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月刊シロロ

月刊シロロ  12月号(2017.12)

 

 

 

 

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)24》
  東アジアが誇る笑い話? パナンペ・ペナンペの謎(上)

 

 文・絵:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

(要約)

1.世界(特にユーラシア周辺)の昔話には共通した展開の話が多い。羽衣伝説、サルかに合戦、花咲か爺など日本でおなじみの話も、アイヌを含め東アジア~より広い地域に類話がある。

2.パナンペ放屁譚もそうした広く見られる話の1つ。日本では「鳥吞み爺」、「屁こき爺」で知られている。なお、日本の昔話では「正直爺といじわる爺」のパターンが多いが、アイヌ民族や朝鮮半島、中国では兄弟の話になっていることも多い。

3.放屁や大便をオチにする話はアイヌ独自ではなく東アジア全域で楽しまれてきた下ネタ話。どこが発祥か、どのような経路で伝わったかについては今後の研究が待たれる。

 

はじめに


 先日、とあるTV制作会社から「Panampe opke orushpe パナンペ放屁譚」という昔話についてお問い合わせをいただきました。これは知里真志保著『アイヌ民譚集』に収められた話で、あらすじは次の通り。

 パナンペという男が山へ出かけると「カニ ツンツン ピィ ツンツン カニ チャララ ピィ チャララ」となく可愛らしい小鳥がいた。パナンペが小鳥を拝むと、その小鳥はパナンペの口にとびこみ、腹の中へはいってしまった。パナンペが帰って妻に屁を聞かせると「カニ ツンツン ピィ ツンツン カニ チャララ ピィ チャララ」と面白い音がした。面白い屁の評判が殿さまの耳に入り、殿様に聞かせることになった。殿様は手を打ってよろこび、たくさんのほうびをだしたので、パナンペは裕福になった。

 ペナンペがそれをまねて、殿様に屁を聞かせるところまではうまく行ったが、腹をこわして殿様も家来も埋まるほどの糞をひってしまった。ペナンペは殴られ斬られて泣きながら逃げ帰った。すると妻は血だらけの夫が走ってくるのを見て赤い立派な着物をもらって帰ったのだと早合点して、自分たちの着物をすっかり燃やしてしまった。

 

 『アイヌ民譚集』所収の話は、知里氏の郷里、幌別村(登別市)で聞き集めたものですが、この話は他の地域でも語られてきました。

 札幌市アイヌ文化交流センター(ピリカコタン)ではこの「放屁譚」を展示に取り入れており、件の問い合わせはこれを見てのものでした。以下、質問への回答という形でこの話の見どころを紹介することにします。

 

1.アイヌ文学のなかのパナンペ・ペナンペ譚

 

質問1 パナンペ・ペナンペの話はアイヌの昔話の定番なのか

 アイヌ口承文芸のうち、物語文学にもいろいろなものがあり、語り方と内容によって3つに分けられることが一般的です(1)

 1.英雄の物語 (メロディつきの語り)
 2.カムイの物語 (メロディ+リフレイン(繰り返し)つきの語り)
 3.人間の物語 (メロディなしの語り)
  くわしくは「アイヌの物語」参照。

 パナンペ・ペナンペ話は、語り方や普通の能力しか持たない人間が主人公という点では「人間の物語」に近い話ですが、いくつか特殊な点があります。

①キャラクターの固定性

 常にパナンペとペナンペという同一のキャラクターが登場する点。一般的な人間の物語には、話ごとに様々な年齢・性別・境遇の人びとが登場する点と異なります(2)

②ストーリーの定型性

 一般には勧善懲悪的な価値観が感じられるのに対し、パナンペ・ペナンペ話は「一方がうまくやり、もう一方がそれをまねて失態を演じる」というパターンがあるだけで、善悪は必ずしも問題になりません。うまくやる方は、正しい行動をすることもありますが、動物や人をだましたり盗みを働いたりといった方法で儲けることもしばしばです。

 しかも結末は、失敗して死んでしまうことががほとんどなのに、次の話ではまた同じ名前の男がぴんぴんして現れます。つまり、これら一連の話は、語り始めた瞬間に「そいつこないだ死んだじゃんよ」という反応を生む、ナンセンスさを持ち味にした笑い話だということです。

③3人称文体

 北海道のアイヌ文学の多くは「私は○○村の者だ。私が若い時にこんな話があった~」等というように、1人称だと解釈できる文体で語られますが、パナンペ・ペナンペ話は「パナンペとペナンペがいました」と3人称で語られる傾向があります。

④短い歌の挿入

 散文説話の形式をとりながら、途中に必ず短い歌が挿入される点。放屁譚で言えば「おかしな屁の音」の部分が歌の様に語られます。これは樺太の散文体の物語には一般的に見られる傾向です。

 このような特徴から、パナンペ・ペナンペ話は定番ではありつつも、他の物語とは明確に区別され、なおかつ語り手にとってはあまり高尚な話とは考えられてきませんでした。知里氏は『アイヌ民譚集』の註解において次の様に書いています。
 
 「どこやらに滑稽の趣きを蔵した軽い昔話である〈中略〉長大なユーカラ(叙事詩)または荘重な辞句で織畳んだオイナ(聖伝)などに聞き飽き、語り疲れた時,たとえばお能の間に狂言を見る様な気持ちで,「パナンペでもやれ」「よし来た」といって始めるのがこの種の「パナンペ説話」である.ゆえにあくまでも肩の凝らない軽い調子の白話体で語り、そして所々にいわばサワリ文句とでもいうべきものを挿んで,皆をどっと笑わせる.この屁の音もそれで,口演者はここでわざわざ可笑しな節廻しと身振とをもっていやが上にも笑いの効果を高めようと努める」

 ただ、この種の話にはしばしば下ネタではない話も見られ、中には文化や人間の起源などに結びつく、重要な話もあります。そうしたナンセンス笑い話から人間創造譚まで同じキャラが演じるのはなぜなのか、これはアイヌ文学における未解決の謎の1つです。

 動画の形で見られる作品を2つ挙げておきます。

▼笑い話「パナンペとペナンペ トドのシラミ - エタシペ コムイ」(アイヌ文化振興・研究推進機構)

 

▼文化起源譚「パナウンペとハルニレの木」(アイヌ民族博物館)

 

2.パナンペ・ペナンペ話に下ネタが多い?

 

質問2:パナンペ放屁譚では、なぜ、こんなに多く屁や糞を扱ったのか?


