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月刊シロロ

月刊シロロ  10月号(2017.10)

 

 

 

 

 

 

写真資料紹介 コタンコロクル像(むらおさの像)がやってきた(1979年)


 文:木幡弘文

▲コタンコロクル像をカメラに収める旅行者(1979年ごろ)

 

1.はじめに


 アイヌ民族博物館は今年度、文化庁の平成29年度文化遺産総合活用推進事業の補助を受け、当館所蔵アナログ写真資料の整理を進めています。実務は主に木幡・新谷が担当、7月から開始してその数約10万枚(10月10日現在)。このうちの2万枚余りは専門業者に業務委託し、今まさにデジタルデータ化を進めているところです。

 写真整理をしていると貴重な資料にたくさん触れることができます。その中で、1979年のコタンコロクル像建立時の秘蔵写真を見つけましたのでここにご紹介します。

 

2.コタンコロクル像について


 コタンコロクル(kotan-kor-kur 村・持つ・人)とは「村長(むらおさ)」の意味。入場して真っ先に目に飛び込むのがこの像で、ポロトコタンの象徴とも言えます。この像をバックに記念撮影した人も多いのではないでしょうか。 来館者からは「高さは?」「何でできているの?」「中はどうなってるの?」という質問が多く寄せられます。材質はFRP(繊維強化プラスチック)、高さは約16m(奈良の大仏とほぼ同じ高さ)で、幅は7m。右手にイナウ(木幣)、左手は刀に手をかけた、堂々たる立ち姿のアイヌの村長をモチーフにしています。

 この像は1976年の開館時からあったものではなく、廃業した白老町竹浦のカーレース場「坂田ランド・スピード・ウェー」から移転したもので、1978年12月から翌年4月にかけて移設工事が行われました。

 『新白老町史』には以下の記事があります。

 竹浦の丘陵地に、高度経済成長期の昭和44年、坂田ランド・スピード・ウェー(レース場)が完成、その管制塔の脇に原型製作者、橋本四十二(よそじ)(ペンネーム四十路(あいじ))の作品による本像が建立されたのである。しかしレース場が廃業、この像が取り残され眼下の太平洋を見据え風雪に耐えてきた。偉大な先人の像をこのまま放置しておくには忍び難いということから、53年9月、(財)白老民族文化伝承保存財団(保存財団)山丸武雄会長、北海道ウタリ協会野村義一理事長、白老観光協会唐牛克己会長などにより移設計画の期成会(会長野村義一)を組織し、実現へ向け活動を始めた。所有者との交渉が進められ快諾を得て、解体、輸送、建立の計画を立てた。期成会では、場所について、道開拓記念館研究員の助言指導を受けながら現在地と決定されたのである。像は3~4等分にしなければ輸送困難なほど大型のものであった。

 関係者は、単なる移設ではなく先人の文化を後世に正しく継承するシンボルであるという観点で保存財団を中心とする活動の延長線上での計画ということから独自の建立となり、54年早々から3月完成をめどに作業が開始された。

 このようにして、3月に完成したコタンコルクル像の除幕式が5月20日、保存財団事務所落成式とあわせて午後2時から挙行され、ポロトコタンの発展、観光客の安全と幸福を祈るシンボルとして登場したのである。

 55年4月には、像の背後に高さ約3mの人工滝、周囲に約2.5m半円形池を造りポンプで循環させる装置の滝が完成する。

 56年6月には、像の前に「幸福の板木」が取り付けられた。昔、コタンの浜に板木が置かれ、漁業に従事する人々が非常の際の連絡手段として用いられていた。 像の前に取り付けられたのは、観光客が旅行の安全を祈る気持を込めて打つための物であり、旅行者の間で板木をたたき手を合わせる姿が目につく。

(コタンコルクル像は、FRPグラスファイバーを使い、中は2本の大支柱で支え風速60mにも耐えられる構造)

(新白老町史 下巻 P.29-30)

 

3.写真の紹介

 

▲写真1 1977年当時の博物館の全景(像の移設前)

 この写真はコタンコロクル像が移設される前の博物館の全景です。右手にあるチセの近くに像が建立されました。

▲写真2 支柱を組み立てる

 

