ヘッダーメニューここまで

ここからメインメニュー

  • 自然図鑑
  • アイヌ語辞典
  • アイヌの伝承
  • 物語や歌
  • 絵本と朗読
  • 語り部
  • スタッフ

メインメニューここまで

サイト内共通メニューここまで

ここから本文です。

月刊シロロ

月刊シロロ  2月号(2018.2)

 

 

 

 

 

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)26》
  これってどこの文様? ウイルタ文様・ニヴフ文様・アイヌ文様

 

 文:北原次郎太(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)

 

 

文様一覧 静止画(答え)→

 

▲アイヌ文様のみ鷹部屋(1941)より ほかの文様は山本(1943)より 
 ※以下、文献から引用する図版等は、配置やコントラストを変更していることがあります。

 

要旨

・樺太やアムール川流域の先住民は樹皮や魚皮を使って切り抜き文様を作ってきた。

・アイヌとより北方の民族の文様は、要素は共有しているが、構成の仕方にはそれぞれの個性がある。

・近年、ウイルタやニヴフの文様構成を模倣したものが「アイヌ文様」として流布している。

 

 

 今年はヤウンモシリに北海道という名がつけられて150年の節目。ということで、アイヌ文化に関連した取り組みがあちこちで企画されています。アイヌ文様をとりいれて記念の品をデザインするという企画もいくつか目にします。

 ところが、それらを見ると、しばしば樺太先住民ウイルタやニヴフの文様が使われていることがあります。思えば、札幌市内の小中学校などで実践されている「アイヌ文様体験」(切り紙で手軽に文様を作る)も、私が見た限りでは、ウイルタやニヴフの文様に酷似したものが多くあります。

 樺太先住民のウイルタとニヴフは、同じ島でくらしてきた樺太アイヌにとっては歴史的にもつながりの深い、兄弟のような民族だといえます[1]。中でも、戦後、北海道に移住した人々は、故地を追われ、北海道アイヌに比べてもなお少数であるために、存在が非常に見えにくいといった歴史的な経験をも共有しています。

 アイヌ文様に注目が集まるこの機会に、ウイルタとニヴフの存在が知られることを願って、今回はウイルタ文様・ニヴフ文様を紹介します。刺繍や木彫、樹皮細工など文様が施される品は多岐にわたりますので、今回はほんの一部だけの紹介です。また、アイヌ文様との違いについても考えてみます。

 

 

1.ウイルタ文様作品

 

・トナカイ皮製皿敷

 円形のトナカイ皮に、3色の糸で刺繍をしたものです。文様は上下左右とも対称で、渦巻き文を主体に、放射状に広がるように構成されています。渦巻き文同士がとなりあって密集していく構成が特徴的です。

 渦巻きを互い違いに2つ組合せた「S」字が8つ並び、中心に輪を作ります。そこから枝分かれするように別の渦巻きが立ち上がり、大きな対の渦巻きを作ります。そこから更に小さな渦巻きが枝分かれします。

 こうした渦巻き文はアイヌ文様にもありますが、渦巻きが枝分かれするように連鎖する文様は、北海道の古い資料にはあまりありません。

▲写真1.皿敷(ウイルタ) 北大植物園収蔵 9451 オタスで1939年に制作

・樺皮製装飾箱

 樺の皮を曲げて作った容器に、文様を切り抜いた別の樺皮を綴じつけた物。切り抜いた文様がはっきり見えるよう、皮と皮のあいだに黒い布を間にはさんでいます。2つの渦巻きを「M」字に見えるように組み合わせたものが中央に向かい合わせに配置され、四隅にも渦巻きが配置されています。中央のM字が向き合うデザインは北海道アイヌの衣服や木彫にも見られるものですが、そこから枝分かれした小さな渦巻きによって印象が異なるものになっています。

▲写真2.樺皮製装飾箱(ウイルタ)北大植物園収蔵 9453 オタスで制作   

・衣服文様

 ウイルタやニヴフの衣服には、刺繍がなく金属製のビーズを縫いつけて装飾とした物もあります。刺繍をする場合は、袖や身頃の縁に沿って、衿から裾へと文様帯を作ることが多いようです。魚皮衣には、周囲から分離した文様ユニットを点々と配置することもあります。

 写真3は戦前に撮影されたもので、衿部分に装飾が見られます。S字文をならべながら、それぞれの接点に付加的な文様を配置しています。アムール川流域の民族に共通して見られる構成法です。

 オタス出身の佐藤チヨさんによれば、肌着のうち若い女性が着る者には袖や襟、裾に刺繍をしたそうです。帽子も女性のものには刺繍を入れたそうです(男性用は毛皮のみで作るので刺繍なし)。アイヌの衣服は男性の方が装飾が多くなるので、この点は対称的です。なお、佐藤さんはじめ当事者の談話を見る限りではウイルタ文様にも「魔除け」等を意図して使われたものは無いようです。

▲写真3.衣服文様(ウイルタ) 山本(1943)より

 

2.ニヴフ文様作品

 

・まないた

 木製まな板です。表面の両端に文様帯が配置されています。それぞれの文様帯は線対称に構成されています。向かって右の文様帯は中央にM字文を大きく置き、周囲に小さな渦巻きと充てん文を入れています。向かって左の文様帯は、渦巻きを向かい合わせに並べて「V」字(ハートにも見えます)にした文、渦巻きどうしを連結して「C」字にした文が配されています。

 ニヴフの文様にも、この例のように渦巻きが密集した構成を取ることがよく見られます。

 写真5は、おそらくまないた全体ではなく装飾帯のアップでしょう。中心の大きな円と、左右に3つずつ配置された円の周囲に渦巻き文が置かれています。左右対称のように見えて、よく見ると変化しているところが面白いですね。