 上に書きましたように、そもそも「しょうもない話」のシリーズなので、身もふたもない結末が繰り返され、そのことが「お約束」としての笑いを生む効果を持っているのでしょう。なお、他の例を挙げますと「子犬をかわいがったパナンペは財宝を得、虐待したペナンペは糞に埋もれて死ぬ話」(幌別、千歳、樺太来知志などに類話)、「パナンペが凍った湖に陰茎を入れて魚を釣る、ペナンペは失敗して陰茎がちぎれて死ぬ話」(幌別)などがあります。

 これらの話は東アジア・ユーラシア各地に類話があります。「放屁譚」のあらすじを聞いて本州の「屁こき爺」や「鳥吞み爺」を思い出した方も多いことでしょう。

▼動画リンク 「とりのみじいさん」小沢正 文 長谷川知子 絵

 

 関敬吾氏は『アイヌ民譚集』の解説において、こうした諸民族の説話に見られる類似を指摘しています。関氏はパナンペ・ペナンペ話を「東北地方の「上の爺・下の爺」、南西諸島の「東長者(あがりちょうじゃ)・西長者(いりちょうじゃ)」など、いわゆる「隣の爺型」と同形の昔話」だとし、さらにこれらを「ユーラシア型の昔話」だとして比較研究上の重要性を述べています。

 上記の関氏の解説中にすでに指摘されていますが、実はパナンペ・ペナンペ話に限らず、世界(特にユーラシア周辺)の昔話には共通した展開の話が多く見られます。「羽衣伝説」、「サルかに合戦」、「花咲か爺」など日本でおなじみの話も、アイヌを含め東アジア地域、あるいはより広い地域に類話があります。

 「放屁譚」に話を戻すと、その類話は東アジア、特に中国(「香ばしい糞」、「売香屁」)、朝鮮(「甘い糞」)、日本などに広く分布し、ヨーロッパには見当たらないといいます。

 『世界昔話ハンドブック』によると「甘い糞」とは、ミツバチの巣を食べたことによって甘い便が出る様になった、という話で、朝鮮半島のほか、中国のチュワン民族、ミャンマーのパラウン民族にも伝わっていると言います。また、琴榮辰氏の「東アジア笑話に見る放屁譚」を読めば、上記放屁譚のほかにも、放屁をテーマとした笑い話が東アジアに多数語られてきたことを知ることができます。

 氷の下に陰茎を入れる話は、クマまたはオオカミとキツネが登場する「しっぽの釣り(クマの尾が短い訳を説く由来譚)」の類話とされています。「しっぽの釣り」には、この凍結型と籠引き型の2タイプがあり、後者はイソップ寓話が伝来した可能性があるとのことですが、凍結型はこれとは別な経路で伝わった可能性が示唆されています。


▲しっぽの釣り分布図 『世界昔話ハンドブック』より

 ということで、2つ目の質問の答えとしては、放屁や大便にちなむ笑い話はアイヌに特有の物ではなく、日本を含む東アジア全体で好まれ、楽しまれてきたということになります。これらがなぜ笑いを誘うのかと言えば、やはり「人目から隠したい」「忌避したい」ものだからでしょうか。それらが隠されるべき・避けられるべきものであるという心理が緊張感を生み、その緊張感を理不尽に破ってそれが放たれる・降ってくるといった衝撃の展開が滑稽さを感じさせ笑いを生むのでしょう。

 

おわりに


 「パナンペ放屁譚」を見ての素朴な疑問は、アイヌ文学の枠を越え、本州の文学の歴史や東アジア、ユーラシア全体の文化史につながるものでした。結局、こうした答えは番組の趣旨に合わなかったようで、件の取材は放映にはつながりませんでした。改めて、上に述べたような面白味に注目した番組の企画が立つことを期待します。

 次回も、パナンペ・ペナンペ話を取り上げます。

参考文献
稲田浩二ほか(編)
2004『世界昔話ハンドブック』三省堂。

関敬吾 
1981「解説」『アイヌ民譚集』岩波書店。

孫晋泰
1930年『朝鮮民譚集』郷土研究者。

知里真志保
1981(1937)『アイヌ民譚集』岩波書店。

中川裕
1997『アイヌの物語世界』(平凡社)。

 

(注1)なお、詩や短歌、小説などの文字文学の紹介は私の手に余りますので、ここでは触れません。

(注2) 登別ではウラシペッ流域、沙流川筋ではイシカラ流域が舞台になる話が多いなど、舞台設定にはある程度の傾向があります。

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2

第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4

第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5

第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名 2016.6

第15回 アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物 2016.7

第16回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-1 2016.12

第17回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-2 2017.1

第18回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-3 2017.2

第19回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-4 2017.3

第20回 アイヌの衣服文化⑶「アイヌ文様は魔除け?」を検証してみた 2017.4

第21回 樺太アイヌの防寒帽 2017.5

第22回 北方の楽器たち(補遺1) 鉄製口琴で戦う乙女-ほか 2017.6

第23回 北方の楽器たち(補遺2) 千島? 釧路? のカチョ 2017.8

 

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)14》 荷縄あれこれ(1)


 文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

 

はじめに


 師走を迎えて今年一年を振り返ってみると、いろいろな場面で寄せられたアイヌ文化に関するたくさんの質問が思い起こされます。

 質問の中には、関連する情報を知っていて直ぐに答えることができるものもありますが、ちょっと立ち止まって考えてしまうようなものも少なくありません。そんな中で、「実際はどうなっているのかな……」と思わされ、特に印象に残っているものの一つに、荷物を運搬するときに用いる荷縄-アイヌ語では「タラ」-に関するものがありました。そこで今回からは、何回かにわけて荷縄の使い方やバリエーション、用途に応じた使い分けについて考えてみたいと思います。

 

1.荷縄の使用方法

 

 北海道で用いられる荷縄の大部分は、額に当たる幅広の部分と、そこから両側に伸びる縄からなり(写真1)、長さは2mほどから6mを超えるものまで様々です。幅広の部分は、木綿糸などを編み込んで作られています。この編み込みの技法は、以前このシリーズで紹介した刀帯と同じです。


▲写真1 荷縄の実例(北海道博物館所蔵 27146)

 

 実際に使用している場面を写した写真や映像を参照すると、使い方には大きく分けて、二種類があることが分かります。一つ目は頭で支えるもので、圧倒的に多くの写真・映像がこの姿を移しています(写真2・3・4)。

▲写真2 荷縄の使用方法(1)(写真提供 函館市中央図書館pc002630-0004)


▲写真3 荷縄の使用方法(2)(写真提供 函館市中央図書館pc002648-0001)

 


▲写真4 荷縄の使用方法(3)(写真提供 函館市中央図書館pc002660-0003)

 二つ目は、肩のあたりにかけるもので、細かく見てみると、上腕部の外側にかけている場合と、肩の上に掛けて幅広の部分を両手で持っている場合に分けることもできそうです。

▲写真5 荷縄の使用方法(5)(写真提供 函館市中央図書館pc002633-0004)

 この二つの方法は、①重い荷物を持ち続けると疲れるために持ちかえるという記録が紹介されているほか、満岡伸一さんがまとめた『アイヌの足跡』(増補版)の中に、②軽い物を運ぶ場合には胸にかける(p.24)、また、③他の村に行った場合などの礼儀の一つとして、村人にあった場合には荷縄を額から胸に掛け替え、通り過ぎてから額に戻す(p.130)という記載があります。

 写真5は、八雲町落部にあった「ピリカ会」という団体が、1910年に絵葉書用の写真撮影等を目的に白老を訪れた際に撮影したものと推測され(北海道立アイヌ民族文化研究センター2005)、明らかな「やらせ写真」ではあるものの、あらたまった挨拶をする際に荷縄を頭から外すという習慣を捉えている可能性が高く、貴重なものです。

 

 

2.N.G.マンローの記述から

 

 平取町二風谷に住み、医療活動のかたわらアイヌ文化の研究を行ったニール・ゴードン・マンロー(1863~1942)は、アイヌ文化に関わる数々の重要な記述を残していますが、荷縄については、葬儀の道具についての解説の中に記された、以下の記述が特に注目されます。
“Headband and mittens for the corpse,and black and white cord to lace he mat in which it is wrapped.Headband is woven with three strands instead of four for the living”  (Munro1962:PLATEⅩⅩⅣ)