▲写真3 支柱の組み立て後、基部を鉄筋コンクリートで固める

▲写真4 4等分したコタンコロクル像の胸部分

 

▲写真5 胸部分を取り付ける  

 

▲写真6 組み上げられた像

 

 4分割された像の胴体のうちの胸部分のパーツです。他のパーツは足、腰、頭の部分で、下から順に組み立てられました。

▲写真7  周辺が整備された状態

 建立後、人工滝と幸福の板木が設置された状態です。今日では木々が生い茂りさらに様子が変わっています。

 

4.おわりに


 コタンコロクル像移設から約38年。現在は2020年の象徴空間・国立博物館建設に伴う工事の最中で、ポロトコタンがかつてない規模で生まれ変わろうとしています。新しい博物館完成までのカウントダウンが刻まれていく中、今日もコタンコロクル像は来館者の旅の無事とこれからの幸福を祈りながら佇んでいます。 

▲写真8 受付に設置されているカウントダウンパネル

 

▲写真9 現在のポロトコタン(象徴空間・国立博物館建設に伴う工事の様子)

 

〈参考文献〉
白老町史編さん委員会 1992:『新白老町史 下巻』 第一法規出版
アイヌ民族博物館 1996:『財団法人設立20周年記念誌 二十年の歩み』
アイヌ民族博物館 2014:『アイヌ民族博物館 開館30周年記念誌』  

 

[バックナンバー]

サパンペ(儀礼用冠)の製作について(木幡弘文) 2017.2

《映像資料整理ノート1》川上まつ子さんのサラニプ(背負い袋)づくり 2017.6

《映像資料整理ノート2》サラニプ(背負い袋)についての新資料報告 2017.7

《映像資料整理ノート3》忘れられた野菜「アタネ」について 2017.8

《トピックス》第29回 白老ペッカムイノミ(初サケを迎える儀式)を開催 2017.9

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓28》ヤイニ ヤクフ(ドロノキの役目)

 

 文・写真:安田千夏

 

 ドロノキのアイヌ語名は「ヤイニ」。日本語に訳すと「ただの・木」(知里1953)で、アイヌ文化の樹木利用という観点では良質な材という扱いではなく(注1)、名が示す通りの存在です。

▲写真1 ドロノキの幹。上に行くに従って樹皮の割れ方が変化するところに注目(注2

 アイヌ口承文芸の世界を見渡しても、胆振日高地方の聖伝というジャンルの火起こしにまつわる伝承では、ハルニレでおこした火から善神が生まれたのに対して、ドロノキからおこした火からは様々な悪神が生まれた(満岡1923)とされていて(注3)、実際に双方並べてまきにして燃やしてみた経験(注4)からしても、ドロノキの燃え方は好ましいものではありませんでした。木の神様が活躍する散文説話や神謡をみても、ドロノキの役回りはあまり良いものではありません。「村から一人ずつ人が行方不明になるのはドロノキの仕業でした」(浅井1972)とか「ドロノキはあまり精神が良くない木で、木に吊るされた人間の赤ん坊をコノハズクに変えてしまいました」(更科1977)とか。ハルニレやカツラなど樹木界のスター達とは対照的に、悪玉的な描かれ方をしたものが目につきます。

 ところで聞き取りデータの中で、神の人間界での働きについて古老が繰り返して語るのは「ヤクフ(の役目)」というものです。どんな神も天界から役目を負わされてこの人間界に降ろされたのであり、その役目を終えると神の国に帰って行くという考え(注5)が根本にあり、古老達は人間にとって不都合な存在である生物(注6)を邪険にする言動をたしなめるのです。「何だって天から役目を持って降ろされているのだから、そんな風に悪く言うものではない」。これを聞いた時は、アイヌ文化を理解する上で重要な、とても奥の深い話を聞いたような気がしました。ドロノキは名こそパッとしなくても、決して「役目がない」と言われているわけではないのです。それではドロノキはどんな「ヤクフ」を持っているのでしょう。その点にフォーカスしてみることにしました。