 ニヴフの文様にも、この例のように渦巻きが密集した構成を取ることがよく見られます。また、どちらにも渦巻き文の途中から別の渦巻が伸びていく分枝が見られます。

 

▲写真4.まないた(ニヴフ) 北大植物園収蔵 123 オタスで制作

▲写真5.まないた(ニヴフ) 山本(1943)より

 

・皮製かばん

 写真6は、アザラシ皮製かばんの縁に配置された文様帯です。S字文の連続を基調としている点は、ウイルタの襟文様と共通しています。

▲図1.かばんの縁文様(ニヴフ) 山本(1943)より

 

3.北方民族の切抜文様

 

 樺太やアムール川流域の諸民族は、魚皮や樹皮を使って切抜文を作る伝統を持っています。先ほどの樺皮細工のように実際に切り抜いた文様を使用するほか、刺繍の型紙としても使います。図2は鷹部屋(1941)に掲載されたウイルタとニヴフの文様です。鷹部屋氏はウイルタとニヴフの文様を一括して論じており、この図もどれがどちらの文様であるといった説明はありません。また、アイヌ文様との違いが大きいと述べる一方、ユーラシアのほかの諸民族とは大変よく似ていると述べています。扉の図を見てもわかるように、たしかにシベリアの諸民族の文様はよく似ており、場合によっては中央アジアの文様の中にも類似性をもったものがあります。特に極東の物は、文様の要素もパターンも共有されています。強いて言えば、アムール地方に比べ樺太の民族は、動植物を文様化することはあまりないようです。

 なお、金谷フサさんによれば、樺太アイヌにも樺皮で文様の型紙を作る事があったようです。
 

▲図2.切抜文様(ニヴフ・ウイルタ) 鷹部屋(1941)より 

 

4.アイヌ文様

 

 アイヌ文様も多岐にわたりますが、ここでは他の北方民族との対比に関わるところだけを手短に紹介します。

 アイヌ文様も、これまでみてきた文様と基本的な要素は共有していますが、相対的に渦巻きの使用頻度が低いといえます。渦巻きを一切用いない着物や木彫品もたくさんあります。

▲写真6.渦巻きのない着物 北大植物園収蔵 1 亀田郡で1939年収集

▲図3 渦巻きの無い樹皮衣背文 稽古館(1992)より

▲図4 渦巻きの無い木綿衣背文 稽古館(1992)より

 渦巻きの使われる頻度は、装飾の技法によっても変わります。幅広の木綿などを切り抜いて地布に置く技法では、特に渦巻きが好まれるようです。こうした切抜文は新しい型式だと言われていますので、時代が下るとともに渦巻きの使用頻度が高まっていると見ることもできます。

▲写真7.渦巻きが多用される着物(切抜文) 北大植物園収蔵 6 静内で製作? 1938年収集

▲写真8.渦巻きが多用される着物(切抜文) 北大植物園収蔵 10 製作地・製作年不明

 また渦巻きが置かれる位置を見てみると、北海道では、袖や襟、裾といった辺縁部は括弧文を中心とした細い文様帯を作り、渦巻きは胸や背などより広い面に配置される傾向にあります。これに対し、樺太では辺縁部にも渦巻きが置かれるものがあります。また、要素の組み合わせ方にも若干の違いがあります。ウイルタ・ニヴフの文様に見られた渦巻きの分枝もその1つです。

 千島アイヌについては、残念なことにあまり多くの資料が残っていません。少なくとも刺繍文様については、チェーンステッチなどの技法は共通ですが、渦巻きや括弧文の使用はほとんど見られず、また別な様式になっています。

▲写真9.樹皮衣 北大植物園収蔵 29 日高 辺縁部には渦巻きがない

▲写真10.木綿衣 北大植物園収蔵 13 新十津川 1935年収集 辺縁部には渦巻きがない

▲写真11.草皮衣 北大植物園収蔵 28 樺太 1939年収集 辺縁部の渦巻き・渦巻きの分枝が見られる

▲写真12.草皮衣 樺太 アイヌ民族博物館(1996)より 辺縁部の渦巻きが見られる

 他の北方民族と比較して、アイヌ文様の場合は線対称に構成されたものが多く、上下左右とも対称になっている文様は、刺繍文では切抜文による背文の一部や、刀掛け帯の房など限られた場所に用いられます。これに対し、木彫盆などでは上下左右とも対称になった文様がよく見られます。また、杉山寿栄男氏は、アイヌ文様の渦巻文が他の文様に比して巻きがゆるいことを指摘しています。

 また、樺太以北では、文様の要素を組み合わせて小さ目の文様ユニットを作り、反復することで文様帯が作られていきます。これに対し、アイヌ文様は1つの文様ユニットを拡大し、それで広い面を覆うように配置しているよう見えます。

 近代以降、博覧会への出展などにともない、バッグやクッションなど新しい日用品を作るようになると、上下左右が対称になった文様が増加します。扉写真のアイヌ文様は、明治末~大正にかけてクッションなどに用いられるようになった文様です。樺太でも刺繍入りの小さな座布団が作られました。

 戦後になると、テーブルセンターやタペストリーなどがより頻繁に作られるようになりました。そこでは、着物の文様を応用したり、より創作性の強い文様が生まれました。また、特に刺繍文において、渦巻きの使用頻度が以前と比べてかなり増えるという変化が起こりました。国立民族学博物館が収蔵する帯(H0062232 製作地旭川市 1978年収蔵)は最も顕著な例で、M字に組合わせた渦巻きが端から端まで反復されています。この他にも、戦後に作られた着物類には、それ以前に比べて刺繍による渦巻き文が多くなっている印象があります。

 

おわりに

 

 ウイルタ文様が、アイヌの工芸家に取り入れられた例は、90年代から確認できます[2]。私自身は、こうした状況に至る詳細な経緯は、まだ充分にたどれていません。わかっていることとして、70年代には、ウイルタと樺太アイヌ・北海道アイヌの間につながりが生まれ、社会的な地位向上に向けた運動を共同で行ったことがあります。