“Of three articles specially prepared for the dead the most significant is the tara or headband for supporting burdens on the back. The ordinary one has four cords joined to one, but this one has only three”(Munro1962:126)

 この二つの文章は、いずれも、「みみ」などと呼ばれる部位が3本のものが葬儀の際に死者に持たせるもの、4本のものが普段使うものだとしたものです。実は、冒頭に記した「質問」の中身は、このマンローの記載が正しいのだろうか問い直すものだったのです。

▲写真6 「みみ」が4本の例(北海道博物館所蔵 182489)



▲写真7 「みみ」が3本の例(北海道博物館所蔵 22181)

 現段階での私の結論を先に言ってしまえば、「みみ」が3本か4本で葬儀用かそうでないかを厳密に使い分けるという報告はマンローによる上記の記載のほかに、新ひだか町静内などでもあり、博物館等に収蔵される実物資料からもそうした傾向が伺えないわけではないが、全ての資料がその基準で説明できるわけではなく、地域や個人による違いがあったようだ、というものです。次回からは、この結論に至るまでの道筋を、具体的な事例をまじえながら紹介していくことにします。

参考文献

北海道立アイヌ民族文化研究センター2005『ピリカ会関係資料の調査研究』
Neil Gordon Munro1962 「Ainu: Creed and Cult」

月刊シロロ休刊に伴うお知らせ

 エカシレスプリ(古の風習)14では、「荷縄あれこれ(1)」と題した記事を掲載し、続編を予定しておりましたが、休刊に伴い、結論部分を読者の方々にお届けすることがしばらく難しくなりました。
 なお、結論部分は、北海道博物館のホームページにおいて公開している拙稿、「アイヌ民族の荷縄」(下記URL)においてご確認いただけますので、当分の間、こちらをご参照いただければ幸いです。
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2018/04/bulletin_ACRC_vol3_02_p19_50s.pdf

(2018.5.11 大坂拓)

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2

《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する⑶ 2016.3

《エカシレスプリ(古の風習)4》木綿衣の文様をたどる 2016.4

《エカシレスプリ(古の風習)5》小樽祝津のイオマンテ 2016.5

《エカシレスプリ(古の風習)6》噴火湾アイヌの信仰-イコリの神 2016.7

《エカシレスプリ(古の風習)7》刀帯作りあれこれ(1) 2016.10

《エカシレスプリ(古の風習)8》刀帯作りあれこれ(2) 2016.11

《エカシレスプリ(古の風習)9》刀帯作りあれこれ(3) 2017.1

《エカシレスプリ(古の風習)10》刀帯作りあれこれ(4) 2017.3

《エカシレスプリ(古の風習)11》刀帯作りあれこれ(5) 2017.5

《エカシレスプリ(古の風習)12》刀帯作りあれこれ(6) 2017.6

《エカシレスプリ(古の風習)13》昔はどうだった?矢筒の使い方 2017.8

 

 

 

 

 

 

4つの「ピリカの歌」

 

 文:安田益穂 歌:川上さやか

 

 

1.はじめに

 

 最も有名なアイヌの歌と言えば「ピリカピリカ」(「ピリカの歌」とも)ではないでしょうか。北海道観光ブームに沸いて熊の木彫りが飛ぶように売れた時代、各地の観光地やバスガイドさんにも歌われ、音楽の教科書にも載っていました。今でもアイヌ民族博物館の定時公演ではほぼ毎回ご披露していますから(注1)、耳にされた方も多いと思います。

 しかしこの歌、『アイヌ伝統音楽』(日本放送協会、1965年発行)という本には、歌詞はほとんど同じですが、全く違うメロディで4種類の楽譜が載っています。曲調も和風、洋風、アイヌ風とさまざま、伝承地も全道各地、地方によって遊戯歌、子守歌、恋歌などいろいろに伝わっていて、なかなか一言で説明できない曲です。

1.譜57.ピリカ・ピリカ 「観光バスのガイドにうたわれ、レコードにもなった」(p.17)
2.子もり歌 譜304.pirka pirka 釧路地区(白糠) (p.298)
3.子もり歌 譜305.pirka pirka 釧路地区(白糠) (p.298)
4.遊び歌  譜375.tanto siri pirka 胆振地区(登別)(p.390)

 今回は、川上さやかさん(伝承者育成事業4期生)の協力を得て、この4種の楽譜を実際の演唱で聞き比べてみます。それぞれの曲を①楽譜(五線譜)、②電子音、③人の声、という3つの方法で示し、比較します。①楽譜(五線譜)や②電子音では曲のアウトラインを、③人の声では曲の魅力と楽譜にならない実際の節回しを聞いていただければと思います。

 

1.譜57.ピリカ・ピリカ


②電子音で聴く

 

③川上さやかさんの歌で聴く(注2

 最もよく知られているメロディです。1958年に雪村いづみが歌ってヒットし、音楽の教科書にも載って有名になりました。この譜例57には原詞のみですが、広く歌われているのは近藤鏡二郎が日本語歌詞を加えた次のバージョンでしょう。

ピリカピリカ アイヌ民謡(阿寒地方の歌)(注3

 近藤鏡二郎 作詞・採譜
 雪村いづみ 唄

1.ピリカ ピリカ
  タントシリピリカ
  イナンクル ピリカ
  ヌンケクスネ ヌンケクスネ

2.ピリカ ピリカ
  きょうはよい日だよ
  よい子がいるよ
  その子はだれよ その子はだれよ

3.ピリカ ピリカ
  あしたもよい日だよ
  よい子がくるよ
  その子はだれよ その子はだれよ

『全音歌謡曲全集7』(全音楽譜出版社、1995年発行)より


 1番のアイヌ語の歌詞の意味は、およそ次の通りです。

ピリカ ピリカ pirka pirka よいな よいな
タント シリピリカ tanto sirpirka 今日は天気がよいな
イナン クル ピリカ inan kur pirka どの人 よいか
ヌムケ クス ネ numke kusu ne えらびますよ

 

▶メロディの特徴

 最もよく知られているメロディですが、伝統的なアイヌ音楽のメロディとは違います。アイヌの音階には基本的に半音の音程はないものとされています。『アイヌ伝統音楽』には400曲を超える楽譜が載っていて、北海道・樺太各地に伝わる様々なタイプの曲をほぼ網羅していますが、外国人宣教師などがもたらした賛美歌(pp.509-510)などを除けば、半音を含むメロディを見つけることができません(注4)。

▼「ピリカ・ピリカ」の構成音

▶電子音で聴く

 

 登別町での調査のおり、老婆の口から、観光バスのガイドにうたわれ、レコードにもなった“ピリカ・ピリカ”がうたわれて、ちょっと色めきたったことがあった。

 というのはこの歌は本当はアイヌの歌ではなく外人宣教師が部落の子供達に教えた遊戯歌であることがあきらかになっており、事実私達はそれまでにどの古老の口からも伝統的なアイヌの歌としてこのメロディを聞いたことがなかったからである(同じ歌詞で別の旋律を採集している、遊戯歌の譜例375を参照のこと)しかしよく聞いてみると実は温泉で街頭のスピーカが流すレコードを聞いて憶えたということで、突如、アイヌ民族が短音階の音組織をもつという奇跡はおこらなかった。

谷本一之「アイヌ音楽について」(『アイヌ伝統音楽』p.17)


 譜例57は、曲の最後がラで終わっているので、西洋音楽の短調(A minor)と思われますが、「さくらさくら」などと同じ日本の伝統音楽の都節(陰音階)とも考えられます。皆さんには洋風、和風、どちらに聞こえるでしょうか。