 そもそもドロノキは、荒れた土地(注7)にでも真っ先に生える先駆樹種で、太陽の光を浴びてぐんぐんと成長する「陽樹」です。しかし遅れて成長を始める、太陽の光があまり届かなくても育つ「陰樹」が林床からじわじわと時間をかけて成長し、やがてはドロノキを追い越して葉を広げるので、太陽の光を遮られたドロノキは枯れてしまうというのが一般的な森の成り立ちの説明です。ミズナラやカシワなどの巨木が並ぶうっそうとした森でドロノキを見かけることは基本的にありませんが、先の説明によると、森の始まりの時には一面ドロノキの林だったということになります。確かに陽が届かないくらいに深い森の中を歩いていると、枝が折れるなどしてギャップ(注8)が生じると陽が差し込み、一本立ちにドロノキの若木が生えているのを目にすることがあるのです。あたりを見渡してもドロノキは一本もありません。それはかつてドロノキの林だったこの場所で、太陽の光が差し込んだことによって長い時間眠っていた種子が芽吹いたということなのかも知れません。

 ドロノキは成長が早いので、こうして芽吹いた木が本当にまれにですがずいぶんと立派な木に成長することがあります。過去に一度だけポロト(注9)の深い森の中で立派に成長したドロノキの大木を見つけたことがあり、その時は何だか嬉しくなったものでした。完全アウェーの中、孤独に頑張っているなあと。しかし2004年の夏に来た台風で、その木はあっけなく倒れてしまったのです。まわりにあるミズナラやハルニレなどの広葉樹が枝を張り支え合って乗り切ったなかでドロノキだけが倒れてしまったのは、成長が早いために木自体が軽くてもろく、早晩倒れる運命にあったということなのでしょう。近くにあった数本の若木を巻き込んで地面ごとめくれ上がって倒れた根側に回り込んでみると、大木を支えるだけの根が見当たりませんでした。頑丈さが求められる木材には適さないといわれる理由もこうしたもろさにあるといえます。

▲写真2 倒れたドロノキ(2004.10.7)

▲写真3 枝先が確かに「自分はドロノキだ」と語っています

 あれから13年。その場所を訪れると、朽ちていくドロノキを栄養にしてその上に様々な種類の若木が育っているのを見ました。木の本体はすでに朽ちて崩れかかり、そこにドロノキがあったということはおそらくもう誰の記憶にも残っていません。ドロノキはこんなふうにしてどの木よりも早く成長して倒れますが、それは森を育てるという大切な役目を負ってこの世に降ろされたためなのでしょう。森の成り立ちを垣間見たような、そしてアイヌの古老達の冒頭に述べた言葉が大変しっくり来たという思いがしたものです。

 人間目線だけではなく、生物神や天界の神様など色々な目線でこの世界を見る。それがふんだんに盛り込まれているのがアイヌの世界観というものなのかも知れません。このことがあって以来、私は一番好きな木は何かと訊かれるとドロノキと答えるようになりました。

(注1)一例をあげるとシナノキのアイヌ語名が「ニペシ」なのに対し、オオバボダイジュが「ヤイニペシ」。アイヌ文化では双方の内皮から糸を作りますが、オオバボダイジュから作った糸は品質が劣るといいます。

(注2)似た樹皮のものに同じヤナギ科のヤマナラシ、チョウセンヤマナラシがありますが、葉の形が違うので区別できます。

(注3)他にも沙流地方の聖伝などに同様のモチーフが見られます。

(注4)月刊シロロ2016.4月号「アイヌの火起こし実践ルポ(後編)」参照。

(注5)最も有名なのは、萱野茂『アイヌ歳時記 二風谷のくらしと心』のあとがきにある「カントオロワ ヤクサクノ アランケプ シネプカ イサム(天から役目なしに降ろされたものは一つもない)」という記述ですが、アイヌ民族博物館の音声資料中にも、口承文芸や日本語の語りの中に同じ意味の表現が繰り返し語られています。そこからみてもこれは萱野氏だけではなく、多くの古老が心の中に持っていた信条のようなものだったのではないかと思えるのです。