 南樺太にくらしてきた先住民は、1905年に同地が日本領になると、否応なく日本政府の意向によってくらしを大きく変えざるをえませんでした。ウイルタとニヴフは東海岸のオタスという集落に住むようになり、戦中は日本国籍を持たないにも関わらず日本の戦争に協力させられました。敗戦後はそのことを理由にシベリア抑留を受け、中には帰郷できないまま亡くなる人も出るなど、日露両国の不条理な処遇に苦しんできました。

 樺太アイヌは人口のほぼすべてが北海道に移り住み、ウイルタとニヴフも数家族が移住しました。その1人、ダーヒンニェニ・ゲンダ-ヌ氏(日本名北川源太郎氏)は、日本政府に補償を求め、軍人恩給支給をめぐる裁判を起こしました。

 また、ウイルタ協会を設立し、樺太先住民の文化を伝えるべく「北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ」をオープンしました。一連の動きの中で、樺太から移住したアイヌや、山本多助氏、鷲谷サト氏をはじめとする北海道のアイヌ、和人の教員らとの間にも協同関係が生まれました。こうしてジャッカ・ドフニには樺太アイヌや北海道アイヌ、海外の先住民の資料も収蔵・展示されました[3]

 その活動を通じて、ウイルタ文様に触れる機会が増えて行き、創作にも影響を与えた可能性は高いでしょう。また、書籍などメディアを介して知った可能性も考えられます。80年代半ばに、ウイルタ文様が新聞紙上で数時にわたって紹介されたことがありました。これによって関心を持った道内の博物館関係者が、ウイルタ文化と文様を紹介するワークショップを開始しました。

 非ウイルタが、ウイルタ文様を使用するにあたっては、そのことを明記してある場合も、そうでない場合もあったようです。もっとも、複数の文様を並べて「ここにはウイルタ文様も含まれています」といった表示の仕方で、どれがウイルタの物なのかよく知った人でなければわからない場合もあります。また文様の講習などでは、受講する側が誤解をし、ウイルタ文様をアイヌ文様だと解釈したと思われるケースもあります。いずれにせよ、文様を生み出した民族に対する認識が不足したまま、文様だけが伝わりはじめました[4]

 これまで見たように、アイヌと他の北方民族の文様には共通した要素が多く見られます。一方で、その構成パターンにはそれぞれの個性があります。渦巻きを主体とし、上下左右に対称的な文様構成は戦前のアイヌ刺繍には見られないものです。これを北海道にもたらし、紹介したのは、移住したウイルタの作り手たちです。それは、アイデンティティと強く結びつく物であり、それが不本意な形で模倣・利用されることに対して当事者は不満を抱いてきたといいます[5]

 こうした問題については、アイヌにも共通の経験があります。戦後、北海道での観光が盛んになった時期に、アイヌの工芸品を模倣して和人が生産・販売することが横行し、そのことへの批判が高まりました。同種の問題に対し、海外では、サーミなど先住民自身が作った工芸品には、そのことを表示するなどの対策が取られています。アイヌ関係者もそうした事例を学び、導入を検討してきた経緯があります。また1993年にニュージーランドで開催された「先住民の文化的・知的財産権についての第1回国際会議」にはアイヌも出席し、先住民が「自身の文化的・知的所有権の排他的所有者として認められるべきである」という内容を盛り込んだMataatua宣言の採択にも賛同しています。こうした経緯を考えれば、ウイルタ・ニヴフの心情・権利についても、もっと敏感であるべきです[6]。具体的には、ウイルタ・ニヴフの文様を模倣したものを「アイヌ文様」として広めるべきではありませんし、商業的な利益を得た場合の分配法なども検討されるべきです。

 もっとも、将来的には単なるコピーではなく、アイヌ文様と折衷して新しい様式も生まれる可能性もあります。そうした動態をとらえながら関係者自身がアイヌ文様の地域性・歴史性をふまえた立体的な理解をし、それにそって説明することも状況の改善につながるのではないでしょうか。例えば、単に「アイヌ文様」とひとくくりに語るのではなく、どこの、何年頃の、どういった背景を持った文様か、といった説明ができるようになることです。そうした検討は、今後の創作・発信においてもプラスの効果を生むことでしょう。

 文様の歴史的展開については、津田命子氏による一連の研究が大変参考になります。博士論文の一日も早い出版がまたれます。

 

[1] かつてウイルタは「オロッコ」、ニヴフは「ギリヤーク」と呼ばれることもありましたが、今日ではそれぞれの自称に基く民族名を使用することが一般的です。

[2] たとえば、国立民族学博物館が収蔵するH200538(1995年受入)は、ヤイユーカラ民族学会会員の制作による木皿です。皿の全面に、ウイルタの皿敷のような文様が施されています。

[3] ジャッカ・ドフニは残念ながら2010年に活動を終えました。現在(2018年2月3日~3月31日)北海道立北方民族博物館でジャッカ・ドフニを紹介する企画展が開催されています(http://www.hoppohm.org/tokuten/tokuten_2017/20180203L.jpg)。

[4] ウイルタの文様であることを明確にして活動するサークルもあります。例えば「ウイルタ刺繍フレップの会」など(https://plaza.rakuten.co.jp/machi01hokkaido/diary/201306050000/)。

[5] 北海道立北方民族博物館の笹倉いる美氏からの教示によります。

[6] アイヌと他の北方民族が歴史的に深いつながりを持ち、相互に影響しあって来ましたし、文様に共通の要素があることもその結果だといえます。ですから、いわば一心同体の関係であり「仲間なんだから水臭いことを言うな」という意見もあることでしょう。そうであれば、日本領内のウイルタやニヴフの苦境に対しても放置しておくことはできません。その歴史や現状に対し理解や配慮、積極的な協力が必要です。

