiekashi kamuy ekasi 神の翁
newakusu ne wa kusu ですので
kunineanbe[1] kuni ne an pe そうしたわけで
ainukotan aynu kotan 人間の村
eeyamkarape e=eyamkar pe を貴方が気にかけて
kamuiunpirima[2] kamuy unpirma 神の警告を
eshikutkeshioro esikutkesi oro 知らせる咳払いを
noyarakamui nuyar kamuy 人に聞かせる神が
eniwakusu e=ne wa kusu 貴方なので
anomikunip a=nomi kuni p 人々が祭る
pasekamui pase kamuy 尊い神
neakushitap ne a kus tap であるので
inaukorashikoro inaw kor askor イナウ付のお酒と
inauturano inaw turano イナウと共に
eashikorooroke e=askor orke 貴方の手の所
eshaekoongami a=ekoonkami  に対して私が拝礼
kishirihi ki sirihi する様子
sekorankyakun sekor an yakun であったならば
chiaikorushika ciyaykoruska 憐れみをかけることを
iekarakarawa i=ekarkar wa 私たちにして
tukitasa tuki tasa 酒杯に向かって
chikohosari cikohosari 振り向くことを
iekarakarawa i=ekarkar wa していただいて
utariturano utari turano 仲間達と共に
nishashinooka nisasnu oka 健康で暮らすことを
akikunihi a=ki kunihi 私たちがするように
sheremakkashi sermak kasi 背後の上
chikopunkine cikopunkine 見守ることを
iekarakarawa i=ekarkar wa 私たちにして
ikoropareyan i=korpare yan 下さい。
[1] 戦後版では「(?ne kunip ne kusu)」と記載されています。
[2] 戦後版では「kamuiunpirima (wa)」と記載されています。

 

25.名取意訳

 狐の神よ、どうぞお願します。此の酒と幣とを貴方に上げまする。この平取村を守る為に、天から降った神であるから、何か村にあぶない事、災難でも、火事でも出ると云う時に、貴方の知らせを乞います、それだけ貴方の力を有難く考える為に外にはお礼出来ませんから、此の酒と幣を上げますから、相変わらずこの村の立つ様にお願申します。

 

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