(注6)例えば農作物を荒らすカラス達。人間にとっては迷惑千万な存在なので悪口を言う人もいるわけですが、それもアイヌ文化的にはたしなめられる行為なのです。

(注7)筆者の少ない経験の中でも、2000年の有珠山噴火で荒廃し火山灰が積もった大地からまずドロノキが生えて林になる光景を目にしました。

(注8)倒木などで森の中の均衡状態が壊れることを指します。

(注9)アイヌ民族博物館に隣接するポロト自然休養林。月刊シロロ2015.6月号『ポロト オカンナッキ』に概説あり。

 

<参考文献・データ>

宮部金吾・三宅勉『樺太植物誌』樺太庁(1915年)
満岡伸一『アイヌの足跡』真正堂(1923年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 植物編』日本常民文化研究所(1953年)
浅井亨『日本の昔話2 アイヌの昔話』日本放送出版協会(1972年)
更科源蔵・更科光『コタン生物記Ⅲ』法政大学出版局(1977年)
萱野茂『アイヌ歳時記 二風谷のくらしと心』平凡社(2000年)
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
アイヌ民族博物館『アイヌ語アーカイブ』(2017年)

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7

《図鑑の小窓》16「カタムサラ」はどこに 2016.8

《図鑑の小窓》17 イケマ(ペヌプ)のおまもり  2016.9

《図鑑の小窓》18 クリの道をたどる 2016.10

《図鑑の小窓》19 くまのきもち 2016.11

《図鑑の小窓》20 エンド(ナギナタコウジュ)のつっぺ 2016.12

《図鑑の小窓》21 わけありのラウラウ(テンナンショウの仲間) 2017.1

《図鑑の小窓》22 春待つ日々のサクラ4種 2017.2

《図鑑の小窓》23 タクッペ(やちぼうず)の散歩 2017.3

《図鑑の小窓》24 カッコク カムイ ハウェ コラチ(カッコウ神の声のように) 2017.6

《図鑑の小窓》25 トゥレプ(オオウバユリ)とトゥレプタチリ(ヤマシギ) 2017.7

《図鑑の小窓》26 オロフレ岳と敷生川のミヤマハンノキ 2017.8

《図鑑の小窓》27 ムクという名の野草について 2017.9

 

 

 

 

 

 

《アイヌの有用植物を食べる 5》キハダ

 

 文:新谷裕也

 

はじめに

 

 秋は実りの季節。川には鮭が遡上し、山にはたくさんの木の実がなります。狩猟だけでなく、アイヌは植物採集も大切な仕事だったので、山に行ってヤマブドウ、コクワ、マタタビなどたくさんの木の実を取りました。その中でもキハダという木は、実は食用、薬用に、幹は薪や祭具にするなど、アイヌ文化の中でも特に重要な木です。そんなキハダとアイヌ文化との関わりを紹介します。

 

1. キハダとは

 

▲写真1:キハダの樹皮

▲写真2:キハダの実

 

 キハダはミカン科の落葉樹で、別名シコロとも呼ばれ、5月~7月に小さな黄色い花を咲かせます。キハダの樹皮(写真1)はコルク質で、触ると弾力があり柔らかいのが特徴です。樹皮を剥がすと内皮が黄色いので、キハダという名前がついたと言われています。キハダの樹皮は生薬や染料としても使用されます。生薬は「黄檗(おうばく)」と呼ばれ、主に整腸剤として用いられます。秋になると小さなブドウのような実(写真2)をつけて9月~10月に熟します。ミカン科なのでとても良い香りがして甘いのですが、種はとても渋くて苦みがあります。

 アイヌ文化でも、樹皮は主に染料として用いられ、実は薬用、食用にしたほか、イナウ(木幣)を作りました。イナウとは、アイヌが木を削って作る神への捧げもののことで、一般にはヤナギやミズキで作られることが知られていますが、キハダで作るイナウは特に位が高いものとされています。