 もう1つ気になることは、ウイルタ文様(あるいはそこから派生したと見られるアイヌ文様)を用いて創作が行なわれる際には特に「魔除け」や「天からのパワーを込める」といったスピリチュアルな説明が付随することです。昨年この連載で取り上げたように、またこの記事でも触れたように、北方民族の作り手たちはそのような事は言ってきませんでした。

 ウイルタが発信した文様が、いつの間にかアイヌ文様になってしまう、つまり当事者の存在を消し去るかのような扱いはもちろんのこと、当事者が思ってもいないイメージを押し付けることも他者の軽視にほかなりません。特に、こうした信仰めかした言説は、当事者の教義を外から改変するに等しく、悪質だと感じます。

 

 

参考文献

(財)アイヌ民族博物館
1996 『樺太アイヌ-児玉コレクション-』(第11回企画展図録)。

金田一京助・杉山寿栄男
1993(1941)『アイヌ芸術 服飾編』北海道出版企画センター。

(財)稽古館
1992『稽古館創立15周年記念特別企画 北の文様展』稽古館。

古道谷朝生・笹倉いる美
2014「木村捷司が描く樺太・オタスの北方民族 その背景と人々(1)網走市立美術館所蔵作品より」『北海道立北方民族博物館研究紀要』第23号、北海道立北方民族博物館。

白石英才・笹倉いる美
2007「服部文庫公開シリーズ4 ニブフ(ギリヤーク)の縫い方」『北海道立北方民族博物館研究紀要』第16号、北海道立北方民族博物館。

鷹部屋福平
1987(1942)「アイヌ服飾紋様の研究」『北方文化研究報告』第三冊、思文閣出版。
1987(1964)「アイヌ服飾紋様の起源に関する一考察」『北方文化研究報告』第十冊、思文閣出版。

常本照樹
2005「先住民族の文化と知的財産の国際的保障」『知的財産法政策学研究』8号、北海道大学大学院法学研究科・北海道大学情報政策学研究センター。

長根助八
1925『樺太土人の生活-アイヌ・オロッコ・ギリヤーク』洪洋社。

北海道教育庁振興部文化課
1974『オロッコ・ギリヤーク民俗資料調査報告書』北海道文化財保護協会。

北海道立北方民族博物館
2011『北海道立北方民族博物館第26回特別展 ウイルタとその隣人たち サハリン・アムール・日本 つながりのグラデーション』北海道立北方民族博物館。

北海道歴史教育者協議会
1976『アイヌ・オロッコの問題と教育』北海道民間教育研究団体

山本祐弘
1948 『樺太原始民族の生活』アルス。

 

 

[シンリッウレシパ(祖先の暮らし) バックナンバー]

第1回 はじめに|農耕 2015.3

第2回 採集|漁労   2015.4

第3回 狩猟|交易   2015.5

第4回 北方の楽器たち(1) 2015.6

第5回 北方の楽器たち(2) 2015.7

第6回 北方の楽器たち(3) 2015.8

第7回 北方の楽器たち(4) 2015.9

第8回 北方の楽器たち(5) 2015.11

第9回 イクパスイ 2015.12

第10回 アイヌの精神文化 ラマッ⑴ 2016.1

第11回 アイヌの精神文化 ラマッ⑵ 2016.2

第12回 アイヌの精神文化 ラマッ⑶ 2016.4

第13回 アイヌの精神文化 ラマッ⑷ 2016.5

第14回 アイヌの衣服文化⑴ 木綿衣の呼び名 2016.6

第15回 アイヌの衣服文化⑵ さまざまな衣服・小物 2016.7

第16回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-1 2016.12

第17回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-2 2017.1

第18回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-3 2017.2

第19回 樺太アイヌのヌソ(犬ゾリ)-4 2017.3

第20回 アイヌの衣服文化⑶「アイヌ文様は魔除け?」を検証してみた 2017.4

第21回 樺太アイヌの防寒帽 2017.5

第22回 北方の楽器たち(補遺1) 鉄製口琴で戦う乙女-ほか 2017.6

第23回 北方の楽器たち(補遺2) 千島? 釧路? のカチョ 2017.8

第24回 東アジアが誇る笑い話? パナンペ・ペナンペの謎(上) 2017.12

第25回 実はとってもえらい神? パナンペ・ペナンペの謎(下) 2018.1

 

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓31》シマフクロウとフクロウ

 

 文:安田千夏

▲写真 シマフクロウ(「アイヌと自然デジタル図鑑」より)

 アイヌ文化の生物神の中でも「イオマンテ(送り儀礼)」の対象となる神は、神格の高い神であることを示しており、ヒグマやシマフクロウがそうした重鎮であることは有名です。シマフクロウについては、今では自然保護と相まって「かつては北海道じゅうで見られたこの鳥も、徐々に生息域が狭まり、今では道東のごく限られた地域にしか生息できなくなりました」という説明がされることがあるのですが、じつは1781年に書かれた『松前志』にはすでに「シマフクロ(中略)東部夷地山中より出づ。夷人これをメナシチカフと云」と書いてあるのです。「メナシ」はそれが語られた地域によって意味するところに差がありますが、概ね「北海道の西方から見た東方」を指すアイヌ語であり、じつは開発の手が入るずっと以前から、シマフクロウの生息域は北海道の東方が中心だったのではないかと考えたくなってきます。