 しかし、白老には「ピリカ・ピリカ」(ピリカの歌)とほぼ同じ音階を使ったアイヌの歌が他にもあります。「イヨハイオチシ(哀傷歌)」です。これはファは出てきませんが、ミラシドの4つの音から構成されていて、似た曲調になっています。この短調のようなメロディは、あるいは近年の外来音楽の影響でしょうか。歌詞は典型的なアイヌの恋歌で、愛しい人に会えないつらさを歌った歌です。

▶電子音で聴く

 

▶動画で見る(9:08から)

 

 

2.譜304.pirka pirka(白糠)

 

 譜304と次の譜305は、いずれも釧路地方の白糠で採録されたものです。採譜の元になったと思われる音源が残っていて、白糠の2人の女性が連続して歌っています(注5)。紹介した川上さやかさんの演唱は、テンポの細かいズレも含め、その音源を見事に再現しています。原譜は筆者には疑問に思える点が多いので(特に譜305はなぜ2/4拍子なのか、とか)、筆者が採譜した参考譜も併せて紹介します。

▼原譜(p.298)

②-1電子音で聴く

 

▼参考譜

②-2電子音で聴く

 

③川上さやかさんの歌で聴く

 

 

3.譜305.pirka pirka(白糠)

 

▼原譜(p.298)

②-1電子音で聴く

 

▼参考譜

②-2電子音で聴く

 

③川上さやかさんの歌で聴く

 

▶メロディの特徴

 譜304、譜305に共通して特徴的なのは、まず8分の6拍子という日本の伝統音楽にない拍子と、最低音の「ズレ」が生む減音程で、両者が相まって、独特の浮遊感を生み出しています。

基本的には3つの音からできていますが、最低音(楽譜ではド#)は不安定です。原音源の演唱者のクセかと思われますが、クセにしては二人とも同じくド#に聞こえます。

▶歌詞について

 譜304、譜305は、基本的には同じ曲と思われますが、歌詞が少し違います。これについて『アイヌ伝統音楽』には、次のような解説が載っています。

 

イフムケ 釧路地区・白糠和天別 (譜304)
pirka pirka よいな よいな
tonto siri pirka きょうは天気がよいな
pirka pirka よいな よいな
inan kuru pirka どの人 よいか
pirka pirka よいな よいな
i nan kur ku nunke どの人選らぼ

 白糠では古くから子もり歌にうたわれたものであるといい、人によっては、

(譜305)
pirka pirka よいな よいな
tanto siri pirka きょうは天気がよいな
pirka pirka よいな よいな
inan kur pirka ya どの人よいかな
pirka pirka よいな よいな
tanto siri pirka きょうは天気がよいな
inan kur pirka ya どの人よいいかな
ku nunke kusu 私がえらぶのに
ともいう。元来アイヌは固定した歌詞にとらわれることなしに、自分の発想にしたがって自由に歌詞を改めることが多いから、この場合うたう人によってちがうことは少しも差支えないが、一般には先の例でうたわれている。
 ただこれが昔から子もり歌であったかどうかに、多少疑問がないわけではない。同じ釧路地区でも鶴居村下雪裡では子もり歌ではなく、子供達の遊びの歌であったと伝えられ、それを裏付けるように、旭川近文部落では、子供達が手をつないで輪になり、この歌をうたっている外を、一人の子供が小さな布をもって走りまわり、誰かの肩に布を置いて、一回りしてくるまで、布を置かれた子が気づかずにいると鬼にされたり、鬼が目かくしをして輪の中に入り、皆がこの歌をうたいながらぐるぐるまわり、歌が終ったとき鬼の前にいる子供が誰であるか、手さぐりであてる遊びもある。また同じように鬼のまわりをうたってまわり、歌の終ったとき、鬼が誰かを指さして、
「フンナ ピリカ(顔がきれいだ)」
という、指さされた子供がきりょうよしだと鬼になるが、そうでないときは何度もあたるまで、鬼をさせられる遊びもある。
 しかしまた一方北見の美幌では、子もり歌でも子供の遊び歌でもなく、若い男女の逢曳きの歌であるともいわれている。
 そのどれもその地方には、本当であるのかもしれない。それほど幅の広い歌であるといった方がよいようだ。
(『アイヌ伝統音楽』p.299-300)

 

 

4.譜375.ピリカ・ピリカ(胆振地方・登別)


②電子音で聴く

 

③川上さやかさんの歌で聴く

 

▶メロディの特徴

 ファの音は出てきませんが、西洋音楽の長調と考えられます。ギターやピアノを少し弾ける人なら、その場で主要三和音(スリーコード)の伴奏がつけられそうな曲調ですね。筆者には4つの中で最も洋風な感じがします。『アイヌ伝統音楽』には、次のような解説が載っています。

昔からアイヌの間にあった歌であるが、函館のアイヌ学校では、生徒が手をつないで輪になり、ぐるぐるまわってこの歌をうたい、うたい終わると「ワン トゥー スリー」といって、早く坐るものが勝という遊びをしたという。これはもちろん宣教師の色彩も加わっているが……(略)
『アイヌ伝統音楽』p.390

 

 

5.まとめ


 譜57のところで引用した「外人宣教師が部落の子供達に教えた遊戯歌」(p.17)というのが、結局短調の譜57なのか長調の譜375なのか、解説からは不明ですが、この2つは元々のアイヌのメロディではなさそうです。一方、白糠で採録された譜304、譜305はアイヌ伝統音楽と考えて間違いないと思います。その2つも、メロディも歌詞も違いますが、おそらく同じ曲を別の人に歌ってもらったというだけで、本人たちは「同じ曲」と認識していたと想像します。さらに、304は2回くり返して歌っていますが、1回目と2回目で少し違う箇所があります。

 このような違いは、学校の音楽の授業やピアノ教室などでは「間違い」とされて減点の対象でしょうが、アイヌの音楽は世界の民族音楽の大半がそうであるように、即興性が強いのが特徴です。

 今回は「ピリカピリカ」を取り上げましたが、例えば「チュプカ ワ カムイ ラン」等の歌詞を持つ「ウポポ」(座り歌)は各地にありますが、メロディは大きく異なります。地域によって、あるいは人によって、違うのが当たり前。アイヌの物語と同様、アイヌの音楽は口承文芸ですから、個人のアレンジが入り込む余地が大きいのです。

 ただし、「ピリカピリカ」については、短調風のメロディでレコードや楽譜に固定化されたことが、その後に大きく影響していると思われます。つまり譜57のメロディは、アイヌ自身が選択したというより和人の間で有名になり、観光客から「雪村いづみのピリカピリカうたって」となり、歌うと喜ばれる、という事情があったのではないでしょうか。アイヌ民族博物館でも、もう60年も前に流行した歌で、雪村いづみを知る人がほとんどいなくなった今も「お客さんが喜ぶから」という理由で歌われ続け、今に至っています。「ピリカピリカ」は有名なアイヌの歌ですが、代表的なアイヌの歌とは言えないだろうと思います。

 最後に、素敵な歌を録音させてくれた川上さやかさんに、心より感謝します。



(注1)アイヌ民族博物館では「ピリカの歌」の曲名で紹介しています。定時公演とは、毎時15分から実施している公演のことで、年間約3000回、一日8回の公演を行い、毎回①ムックリ演奏、②ピリカの歌、③イヨマンテリムセ(熊の霊送りの踊り)、プラス1曲程度が通常の演目となっています。ただ、「ポロトコタンの夜」等の特別公演では、「ピリカの歌」は外れるのが常です。