キハダ(シコロ)は、イナウ材となる樹木の中でも最高位に位置づけられることが多い。キハダ製のイナウは、神のもとに届くと金に変わるという。さきに見た千歳で火神に捧げる事例以外は、シマフクロウに捧げる事例が目立つ。次に見る鵡川の事例のように、キハダのイナウを濫用することを戒める証言もある。
「sikerebeniのinauは金のekoroにするから神様がリンキして/ケンカしてしまいあげた人にたたりくるからうっかり使われない./ケカチの時に山の方のsirikorkamuiの一番えらい神にあげるinau/sikerebeniでつくる」[更科8:100]
このほか、北海道では、クマ送りの際、頭骨を載せる叉木と、頭骨の下に入れる横棒をキハダで作ることがある。(北原2014)


 キハダは薪としても使用されます。枯れ木になってもなかなか火がつかないドロノキや、よく燃えるがパチパチはぜる気性の荒いハシドイと違い、静かによく燃えるので、心優しくおとなしい木だとされています(更科1976)。

 キハダはアイヌ語でシケレペニ(シケレペ=キハダの実 ニ=木)と呼ばれます。キハダの実はアイヌ文化の中でもとても多く利用されます。まだ青いうちに採取し、干して保存する過程で完熟させます。保存すると乾燥してしわしわになるので、水で戻してから利用します。それを回虫予防、風邪、喘息、胃腸の薬として使用しましたが、料理の香りづけにも使用されました。代表的な料理はカボチャや豆などが入った「ラタシケプ」と呼ばれる煮物で、日常はもちろん儀式の際には欠かせない料理です。

 このように、キハダはアイヌの生活の中でなくてはならないとても大切な木とされ、アイヌの生活に深く関わってきました。

 

2. 採取方法


 まずは実がなる木かどうかを見分けます。キハダは雌雄異株(注1)で、実がなるのは雌木です。完熟したキハダの実は地面に落ちるので確認できます。キハダの実はとても高い場所になるので、手が届きません。そこで長い二股の木の棒で実を引っかけて採取します。他にも、傘を逆さまに広げて木を蹴り、実を落として傘の中に集める方法もあります。採取の際に注意することは、カラスの糞です。カラスもキハダの実が好きなのか、この季節はキハダの上をうろちょろしています。普段白い糞もキハダの実を食べたからか青紫色の糞に変わっていますので、採取の際は熱中しすぎて糞を落とされないように注意しましょう。

 

3. キハダの実の味


 キハダの実は、先述の通り果肉は甘いですが、種がとても苦くて渋いです。ひどいものだと、舌がずっと痺れてしまいます。この苦みはミカンやオレンジの皮の苦みを強くしたような味で、好きな人はこの苦みがおいしいと言います。実際に昔のフチ(おばあさん)は「種子に含む苦みを楽しむ」と言っていたそうです(福岡1995)。キハダの実の味は地域によって変わると言い、甘いキハダの実がなる木を覚えておいて、秋に採取しました。筆者が聞いた範囲では、千歳で取れるキハダの実が甘くておいしいと言われています。筆者は千歳で行われた儀式に参加した際にキハダの実と豆や米の団子で作られるシケレペラタシケプ(キハダの混ぜ煮)を食べたことがあり、地域の味の違いを感じました。種の苦みはあるけれど、キハダの実の味は甘くてとてもフルーティーでおいしかったです。甘くて苦い大人の味でした。しかし筆者が今までで一番おいしいと思ったのは白老で食べたもので、以前伝承者育成事業の研修で散策中に拾ったキハダの実でした。研修でいつも利用していたポロト湖周辺の散策路では、キハダはあっても実は見たことがなかったので、試しに拾って食べてみると、今まで食べたどのキハダの実よりもおいしい実でした。この時に拾ったキハダの実は「肺病に効果がある」(織田ステノ氏の伝承、アイヌ民族博物館2015)とされる方法、ジャムのように煮詰めて食べました(伝承者育成事業レポート2015.12号参照)。

 

4. キハダの実の利用法 


 ここではキハダの実を使った代表的な料理のラタシケプを紹介します。ラタシケプは「混ぜ煮」と呼ばれる料理で、季節や材料によっていろいろな素材で作ります。以前本誌で筆者がヒメザゼンソウを紹介したとき(注2)、ヒメザゼンソウを使ったシケレペキナラタシケプを紹介しましたが、他にもイクラとジャガイモを混ぜたチポロラタシケプ、カボチャと豆を混ぜたカボチャラタシケプ、他にもいくつかの種類があります。今回は伝承者育成事業の研修で教わった白老のカボチャと豆のラタシケプ「ボツボツ」(注3)の調理方法を紹介します。