 「それはおかしい。だってシマフクロウを意味する『カムイチカプ』『コタンコロカムイ』の口承文芸は、北海道のあちこちで採録されているじゃありませんか」。そういう意見があるかも知れません。しかしよく考えてみると、そのことが「シマフクロウが北海道じゅうにいた」ことの確たる根拠になるかというと、そうはなりません。「カムイチカプ(神の鳥)またはコタンコロカムイ(村を守る神)という名が間違いなくシマフクロウ『だけ』を指しているか」。「フクロウの仲間で送られるのはシマフクロウだけなのか」このあたりをしっかり検証してみる必要があるのではないかと思います。

 先に引用した『松前志』には、こうも書かれています。「夷人これを相尊てカムイチカフとも云ふ。カムイは神をさしたる詞、即神鳥と云こころにて忌み遠ざけ、恐れ祟むの意しるべし」。これを見ると、シマフクロウを「カムイチカプ」と呼ぶことがあったというのはどうやら間違いがなく、神の鳥として「敬い親しむ」のではなく「忌み遠ざけ、恐れ祟む」と書かれているのが興味深いところです。

 前後しますが、1739年の『北海随筆』によると「梟 コタンコル」となっていて、特定の種を指すことにはなっていません。

 1786年の『蝦夷拾遺』には「カムイチカツプ 鴞 フクロウ」とあります。

 1804年の『藻汐草』には「ふくろ クン子レキ カモイチカプ」とあり、クンネレクカムイとは、『分類アイヌ語辞典 動物編』では美幌、屈斜路でフクロウの名として採録されているものです。その名と「カモイチカプ」を特に区別するような記述は見られません。

 このように見ると、近世の文献ではシマフクロウとフクロウは明確に区別されていない方が普通であるということがわかります。種の同定という概念が明確ではなかった時代のものだからという一言で一蹴してしまって、果たしていいものなのでしょうか。もともとはっきりと分類され認識されていたわけではなかった、という可能性も考えてみる価値があるのではないでしょうか。

 近代以降の代表的な文献を見ると、次のようになっています。

【バチェラー1938】

◯訳:「シマフクロウ」

Humhum-okkai-kamui,フムフムオッカイカムイ, シマフクロフ. n.Blakiston's eagle owl.(P171)

Kamui-chikappo, カムイチカッポ, シマフクロウ. n.Blakiston's eagle owl.Syn:Kamuiekasi(p226)

◯訳:「フクロウ」「フクロウの一種」

Humhum-kamui, フムフムカムイ, 梟の一種. n.The eagle owl. (p172)

Humhumse-kamuy, フムフムセカムイ, 梟(フクロフ). n.An owl. (p172)

hum-o-chikap, フムオチカプ, 梟. n.An owl. (p172)

Nikotuk, ニコツク, 梟, フクロク. n.Owl. (p321)

Ya-un-kontukai, ヤウンコンツカイ, フクロフノ一種. n.The eagle owl (Lit:The servant of the world). (p577)

Ya-un-kotchange-gusu, ヤウンコッチヤンゲグス, フクロフノ一種. n.The eagle owl. (Lit:the mediator of the world) .(p577)

【更科1942】

◯訳:「シマフクロフ」コタンクルカムイ、ニヤシコロカムイ

◯訳:「エゾフクロフ」クンネレカムイ

【知里1953】

○訳:「シマフクロウ

kamuycikap(幌別)、kamuy cikappo(幌別)、kamuy-ekasi(幌別、沙流)、kotan-kot-cikap(美幌)、kotan-koh-cikah(新問)、kotan-koro-cikah(白浦)、 kotan-kor-kamuy(幌別、沙流、屈斜路、美幌)、mosir-kor-kamuy(幌別)、eturus(富内、白浦、多蘭泊)(注1)

○訳:「エゾフクロウ

kunne-rek-kamuy(美幌、屈斜路、塘路)、hunsei(真岡、多蘭泊)、hasinaw-uk-kamuy(沙流)、iso-sanke-kamuy(沙流)、inun-kamuy(幌別)

 

 つまりおもに近代以降にカムイチカプ、コタンコロカムイの名称はシマフクロウを指す名として記録されるようになるのです。これらはそれぞれの地域できちんと調査された結果なので、否定するつもりは毛頭ありません。しかしそれでも冒頭の疑問については、疑り深き私はまだ釈然としないままなのです。何故なら近年採録された資料にあたると、旭川ではフクロウをカムイチカプと呼んで送り儀礼を行う(道教委1982)とあったり、また道東地方でも明らかにフクロウであるクンネレクカムイの送り儀礼をする(道教委1986)というデータがあったりするからなのです。これは「昔はっきり区別していたものが次第にわからなくなり混濁してしまった」と一蹴してしまって、果たしていいものなのでしょうか。

 疑うのもいい加減にしたいところですが、私の仕事である口承文芸の問題に限ってみても、生物名をどのように訳すのかは難しい問題です。例えば知里幸恵は『アイヌ神謡集』の中でカムイチカプを「梟神」「梟の神」、久保寺逸彦は『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』の中で、コタンコロカムイの訳語を全て「村主の梟神」と訳しています。この場合の「梟」は種名ではなく「一般名称としてのフクロウ」を意味していると解釈します。月刊シロロの「ワシ神」についての拙稿(注2)でも触れましたが、近似種があるものについては、確実な分類の根拠がない限り、特定の種に同定することは極力避け、種を代表する一般名称に回帰することが今のところ最善と言えるのではないでしょうか。私は知里幸恵、久保寺訳に賛成であり、口承文芸についてはそれと同じ方針でカムイチカプ、コタンコロカムイは「フクロウ神」と訳すことにしています。

 さて何かと話題にこと欠かないシマフクロウですが、デジタル図鑑の記述を見ていると、面白いことに気がつくのです。沙流地方の伝承者からは、シマフクロウについてはっきり「こんな鳥だ」と語ったデータは採録されていません。聞いても「見たことがないからわからない」という答えしか返って来ていないのです。これは地域的に見ても当然の答えであるといえます。