(注2)この川上さやかさんの歌は、幼い頃から家族や親戚と一緒に歌ってきた歌い方だということです。

(注3)「阿寒地方の歌」となっています。筆者が白老に着任したころには「学校の先生が、明るい心を持たせるようにと作ったのがこの歌で、本当は白老で出来た歌です」と司会者が紹介していました。

(注4)これ以外では、譜306「ho chipo chip」(沙流川流域・荷負)の子守歌が半音を含む唯一の例です。ハ長調(C-major)の楽譜では、通常はファとシの音が出てきません。

(注5)譜304と譜305で拍子が違うのは不自然なので、あるいは採譜した人が違うのかも知れません。また、音源と譜を見比べると、譜304はほぼ同じですが、譜305の4段目はかなり違います。採譜に使った音源が違う可能性もないわけではありません。

参考文献

日本放送協会編 1965:『アイヌ伝統音楽』(日本放送出版協会)

甲地利恵 2007:「『ピリカピリカ』はアイヌの歌?」『アイヌ民族文化研究センターだより No.26』

「ピリカピリカ(阿寒アイヌ民謡)」『全音歌謡曲全集7』PDFダウンロードサイト

 

[ポロトコタン私史 バックナンバー]

1.樹齢20年のカツラ 2017.1

2.1996-1997 チセ火災と再建の3カ月 2017.2

3.アイヌ民族博物館デジタルアーカイブのいま 2017.6

4.コタンのデジタル事始め 2017.9

5.チセプニ「家を持ち上げる」1998 2017.11

 

[トピックス バックナンバー]

1.「上田トシの民話」1〜3巻を刊行、WEB公開を開始 2015.6

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3.第29回 春のコタンノミ開催 2016.5 

4.アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブを公開 2017.5

5.必携書が身近に! 萱野、田村両アイヌ語辞典をネット配信 2017.7

 

 

【儀式見学の予備知識 バックナンバー】

1.式場とマナー 2016.6

2.祭神⑴ 家の神々 2016.7

3.祭神⑵祭壇の神々 2016.8

4.儀式の日程と順序⑴開式まで 2016.9

5.儀式の日程と順序⑵開式からの流れ 2016.11

 

[資料紹介]バックナンバー

1.映像でみる挨拶の作法1 2015.10

2.映像でみる挨拶の作法2「女性編」 2015.11

3.映像で見るアイヌの酒礼 2016.1 

4.白老のイヨマレ(お酌)再考 2016.3

 

[今月の絵本 バックナンバー]

第1回 スズメの恩返し(川上まつ子さん伝承) 2015.3

第2回 クモを戒めて妻にしたオコジョ(川上まつ子さん伝承) 2015.4

第3回 シナ皮をかついだクマ(織田ステノさん伝承) 2015.5

第4回 白い犬の水くみ(上田トシさん伝承) 2015.7

第5回 木彫りのオオカミ(上田トシさん伝承) 2015.8

 

 

 

 

 

 

《資料整理ノート》アイヌ文化における「ラヨチ(虹)」について


 文:木幡弘文

▲写真1 今年の11月11日、出勤時にポロトコタンのチセ上空に現れた虹 撮影:安田千夏

 

はじめに


 私は現在、博物館に収蔵されている映像の文字起こしを行っており、その映像資料の中で「ラヨチ(虹)」について、不吉なものとして語られる場面がありました。私はなぜ虹が不吉とされているのかに疑問を持ち、日高地方の資料について調べてみることにしました。

 

1.文献の中にみるラヨチ


 まず文献ではどのように記載されているのか、以下に紹介します。

Ⅹ 虹に追いかけられた時の呪文

20.日高国新平賀(シンピラガ)村注1の例

 虹(ラヨチ rayoci)は、もと、天下を領する神の妹であったが、esimkep(注2)というものを、本当なら白い蕁麻(イラクサ)で拵えなければならないのに、いろいろな色の布切を寄せ集めて作ったので、神罰を受けて、魔物になった。人を見かけると追っかけて来ることがある。或老婆が虹に追っかけられて、到頭追いつかれ、前へ押倒された。その時虹は老婆の背中に馬乗りになったが、何かよく乾せた馬の皮でも揉むようにがさがさと音がして、非常に臭かった。虹に追われた者は、仮りに助かっても、貧乏者になるという。

(知里1973 P.16-17)

気象

 虹をラヨチ rayociという。昔、女は嫁に行く前に、母からポン クッ pon kut(下帯)を作ってもらい、それを着けて嫁に行くのが習慣であった。ラヨチという娘は親の言う事を聞かず、いろいろな色の絹(サラムペ sarampe)でポン クッを編んだ。それを聞いた神が怒り、懲らしめようと(アパカシヌ apakasnu)虹にしてしまった。だから虹をラヨチと呼ぶようになったのだ。天気が良いのに雨が降ると、ラヨチが悲しくて泣いている(チシ cis)んだと言われていた。(沙流)

(北海道教育委員会1988 P.50)

 虹をラヨチ rayoci という。虹に指さすと、指が腐るとか、指させば追いかけて来るから、指さすものでないと言われて子どもの時、脅かされた。虹が出たら、追われないように虹に向かって、鎌で切る真似をするとよい。また、土の上に虹を描き、棒で切る真似をするとよい。(千歳)

(北海道教育委員会1990 P.80)
rayoci 【名】虹; 不吉なものとされ,指差すと指が腐るといわれる。また非常に臭いものであり、その匂いで人も殺すといわれる。
(中川1995 P.410)

 

 文献ではラヨチは妖怪、魔物の類であり、人を襲う場合があることとその撃退法が書かれていました。

 

2.物語の中のラヨチ


 次にアイヌ口承文芸で、ラヨチはどのように描かれているか、当館で公開されているあらすじから数例を紹介します。

村長の息子と貧乏人の娘

 ある冬の日の夜のこと、明け方に目が覚めて、いつもは用を足したいと思ったことなどなかったのに、何故かその日に限っておしっこがしたくなりました。起きて外のトイレにいって用を足していると、なんと私が用を足したところから白、青、赤色の虹が現れ、弧を描いてユウベツの川上の村の上端にある村長の家の屋根に突き刺さる様子を見たのでした。恐くなって家に入り、誰にも何もいわずに、ただ火の神様にはひそかに助けを求めて祈りました。

(静内 織田ステノ アイヌ民族博物館 2015)

オタスッの村を再興する兄妹

 (ある村の村長が語る)長男が私に「弟の家の上で黄色の虹、赤色の虹、白色の虹がたくさん光っている。どう思いますか」とたずねた。

(静内 織田ステノ アイヌ民族博物館 2015)

雷神とポロシリ岳の神(アンナホーレ)

 (雷神が語る)私はすっかり腹を立てて、ゆりかごの端を叩き、ゆりかごの紐を締めると、あくの虹、おきの虹が現れて村の上端から下端まで燃やし尽くしてしまいました。

(沙流 川上まつ子 アイヌ民族博物館 2015)

 物語中のラヨチでは妖怪、魔物としてではなく、不思議な現象として描かれていました。
 あらすじを読み進むと、どれも神が関係していることに対して興味が尽きませんでした。

 