〇材料

・カボチャ
・金時豆(あればトラ豆)
・トウモロコシ
・キハダの実
・塩
・砂糖
・サラダ油(あればタラの油)


〇作り方

①カボチャを角切りにして皮を剥く、金時豆と乾燥したキハダの実を水に浸す。(写真3、4)

▲写真3:角切りにしたカボチャ

▲写真4:水にさらす金時豆とキハダの実

②トウモロコシを茹でて、茹で上がったら粒を取る。

③金時豆を少し茹でる。

④カボチャを大きな鍋で形がなくなるまで煮る。

⑤カボチャの形がなくなったら茹でた金時豆、トウモロコシ、キハダの実を混ぜ、水気が飛ぶまでさらに煮る。味付けにサラダ油と砂糖を加える。(写真5)

▲写真5:金時豆、キハダの実、トウモロコシを加える

⑥水気が飛んだら塩を少し加えて完成。塩は甘さを引き立てるものなので、少しで良い。(写真6、7)

▲写真6:完成したボツボツ

▲写真7:完成したボツボツ

 

〇味

 かぼちゃと金時豆が甘くて、トウモロコシとキハダの実は歯ごたえがとても良いです。キハダの実は柑橘系のとても良い香りがするので、おかずというよりもデザートのような感覚で食べることができます。種の苦みもカボチャと豆の甘味に混ざってあまり気になりません。昔はタラの油も入れていたようですが、今では手に入らないので、代わりにサラダ油を入れます。キハダの実が苦手という人もいるので、キハダの実を入れなかったり、甘さを出すのに砂糖を加えたり、食べやすさを重視して作ることもあるそうです。

 

5.おわりに

 

 キハダはアイヌ文化の中でも重要な木であり、その実も食糧、薬として大切にされて来ました。現代でもアイヌ料理には欠かせない食材となっており、昔ながらの食べ方だけではなく、お菓子に入れたりなど現代風の食べ方も考案されています。今年は個人的にシケレペラタシケプ作りに挑戦してみようかと思っています。秋の山には他にもヤマブドウ、コクワ、マタタビなど様々な木の実がつき、豊かな実りを堪能することができますので、これからも春は山菜、秋は木の実を中心に紹介していきたいと思います。

 

注1:雄と雌で分かれている樹木のこと。
注2:月刊シロロ2017.8月号《アイヌの有用植物を食べる3》ヒメザゼンソウ
注3:白老ではカボチャラタシケプを「カンボチャラタシケプ」又は「ボツボツ」と呼びます。

 

〈参考文献・データ〉

・知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
・更科源蔵、更科光『コタン生物記Ⅰ樹木・雑草篇』法政大学出版局(1976年)
・『日本の食生活全集 聞き書アイヌの食事』社団法人農山漁村文化協会(1992年)
・福岡イト子『アイヌ植物誌』草風館(1995年)
・北原次郎太『アイヌの祭具 イナウの研究』北海道大学出版会(2014年)
・アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)

[バックナンバー]

《伝承者育成事業レポート》イパプケニ(鹿笛)について 2017.1

《アイヌの有用植物を食べる》1 オオウバユリ(前) 2017.6

《アイヌの有用植物を食べる》2 オオウバユリ(後) 2017.7

《アイヌの有用植物を食べる》3 ヒメザゼンソウ 2017.8

《アイヌの有用植物を食べる》4 ヒシ 2017.9

 

 

 

 

《第3期伝承者育成事業レポート》イヨマンテでの祈り詞(平取地方)その11


 文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師)

 ここに掲載するものは、名取武光氏が記録したイヨマンテの祈り詞です。名取氏の論文「沙流アイヌの熊送りに於ける神々の由来とヌサ」(『北方文化研究報告 第4輯』、1941年、北海道帝國大學)には、仔グマを連れ帰った場面からイヨマンテを終えるまでの一連の祈り詞54編と、その意訳が収録されています。名取氏の同論文は、1941年に最初に発表され(戦前版)、その後1974年に著作集『アイヌと考古学(二)』に収められました(戦後版)。著作集収録の際、浅井亨氏がアイヌ語の校正をしており、一部解釈や表記が変わりました。