 それに対し、静内地方の伝承者はシマフクロウとフクロウをはっきり区別しているのです。写真を見て「確かにこれだ」と言ったり、両者の大きさの違いに言及していたり。どうやら両者を実際に見たことがあり、別種として認識しているようです。これは一般にはあまり知られていない情報ですが、道東が生息域のシマフクロウ、そこは鳥ですからじゅうぶん移動は可能で、じつは現在の生息西南限は日高地方の山地なのです。1980年代に沙流地方の伝承者が「見ていない」と言い、静内地方の伝承者が「見た」と言う。生息域に関しては、時期的にも地域的にも、この辺りにひとつの目安となるラインが引けそうです(注3)

 両種とも見たことのある伝承者ははっきりと区別でき、そうではない伝承者からはどんなに頑張っても明確な答えは返って来ない。生息域がもともと限られている鳥にありがちなそうしたことが、この問題をより複雑なものにしているのかも知れません。

(注1)他の文献からの引用と明記されている名称については、後々の混乱を避けるため除外しました。

(注2)2016年2月号、図鑑の小窓10「カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて)」参照。

(注3)1980年代と現在を比べても、生息域に劇的な変化が起きているわけではないという点も重要だと思います。

 

引用参考文献・データ

板倉源次郎『北海随筆』(1739年序)
佐藤玄六郎(青島俊蔵[他]写)『蝦夷拾遺』国立国会図書館デジタルコレクション(1786年序)
ジョン・バチラー『アイヌ・英・和辭典 第四版』岩波書店(1938年)
更科源蔵『コタン生物記』北方出版社(1942年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 動物編』日本常民文化研究所(1962年)
久保寺逸彦『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』岩波書店(1977年)
知里幸恵『アイヌ神謡集』岩波書店(1978年)
『蝦夷・千島古文書集成 第一巻 蝦夷志、蝦夷随筆、松前志』教育出版センター(1985年)
『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民族調査I 旭川地方)』北海道教育委員会(1982年)
『アイヌ民俗文化財調査報告書(アイヌ民族調査Ⅴ 釧路・網走地方)』北海道教育委員会
(1986年)
にほか市象潟郷土資料館所蔵 森家旧蔵『蝦夷方言藻汐草 全』翻刻・解題 北海道大学アイヌ・先住民研究センター古文書プロジェクト(2013年)
アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
アイヌ民族博物館『アイヌ語アーカイブ』(2017年)

 

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7

《図鑑の小窓》16「カタムサラ」はどこに 2016.8

《図鑑の小窓》17 イケマ(ペヌプ)のおまもり  2016.9

《図鑑の小窓》18 クリの道をたどる 2016.10

《図鑑の小窓》19 くまのきもち 2016.11

《図鑑の小窓》20 エンド(ナギナタコウジュ)のつっぺ 2016.12

《図鑑の小窓》21 わけありのラウラウ(テンナンショウの仲間) 2017.1

《図鑑の小窓》22 春待つ日々のサクラ4種 2017.2

《図鑑の小窓》23 タクッペ(やちぼうず)の散歩 2017.3

《図鑑の小窓》24 カッコク カムイ ハウェ コラチ(カッコウ神の声のように) 2017.6

《図鑑の小窓》25 トゥレプ(オオウバユリ)とトゥレプタチリ(ヤマシギ) 2017.7

《図鑑の小窓》26 オロフレ岳と敷生川のミヤマハンノキ 2017.8

《図鑑の小窓》27 ムクという名の野草について 2017.9

《図鑑の小窓》28 ヤイニ ヤクフ(ドロノキの役目) 2017.10

《図鑑の小窓》29 植物のアイヌ語名から読み取れること 2017.11

《図鑑の小窓》30 カラ類たちの窓辺(安田千夏) 2018.1

 

 

 

 

 

《アイヌの有用植物を食べる 9》ナギナタコウジュ

 

 文:新谷裕也

 

はじめに

 

 全国的な寒波でとても寒い日が続きますね。今回はそんな寒い日にぴったりな植物、ナギナタコウジュを紹介します。そのお茶は体も温まるし、体にも良く美味しいです。そしてお茶以外にも利用法があるので紹介します。

 

1.ナギナタコウジュとは

 

▲写真1:ナギナタコウジュ

 ナギナタコウジュはシソ科の植物で、秋に紫色の花を咲かせます。名前のナギナタというのは、花の形が武器のなぎなたに似ているからという説があります。漢方、または生薬として利用され、夏の発熱や頭痛、悪寒、腹痛、嘔吐、下痢、浮腫などに効果があると言われています。山の脇道に群生して生えていますが、白老では空き地や道路の脇などにも生えています。

 アイヌ文化では「エント」や「セタエント」と呼ばれており、秋に採取してから干して乾燥させ、煎じてお茶にしたり、おかゆに入れて香りづけして食べました。風邪や二日酔いに良いとされ、日常的にお茶にして飲んでいました。山で猟をするときに、水の入った徳利の栓をナギナタコウジュですると、何日たっても味が変わらないと言われています。ナギナタコウジュの持つ強い香りが病魔を除けると伝承されている地域もあります。

 

2.ナギナタコウジュの採取方法と処理法

 

 ナギナタコウジュは秋になると紫色の小さな花を咲かせるので、そのころに採取してから天日干し、または陰干しして乾燥させます。乾燥させるときにカビが生えないように注意しながら茎が茶色になるまで置いておきます。茶色になってパリパリに乾燥したら完成です。ナギナタコウジュは空き地や庭先に生えているので簡単に採取できますし、アイヌ民族博物館やアイヌ文化の関連施設、インターネットなどでも既に加工してあるお茶が売っているので、ご家庭でも簡単においしいナギナタコウジュのお茶を飲むことができます(写真2)。

▲写真2:アイヌ民族博物館内で販売されているエント茶

 

3.調理法

 