3.映像・音声資料のラヨチ


 では次に、博物館収蔵の現在進行形で整理中の資料からラヨチについて紹介します。

 

3-1.映像資料


資料名:DV0185_27105
撮影年:1997年8月27日
語り手:黒川セツ(平取町)、上田トシ(平取町)
聞き手:萩中美枝、村木美幸、安田千夏
採録地:アイヌ民族博物館2階

黒 川「ラヨチ(虹)、うちのフチ(ばあちゃん)とセタナイ沢(注3)に、ちょっとした畑、うちのフチはどこにでも山に行って畑つくるもんだから、そこに連れられていったのよ、子供の頃にね。まだ学校行ってるか行ってないかぐらいでね、そして『フチ天気雨降ってきた』って言ってたっけ虹が出たの。そしてその虹が出たときに指さすと指が腐るっちゅうんだよ。昔の人はね。こうやって『あれあれ』っていったら指が腐るんだから、『あれあれ』っていうもんでない言うんだわ。」

上 田「昔そう言ったもんだもんね。」

黒 川「本当にそう思っておっかないから、あれって言わないでね『フチあれ虹出たわ』って言ったの。そしたら今度ね、虹がだんだん下がって、畑の方さ映るようになったの。そして『フチ、あの山も、虹がね、山さおりてきたわ』。畑さおりてきたうちのフチ、おっかないもんだから『さぁ帰る帰る』って言って。今度ね、鎌持って、そしてなんだかかんだか言いながらね、アイヌ語でだよ。パシロタ(罵倒)しながらその鎌持ってこういうふうにして(手を振り下ろす動作)。そして沢渡るときに、沢もやっぱりなんか言って、それからわし家に帰ってきたことあるもんでね。子供の頃虹に追われたことある。」

村 木「それで虹にね、追っかけられてけがしたとか、病気になったとか、死んじゃったとかそういう話は?」

黒 川「それは聞いたことないね。」

村 木「実際指さして指が本当に変になったとかそういう話も聞いたことはない?」

黒 川「ないない。だけどそれなんかの意味でも昔の人はね、その虹に指さすと指腐るっていうことは何かの意味があると思うんだけど。その意味とかそういうことは説明しないけども、やっぱり『あぁ、虹出たよ』って言ってこうやって指さしたら指腐るって、だからおっかないからもう虹でたら絶対『あれ、あれ』ってこうやって指ささないの(握りこぶしで方向を示す)。」

上 田「指さしたら指腐るとかって、イヨクペ(鎌)がおっかながるんだつって。」

黒 川「イヨクペね」

上 田「イヨクペこう、エタムタララ(〜を高く持ち上げる)ってこうやって持っていればいいんだとかって昔の人がたも…(中略)虹が出てきたら「フンナ エモト オロケ エラムペウテク ネン カ エラムペウテク クナク エラム コロ エエク シリ(だれがおまえの素性を知らない、誰も知らないと思っておまえは来たのか)って言いながらイヨクペ アニ(鎌で)こうやればそのイヨクペ、本当になんだかうそなんだか知らんけど、それしないばシリ クムラクムラ コロ エク ラヨチ エク(あたりにゴーゴーと地震の地鳴りのような音をさせて来る。虹が来る)とかって、うそだわね。」

萩 中「いやいや、それ本当なんだ。私もね本当にねおばあちゃまたちから聞いて、私も一緒に隠れたもの、追っかけられないうちに逃げるって隠れたもの。」

安田千「シリ クムラクムラっていうのはここグワーって…。」

上 田「うん、そうそう。」

安田千「地震でこうなってるんでしょ? ラヨチのモトホ(素性)っていうのは…。」

上 田「ホ(はい)?」

安田千「ラヨチのモトホが本当にわかってて言っているんじゃないんだもんね?」

上 田「うん、その自分のモトホがわかる…ラヨチ モトホだれもわからないと思って来てるのかっていうの、あんまりいいもんでないんだべさ。」

黒 川「そのかわり、神さんだったんでない? 神さんでなくウェンカムイ(悪い神)さ。」

上 田「いいもんでないからだべさ。ラヨチ出ればアプト アシ(雨が降る)(中略)ナニ ニシクル アン アプト アシ。アプト アシ テク コロ ナニ シリ ピリカ(間もなく雲が出て雨が降る。ちょっと雨が降るとすぐに天気がよくなる)。」

上 田「これからだもね?」

黒 川「うん。」

上 田「秋かたの話。」

黒 川「そうだ秋かたで。」

上 田「ラヨチ ヘトゥク(虹が出る)。」

 

 この映像では以下の点が話されています。
 a.昔虹に追われた時の話
 b.その時の対処方法
 c.虹から危害が加えられたかどうか
 d.虹の弱点
 e.実際に虹が出るときの気象条件

 aとbは昔黒川セツ氏が小さい頃、祖母に連れられて畑へ出た時に虹に遭遇。だんだんと近づいてくるために逃げると追いかけてきたので、鎌を虹に向かって振り、まじないを唱えながら逃げたというお話です。

 cは実際に虹に指をさして指が腐ったなどの危害があったかどうかの話ですが、それは黒川氏は聞いたことがないそうです。

 dは同席していた上田トシ氏のお話で、虹と風は鎌を怖がるということで、対処する場合は鎌を振ればよいと言っています。また、黒川氏は風除けとして干し竿などの先に鎌を吊るしておくという話もされています。

 eは実際に虹が出た際の状態について「虹が出たらすぐに雨が降る」と上田氏が話しています。また、黒川、上田両氏とも秋が虹の頻出する時期だとも語っています。

 

3-2.音声資料

 

3-2-1.

資料名: 35112A 西島テルの伝承 魔物とおはらい
採録年:1986年10月15日
語り手:西島テル(平取町)、川上まつ子(平取町)
聞き手:伊藤裕満
採録地:平取町荷負本村

西 島「昔は、昔の人いた時は、はらうのにはソコニ(エゾニワトコ)。ソコニ ヌサ(エゾニワトコの祭壇)、チクペニ ヌサ(イヌエンジュの祭壇)、ノヤ ヌサ(ヨモギの祭壇)、ケネ ヌサ(ケヤマハンノキ?の祭壇)。ウェニナウ(悪神へ捧げる木幣?)のヌサ(祭壇)も作って、そのヌサ ピシ ピシ(祭壇ごと)で、こういうふうにこういうことあっておはらいするからどうかお力になって下さいって、アイヌ言葉で願って。そこにそのおはらいする女、ウェニナウのとこにもやっぱりタクサ(手草)っていうものあって、ノヤでも、フレアユシニ(イチゴの木)、イチゴなる、とげのあるフレアユシニ一番…。そのポタラ(おはらいをする)にいいんだ、魔物はらうのに。そしてそのソコニ ヌサ…あの、チクペニ ヌサ、ヌサ ピシ ピシでおはらいして、魔物よけるの」

3-2-2.