 第3期「担い手」育成研修では、2016年1月頃からアイヌ語研修の一環として、これらの祈り詞の逐語訳に取り組みました。和訳にあたっては、新旧のアイヌ語原文を比較しましたが、ここでは戦前版での表記とアイヌ民族博物館で用いられている表記法(辞書で引けるような表記)で書いたものを並べ、戦後版については必要に応じて引用しています。なお、原典では改行せずに書き流していますが、ここでは、一般的な韻文の形式で、一行と考えられる長さごとに改行しています。それぞれの最後に、名取武光氏による意訳をのせています。

 今回は、そのうち29、30、31、32を掲載します。 (→その1 →その2 →その3 →その4 →その5 →その6 →その7 →その8 →その9 →その10

 参照した辞書の略号は次の通りです。

【太】:川村兼一監修、太田満編、『旭川アイヌ語辞典』、2005、アイヌ語研究所
【萱】:萱野茂、『萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版]』、2002、三省堂
【久】:北海道教育庁生涯学習部文化課編、『平成3年度 久保寺逸彦 アイヌ語収録ノート調査報告書(久保寺逸彦編 アイヌ語・日本語辞典稿)』、1992、北海道文化財保護協会
【田】:田村すず子、『アイヌ語沙流方言辞典』(再版)、1998、草風館
【中】:中川裕、『アイヌ語千歳方言辞典』、1995、草風館

 

29)Kotannoshkiun naikorokamui inonnoitak 
村の真中の水の神に申す祈詞

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Wakkaushikamui wakkauskamuy 水の神
kamuimatnepone kamuy matnepo ne 神の娘として
shihusarayep siusaraye p[1]   系譜を分けた者よ
wakkaushikamui wakkauskamuy 水の神
newakusu ne wa kusu    であるので
nupurusantobe nupur san tope   その尊い乳
aeureshupap a=eurespa p で私たちが生活するものが
naikorokamui nay kor kamuy    沢の神
ikiyakusu iki a kusu    であるので
ukohepoki ukohepoki   一同に礼を
anwakusutap =an wa kusu tap して
tapantonoto tapan tonoto    このトノトと
inauturano inaw turano    イナウと共に
eashikorooroke e=askor orke   貴方の手に
aoraeshiri a=oraye siri 寄せる様子
sekoanyakkune sekor an yakne    とあるならば
chiyaikorushika ciyaykoruska   憐れみをかけること
iekarakarawa i=ekarkar wa    を私たちにして
tukitasa tuki tasa   酒杯に向かって
chikohosari cikohosari   振り返ることを
iekarakarawa i=ekarkar wa   私たちにして
ureshipateksam urespa teksam   生活する側を
chikopunkine cikopunkine   守護
iekarakarawa i=ekarkar wa    して
ikoropareyan i=korpare yan.    ください。
enupurutobe e=nupur tope   あなたの霊力のある乳
kusurshinne kusuri sinne    が薬のように
ireshukamui iresu kamuy   火の神の
kirisamuoroke kirisam orke   膝下で
aoureshupawa a=ourespa wa   私たちが生活して
okaanroki oka=an rok _hi    暮らしている事
nihikorachi ne hi koraci    そのように
pirikaureshupa pirka urespa   良い生活になって
niitapakkuno neyta pakno   いつまで
newaneyakka ne wa ne yakka   であっても
akiwaneyakku a=ki wa ne yak   できるなら
kamuikeutum kamuy kewtum   神の御心に
akoonkgami a=koonkami   拝礼
kinankonna. ki nankor_ na.   しますよ。
[1] si「自分」usaraye「分ける、分かつ」で、水の神の系譜を引くという意味だと考えられます。

 

 

29.名取意訳

 水の神様よ、お願申します。貴方の乳として、水を貰って、それで今迄、皆村中の者が達者で居ります。尚又私の家の者が、これからも、皆達者で居ります様におたのみします。

 