 ナギナタコウジュは主にお茶にして利用しますが、おかゆに入れたりもします。ナギナタコウジュのおかゆもお茶も昔からよく利用されており、そのことについての伝承者の話も記録されています(月刊シロロ2016.12月号 安田千夏「《図鑑の小窓20》エンド(ナギナタコウジュ)のつっぺ」参照)。おかゆもお茶も簡単に作れるので紹介します。

〇エントウセイ(ナギナタコウジュのお茶)

1.乾燥したナギナタコウジュを鍋に入るくらいの大きさに折り、鍋で煮る(写真3)。

2.香りがしてきて色が濃くなったら鍋からナギナタコウジュを取り出す。

3.完成(写真4)。

▲写真3:ナギナタコウジュを煮る ▲写真4:エントウセイ(ナギナタコウジュのお茶)

 

〇エントサヨ(ナギナタコウジュのおかゆ)

1.ヒエのおかゆを炊く(写真5)。

2.ナギナタコウジュの茎を火で軽くあぶる。(あぶらなくても乾燥したナギナタコウジュを入れるだけでも良い)

3.炊き立てのおかゆに入れて混ぜで香りを移す(写真6)。

4.完成。お好みで塩を足して食べる。

▲写真5:鍋でヒエのおかゆを炊く ▲写真6:おかゆにナギナタコウジュを入れる

 

 お茶もおかゆもとても簡単で、誰でも作ることができます。ナギナタコウジュは本当に香りが良い植物なので、お茶にするとハーブティーのようになります。お茶は冷やしてもおいしいので暑い夏は冷やして飲むとすっきりとした香りで清涼感を味わうことができます。おかゆも香りが良く、汁物で塩辛くなった口を治してくれます。

 

4.エント茶漬け

 

 最近エント茶を使ったおいしいお茶漬けを、アイヌ民族博物館の先輩に教わりました。とても簡単でおいしかったので紹介します。

〇材料

・白米
・鮭の切り身
・ナギナタコウジュ
・ネギ

〇作り方

1.鮭の切り身を少し塩辛くして焼く。
2.ナギナタコウジュを煮てお茶を作る
3.炊き立ての白米を少し深い茶碗に盛る。
4.鮭の切り身を少し荒めにほぐして白米の上に乗せる。
5.沸騰したお茶を白米にかける。
6.お好みでネギをかけて完成。

〇味

 少し塩辛く焼いた鮭の塩味とナギナタコウジュのお茶の香りが白米に合うので、とてもおいしいです。風邪を引いて食欲がないときでもお茶漬けなので食べやすく、更にナギナタコウジュは風邪に効くので、このお茶漬けは風邪を引いたときに最適です。塩分が足りなければ塩や醤油を足してもおいしいです。もちろんナギナタコウジュのおかゆも良いのですが、筆者はおかゆよりもこのお茶漬けの方が好みなのでおすすめです。材料も少なく、簡単なのでぜひお試しください。

 

 

5.まとめ

 

 ナギナタコウジュは採取も処理も簡単、体にもとても良いので昔からアイヌはよく飲んでいたという話は聞いたことがあったのですが、漢方でも使われていることや、どんな効能があるのかまでは知らなかったので、今回改めて調べてみて本当に体に良い植物だという事がわかりました。筆者は数年前まで、紅茶や香りの強いお茶が苦手で、ナギナタコウジュの香りも得意ではなく、今回紹介したお茶漬けを食べるまでは、なぜおかゆにナギナタコウジュを入れるのかわかりませんでした。ですが、お茶漬けを食べてみてお米に香りと味が合い、これにはとても驚きました。今回紹介したお茶漬けは、誰でも作ることができますし、本当においしいのでおすすめです。

 

参考文献・データ

・知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)
・更科源蔵、更科光『コタン生物記Ⅰ樹木・雑草篇』法政大学出版局(1976年)
・『日本の食生活全集 聞き書アイヌの食事』社団法人農山漁村文化協会(1992年)
・アイヌ民族博物館『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)

  

[バックナンバー]

《伝承者育成事業レポート》イパプケニ(鹿笛)について 2017.1

《アイヌの有用植物を食べる》1 オオウバユリ(前) 2017.6

《アイヌの有用植物を食べる》2 オオウバユリ(後) 2017.7

《アイヌの有用植物を食べる》3 ヒメザゼンソウ 2017.8

《アイヌの有用植物を食べる》4 ヒシ 2017.9

《アイヌの有用植物を食べる》5 キハダ 2017.10

《アイヌの有用植物を食べる》6 チョウセンゴミシとホオノキの実 2017.11

《アイヌの有用植物を食べる》7 コウライテンナンショウ 2017.12

《アイヌの有用植物を食べる》8 保存食 2018.1

 

 

 

 

 

《資料整理ノート》アオバトに惑わされる?(後編)


 文:木幡弘文

▲イラスト「え? 私の前世は死んだ和人のちょんまげ?……」(画:安田千夏)

 

はじめに

 

 前回は黒川セツ氏の伝承にみるアオバトについて紹介をしましたが、ひとくちにアオバトの伝承といっても、語り手や地域が違うと、その内容にも違いが出てきますので、今回は他の伝承者や文献上の、ストーリーがよくわかるアオバト伝承について見ていきながら、その特徴を分析してみることにします。

 

1. 伝承者の語るアオバトについて

 

1-1. 黒川セツ氏(平取町)

 