資料名:34674A 川上まつ子の伝承 葬式に関する習俗
撮影年:1986年10月29日
語り手:川上まつ子(平取町)
聞き手:伊藤裕満
採録地:アイヌ民族博物館

伊 藤「どうしてこのウウェペケレ(散文説話)で、カシカムイ エウェン(憑き神で悪くなる)するって出てくるんだろうね?」
川 上「ウェンプリコロ(悪い行いをする)したメノコ(女)、シキナ(ガマ)にアカラ(~にされる)したので。あの…西島さん言っていた、ウェン プリ コロ メノコ ラヨチにアカラ(悪い行いをした女が虹にされた)したっていうみたいに、シキナにアカラしたもんで…」

 

 ここでは虹に捕まった際にどのような道具でおはらいをするか、そして行いの悪い娘が罰を与えられてラヨチになるという伝承が語られています。

 

おわりに

 

 改めてまとめる次のようになります。

 ⑴ ラヨチは妖怪・魔物の類。

 ⑵ 婚前の娘が言う事を聞かずに多彩な下紐を作ったことに神が怒り、罰せられた娘がラヨチとなった。

 ⑶ ラヨチはくさいにおいを発しており、そのにおいで人を殺すことができる。

 ⑷ 人を追いかけて危害を加えてくる。

 ⑸ ラヨチに指をさしてはいけない。指をさした場合、より一層追いかけてきたり、指が腐るなどの危害が及ぶ。

 ⑹ ラヨチに憑かれるまたはおおいかぶさってきた場合「口が曲がる」や「貧乏人になる」などの被害がある。

 ⑺ ラヨチは鎌を嫌っている。

 ⑻ 基本虹は悪いものとして扱われているが、口承文芸では必ずしもそうではない。

本稿で見えてきたのはラヨチの二面性でした。

 ラヨチは「妖怪・魔物のラヨチ」「現象のラヨチ」に分けることができ、前者は意思を持って人を襲う行動をとるのに対し、後者は神との関係性を示唆する現象であり、ラヨチの意思が読み取れるような描写はありませんでした。

 アイヌ口承文芸には「怠け者の子供が月に行かされる」という罰などが見られますが、虹に変化させられるという罰については、虹についてのプラスイメージが邪魔するのか、ピンときませんでした。その答えを探していろいろ調べてみたつもりですが、必ずしも虹が悪いものであるとは言い切れず、まだ判然としないでいます。

 最後に、本稿では道南、道央のデータしか拾えておらず、その他の地域の資料は見つけることができませんでした。口承文芸でも「悪い虹」についての話があってもいいような気がしますが、未確認です。
 いつか虹に追われたときのためにも、これからも調べを進め、虹の素性を解き明かしておきたいと思っています。

(注1)「新平賀町」は現在の沙流郡日高町平賀。
(注2)詳細不明。女性が衣服の下に身につける「下紐」か。
(注3)沙流川上流域の小さい沢。

参考・引用文献

服部四郎 1964『アイヌ語方言辞典』岩波書店
知里真志保 1973 『知里真志保著作集 第2巻』 平凡社
北海道教育委員会 1988 『昭和63年度 アイヌ民俗文化財調査報告書 Ⅶ』
稲田浩二・小澤俊夫 1989『日本昔話通観 第1巻 北海道(アイヌ民族)』同朋舎
北海道教育委員会 1990 『平成元年度 アイヌ民俗文化財調査報告書 Ⅸ』
中川裕 1995 『アイヌ語千歳方言辞典』 草風館
田村すず子 1996『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
萱野茂 1998 『萱野茂のアイヌ神話集成 第3巻 カムイユカラ編 Ⅲ』 平凡社
アイヌ民族博物館 2015 『アイヌと自然デジタル図鑑』
萱野茂 1996『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂

[バックナンバー]

サパンペ(儀礼用冠)の製作について(木幡弘文) 2017.2

《映像資料整理ノート1》川上まつ子さんのサラニプ(背負い袋)づくり 2017.6

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《アイヌの有用植物を食べる 7》 コウライテンナンショウ

 

 文:新谷裕也

 

はじめに


 12月に入り、連日の寒気でポロト湖が凍り、すっかり冬の景観になりました。野草たちは春の準備を済ませ、今は土の中で眠っています。今回は、秋~冬にかけての時期にしか味わうことができない植物、コウライテンナンショウ(注1)を紹介します。

 

1.コウライテンナンショウとは

 

▲写真1:コウライテンナンショウ

 コウライテンナンショウはサトイモ科テンナンショウ属の植物で、秋には赤くて小さな実をトウモロコシのようにつけます(写真1)。この真っ赤な実をつけた姿がたいまつに見えることから、「ヘビノタイマツ」とも呼ばれています。また茎にはヘビのようなまだら文様があります。コウライテンナンショウは雌雄異株(注2)ですが、テンナンショウ属は栄養状態によって性転換するという不思議な植物です(梅沢2007)。実はとても危険な毒草で、以前紹介した「ヒメザゼンソウ」(月刊シロロ8月号)と同じシュウ酸カルシウムを多く含んでおり、処理せずに食べてしまうと、口や喉がはれてひどい場合には呼吸障害や消化器障害を起こします。更に、球根や茎を切った際に出る液体が肌につくとかぶれることもあります。サトイモ科の植物はこの毒性を多く含んだ植物が多いのですが、伊豆諸島ではサトイモ科のシマテンナンショウをヘンゴと呼んでおり、その球根から取れるデンプンで団子を作って、なるべく噛まないで食べるという食習慣があるそうです。また漢方では「天南星」といい、球根を輪切りにして乾燥させたものを生薬としました。

 アイヌ語では「ラウラウ」と言い、果実を薬用、球根を食用とします。更に、この毒素を利用して狩りに使う矢毒の材料として、トリカブトと一緒に混ぜていました。食用とする場合は、霜がおりて茎が倒れた頃に地面を掘って球根を取ります。この時期になると球根にある毒が一か所に集まるので、この毒の部分を取り除けば、おいしいデンプンの部分だけが残ります。そのデンプンを焼いたり蒸したりして食べました。樺太でもご飯に入れて食べたり、球根をつぶして油と混ぜて食べていたそうです(更科1976)。その他にも、実を腹痛の薬として噛まないで飲み込んだり、一か所に集まった毒の部分には虫下しの作用があるとされ、舌に触れないように丸呑みしたと言われています(知里1953) 。

 

2.コウライテンナンショウとヤマブドウ


 アイヌ文化で、テンナンショウで中毒した場合は、ヤマブドウの汁を解毒剤として飲むと良いという伝承があります。それは、次のようなものです。

 『大昔、ヤマブドウとエゾテンナンショウとが決闘してヤマブドウが勝った。そこで、ヤマブドウは大いばりで、木の上に登り、エゾテンナンショウは面目がないので、地中にもぐってしまった。今でも、十分に成長した球茎には、その時ヤマブドウに切られた跡があるそうである。山からブドウやエゾテンナンショウを取って来る時、それらを同じ袋に入れて持って来てはならぬとも言われている。』(知里1953)

 

 実際に試したことはないので、本当に効果があるのかはわかりませんが、コウライテンナンショウとヤマブドウには何かしらの特別な関係があるのではないかと思いました。ヤマブドウには本当に解毒効果があるのか実際に試してみたいところですが、大量に摂取するのは危険なので少量で試してみたいと思っています。

 

3.採取


 今年の11月半ば、アイヌ民族博物館にある野草園のコウライテンナンショウを採取して食べてみました。

 

3-1.使用する道具


〇ショベル
〇根ほり道具(シッタプ)

 今回はこの2つの道具を使って掘りました。ショベルはどこにでも売っている普通の物で、シッタプは鹿角で作ったものです(写真2)。

▲写真2:左:シッタプ 右:ショベル

 