30)Kotanpaun naikorokamui innoitak [1]


祈り詞29と同じ内容だとして省略されています。

[1] 原文まま。inonnoitakの誤り。

 

 

31)Itushipekare etok kamui anure inonnoitak
仔熊を檻(家)から出す前に申す祈詞

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Hashiinaunusa hasinaw nusa  ハシナウ[2]を捧げる祭壇
nusasankashi nusasan kasi  祭壇の上
ainkarakamui oinkar kamuy を見守る神よ。
medotshikamui metotuskamuy 山奥に居ます神の
kamuuiponbehe kamuy ponpehe 神の赤子を
ikoireshu ikoiresu 育てることを
akiiteksama a=ki teksama 私がするにあたり
akoyayapte a=koyayapte 心配である
tapanbekushitap tapanpe kus tap ので
shiranbakamui siranpakamuy 立木の神
hashiinauukkamui hasinawukkamuy 狩猟の神
kamuikeutum kamuy kewtum 神の御心
ashinukare a=sinukare[1] を祭り
areshipakunip a=respa kuni p 私たちが育てるべきこと
ikirokawa iki rok awa であったところ
taneanakne tane anakne 今は
tokorokuni to kor kuni 来るべき日が来たので
ashinottekuni a=sinotte kuni 仔グマを遊ばせる時
ewakushitap ne wa kus tap になったので
itushipekari ituspekare 仔グマに縄をかける
anoashi an=oasi  事をはじめる
sekorankushitap sekor an kus tap ということなので
hashiinauukkamui hasinawukkamuy 狩猟の神に
anurehawe a=nure hawe 私が聞かせること
sekorankusu sekor an kusu であるので
ukopunkine ukopunkine 神々が一同に守護する事
oomakuni ooma kuni がありますよう
kamuikeutumoro kamuy kewtumoro  神の御心を
chikomososo cikomososo  起こす事を
aekarakarahawe a=ekarkar hawe 私がする
sekottaoanna. sekor_ tapan na. 次第ですよ。
[1] 【久】p.247(799):kamui shinukare「神をまつる、おがむ、御目にかかる、見参する」
[2] ハシナウはイナウの一種。地域によってさすものが違いますが、平取や白老では写真のような形をしています。(ハシナウの紹介記事のリンク貼ってください)

 

31.名取意訳

 山の神様よ、どうぞお頼み申します。仔熊を養うに、自分一人で養う事は心配だから、狩の神様(Hashiinauukkamui)をお頼みしますから、立木の神(Shirambakamui)と二人で、養う間気をつけて下さい、とお願申しました。それで今時節になったから、これから仔熊を家から出す所であるけれども、其の前に狩の神様に知らせて、怪我なく、縄をつける事が出来る様にお願申します。

 

32)Hepere ashinotetoko akashibaotte itak.
仔熊に云い聞かせる言葉

 

戦前版の表記 新表記 和訳
Kukoro ku=kor  私の
heperepo heperpo  愛しい仔グマよ
taneanakne tane anakne  今は
ashirikinne asirkinne  新たに
aeshinotewa a=e=sinotte wa  私が貴方を遊ばせて
eashirikatu easir katu  改めて
chikokannakara cikokannakar [1] 姿を元通りにすること
aekarakarakusu a=ekarkar kusu  を私はするので、
neetoko ne etoko  その前に
taneanakne tane anakne  今は
ashinottekuni a=sinotte kuni      私が遊ばせる
nehitapanna ne hi tapan na.  ことですよ。
pirikashinot pirka sinot  良い遊びをして
eshiramueyara esiramuyeyar  感心される振る舞い
ekinankonna. e=ki nankor_ na. を貴方はするでしょう。
[1] クマを本来の姿(霊体、人の姿)に戻すことの表現だと考えられます。

 

32.名取意訳

 熊の神よ、今迄子供の様に、可愛がって、飼っておいたけれども、習慣だから、これから家から出して遊ばせて送ります。そして新しく体を造りかえて、親元に帰る様にしますから、決して悪い事しない様にして、可愛がられる様に遊んで下さい。

 

 

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