3-2.採取


 茎がまだ立っている時期は、その茎の下を掘ればコウライテンナンショウの球根は簡単に取ることができます。しかし採取する時期は霜がおりた頃なので、ほとんどの茎は倒れてしまいます。そこで茎が倒れる前にあらかじめ目印をつけておくと採取しやすいのです。今回は採取した時期が11月半ばで、茎もほとんど倒れていましたが、野草園に植えてある株なので、どこに埋まっているかだいたいわかっていて、簡単に採取できました。

1.地面をショベル又はシッタプで掘る(写真3)
 この時あまり深く刺すと球根に刺さってしまい崩れるので注意します。
▲写真3:シッタプで土を掘る
 
2. 球根の頭が出てきたら手で優しく掘り起こす
 無理に取ろうとするとつぶれてしまったり、球根が欠けてしまったりするので、優しく掘り起こします。今回は7個採取しました(写真4)。
▲写真4:採取したコウライテンナンショウ

 

4.調理方法

 

4-1.下処理


 コウライテンナンショウの球根には、先述の通り毒の成分が含まれていますが、霜がおりて茎が枯れてくると毒が一か所に集まります(写真5)。アイヌはこの一か所に集まった部分を取り除き、蒸したり焼いたりして食べました。毒の部分を取り除くのに、特に特別なことはしません。ですが、前述したように切った時に出る液体が皮膚につくとかぶれるので、手袋をした方が良いでしょう。

▲写真5:赤い丸の中が毒の部分

①球根を水洗いする(写真6)

水で泥を流して、球根についている薄皮を剥がします。

▲写真6:水洗いして土と薄皮を取る

②毒の部分を取り除く

 毒は(写真7)のようにくりぬければ良いのですが、難しい場合は縦に半分に切ってから毒の部分だけをくりぬきます。毒は黄色くなっているのでわかりやすいです。

▲写真7:毒をくりぬく

 

4-2.調理


 調理と言ってもただ蒸したり焼いたりするだけです。今回は蒸しと焼きの2種類の調理法を紹介します。

〇蒸しコウライテンナンショウ

①切って毒をくりぬいた球根を蒸します。鍋にカヤを(写真8)のように渡して、その上に球根を毒の部分を伏せるように置きます。鍋に少量の水を入れて蓋をして火にかけます。(蒸し器があれば使うと簡単)毒の部分を伏せるのは、蒸している間に残った毒が抜けるからと言われています(注3)。

▲写真8:カヤを渡してコウライテンナンショウを置く

②箸が通るほど柔らかくなったら完成(写真9) 。

▲写真9:蒸しコウライテンナンショウ

〇焼きコウライテンナンショウ

 ①焼きの場合は毒の部分もそのままアルミホイルで包み、いろりの灰に埋めて焼きます(写真10) 。

▲写真10:囲炉裏に埋める

②1時間ほど経って柔らかくなったら茎の下にある毒の部分を取って完成(写真11)。

▲写真11:焼きコウライテンナンショウ

 

5.味


 焼きも蒸しもホクホクして歯ざわりがとても良く、球根とは思えないほどまろやかで甘くておいしいものです。栗とサツマイモを合わせたような味がすると言われていたので、本当にそんな味がするのか疑っていましたが、まさにその通りの味でした。どちらかというと、焼きの方が香ばしくて、筆者はジャガイモやサツマイモよりもおいしいと感じました。ですが、食べて数秒後にヒメザゼンソウのときに経験した以上に口の中が痛くなりました。採取したのは11月半ばで、霜もおりて完全に茎が倒れてからに採取したのに、毒は一か所に集まりきっておらず、まだ残っていました。痛みが来るまでは本当においしいと思っていたので、とても残念でした。

 

6.考察


 採取時期は記述されている時期とほぼ同じなのに、今回なぜ毒が残っていたのか、考えられる理由を挙げてみようと思います。

①採取時期が遅すぎた

 採取時期が遅かった可能性もあります。多年草であるコウライテンナンショウは、秋になると冬支度をして春に備えます。その影響なのか、この時期に茎の下の部分に毒が集まります。集まった毒の成分は春になるとまた拡散するらしいのですが、その拡散するタイミングが気温や天候で早まった可能性もあります。

②環境の違い

 野草園に移植されたものは自然界とは環境が違うので、毒が集まる時期が変わった可能性があります。もしかしたら、栽培したものは冬支度をする時期が遅いのかもしれません。又は毒が強すぎて、集まっても完全に集まりきらないのかもしれません。

③移植したばかりだったから

 これは後からわかったことなのですが、食べたコウライテンナンショウは1か月ほど前に移植したばかりの球根だったそうです。もともとあった場所との栄養の違いなのか、冬支度ができなくて毒が一か所に集まらなかったのかもしれません。

④個体差がある

 毒が弱いものもあれば、強いものもあるし、集まっているものもあれば集まっていないものもあるのかも知れません。この理由が一番面白くもなんともありませんが、ここ数年間の経験からしてもあり得ることのような気がしました。

 

7.まとめ


 コウライテンナンショウの毒が秋になると一か所に集まるという知識はアイヌ文化にしかありません。更に食べる時期に関しては明確に書かれている資料がなく、「秋に食べる」「霜がおりて茎が倒れたら食べる」という程度のものでした。コウライテンナンショウの食べ方をより詳しく伝承していくために、今後はアイヌ文化に関してだけではなく、コウライテンナンショウという植物について詳しく調べていこうと感じました。

 

おわりに


 コウライテンナンショウについて可能な限り調べてから採取したにも関わらず、毒が集まりきっていない理由は結局わからないままでした。しかし、これから経験を積んでいくなかでわかることがあるのかもしれません。今回はおいしいと感じたのは本当に一瞬で、後は痛い思いしかしていませんが、次はおいしく食べれるようにもっと詳しく調べていこうと思いました。

追記

 アルミホイルで包んで焼いたコウライテンナンショウが生焼けだったので、火を通すためにラップで包んで電子レンジで加熱してみました。すると、ほくほくしていた歯触りが、茹でた玉ねぎのようにしんなりシャキシャキに変わり、味も悪くなっていました。更に毒が全体に回ったのか痛みが強くなったような気がします。結果として、コウライテンナンショウはレンジで加熱するととんでもなくまずくなるということがわかりました。

 

(注1)資料によっては「エゾテンナンショウ」と書かれていることもあるが、同じ植物を指しているので、本稿では梅沢2007の表記に倣いコウライテンナンショウとする。

(注2)雄と雌で分かれている植物。

(注3)この調理法は『日本の食生活全集 聞き書アイヌの食事』を参考にした。

参考文献・データ

・知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
・更科源蔵、更科光『コタン生物記Ⅰ樹木・雑草篇』法政大学出版局(1976年)
・『日本の食生活全集 聞き書アイヌの食事』社団法人農山漁村文化協会(1992年)
・福岡イト子『アイヌ植物誌』草風館(1995年)
・梅沢俊『新北海道の花』北海道大学出版会(2007年)
・アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)

 

[バックナンバー]

《伝承者育成事業レポート》イパプケニ(鹿笛)について 2017.1

《アイヌの有用植物を食べる》1 オオウバユリ(前) 2017.6

《アイヌの有用植物を食べる》2 オオウバユリ(後) 2017.7

《アイヌの有用植物を食べる》3 ヒメザゼンソウ 2017.8

《アイヌの有用植物を食べる》4 ヒシ 2017.9

《アイヌの有用植物を食べる》5 キハダ 2017.10

《アイヌの有用植物を食べる》6 チョウセンゴミシとホオノキの実 2017.11

 

 

 

 

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