 前回は体験談を紹介しましたが、今回は氏によるアオバトの神謡を紹介します。

資料名:「アオバトの神謡」35308
撮影年月日:2000年9月26日
聞き手:中川裕(注1
採録地:アイヌ民族博物館
対 訳:安田千夏
あらすじ:木幡弘文

V=ワオリ
ワオリ ワオリ ワオリワオリ
ワオ セコロ レカシ アクス 「ワオ」と私が鳴いていると
V コタン コロ ヘカッタラ 村の子供たちが
V アエユカラ クス 真似をしたので
V アルシカ クス 私は腹が立ち
V ペッ ネ アン ペ 川であるものを
V ネイ ネ アカラ 沢にした。
V ネイ ネ アン ペ 沢であるものを
V アサッケ アクス 枯らしたところ
V カムイ イコイパク ワ 神様が私に罰を与えて
V エネ エイキ ヤクン そのようにお前がするなら
アッテイネモシリ 湿地の国
アシリコオテレケ クニ ネ セコロ に落とすぞと
カムイ ウタラ イコイパク ワ イコパシロタ アクス 神々が憤慨して私をののしったところ
エネ オキクルミカムイ エネ ハウェアニ このようにオキクルミ神が言った。
「エアニ アナクネ エモトホ ヒナク ワ 「お前は自分の素性もどこから
エエク シリ ヒ カ エエラマン ワ 来たのかも分からない
エキ シリ エネ アニ カ のか。
エアニ アナクネ トゥイマ モシリ お前は遠い国
シサム モシリ ワ タパン 北海道 和人の国からこの北海道に
エク ワ ヤマンコ セコロ 来て、人間の山子として
アイェ ネプキ エキ シリ ネ アワ 仕事をしていたが
ネプキ トゥイカ タ ニ チョロポク エアフン ワ 仕事の最中に木の下敷きになって
エライ ワ ネ コロ エチエ…パカシヌ ヤクネ 死んだ。それをお前に教えても
エアニ カ シンリッ オルン お前は先祖のところへ
エアラパ エアイカプ クス 行くことも出来ないので
ワオトリ に アカラ クス アオバトにして
ワオトリ ネ エアン ワ アオバトになった。
モシリ エピッタ エアシカプ(※) クニ ネ」 国中を歩くようにしろ」
セコロ カムイ イェ ワ オロワノ と神様が言って、それから
ワオトリ に アナン ワ アオバトになって
モシリ カリ ワオ ネ アナン ワ アプカシ ペ 国中をワオになり歩き回るもの
アネ ルウェ ネ セコロ なのだと
ワオトリ ハウェアン セコロ アオバトが語った。
  ※エアシカプ→エアプカシ

【あらすじ】

 アオバトが子供たちの声まねに腹を立てて川の水を枯らしてしまい、そのことに怒った神々がアオバトをののしっていた。そしてオキクルミカムイがアオバトの素性を言い始めた。「そのアオバトは、和人のきこりが事故で木の下敷きになり死んでしまった、その魂がどこに行くことも叶わず気の毒だということでアオバトになった」と言ったことで、アオバトも自分の素性がわかり、何に腹立てることもなく国中をワオワオと鳴きながら飛び回っている。とアオバトが語った。

 

 この話で注目するところは、登場人物とアオバトの素性なのですが、前回紹介したあらすじでは、アオバトをののしっているのはオキクルミカムイでしたが、今回はそれとは違い、神々がアオバトに対してののしっています。これから紹介していく一部を除いたあらすじでも、登場人物はアオバト、子供たち、オキクルミカムイの3者なのですが、この物語では神々を加えた4者となっているところが面白いところだと思います。

 

1-2.川上まつ子氏(平取町)

 

資料名:神謡「アオバトの素性」を日本語で語る(34601)(注2)
収録年月日:1985年5月8日
聞き手:伊藤裕満
採録地:アイヌ民族博物館
あらすじ:本田優子

 内地の和人が、木こりをするのに北海道へ渡って来た。大きな沢の河口に小屋を建ててそこに泊まりながら毎日木を切っていた。

 そんなある時、大雨、大嵐になり、毎日凄まじい雨風が吹いた。そのため、すっかり地面が緩んでしまったようで、あちらこちらで岩石が崩れ落ちている。ところがその和人は逃げずに、自分の小屋を守っているようだった。

 そうしているうちに、土砂崩れに遭い、家とともに巻き込まれて沢底に埋まってしまった。その和人は死んでしまったが、和人の結ってあったちょんまげがどういうわけか生き返り、ワオと鳴く鳥、アオバトとなった。

 アオバトの私は、あちらこちらへと飛び回って遊んでいると、アイヌの子供達が「ワオ、ワオ」と言って鳴き声を真似したので、どうしようもないくらいにとても腹が立った。自分のように飛べないくせに、子供達は両腕を伸ばして羽を広げたような格好で、私が飛んでいる下を走り回る。私はあまりにも腹が立ったので、川の水も沢の水も止めて、ひどい目にあわせてやろうと思った。

 私は、川や沢の水を止めた。人間達は水がないので炊事をして食べることが出来ず、水も飲めずにいた。そうして飲まず食わずで多くの人間が餓死してしまった。それどころか、一緒に神までもが死んでしまっていた。

 オキクルミカムイが「川を干しあがらせ、沢を干しあがらせて水をなくし、人間ばかりか神までもが死んでしまっている。いつまでも水を出さずに、そのままワオワオと鳴き続けているのならば、罰としてお前を地獄の谷に突っ込んで、ひどい目に合わせてやるからな。それが嫌なら、早く水を出せ。そうすれば、お前は今までどおり、山で自由に飛び回って暮らせるのだぞ。」とアオバトに迫った。さらにオキクルミは「本州から渡って来た和人が山の中に家を建て、毎日木を切って木こりの仕事をしている時、大嵐となり雨が降り、何日も暴風雨が続いた。そのため、地面が緩んで家とともに土砂が滑って崩れ、それに巻き込まれて沢底、谷底へと押し潰されて死んでしまった和人のちょんまげが、お前であるのだぞ。そこでお前は助かり、ワオと鳴く鳥になったのだ。そんなことを知らないお前は、人間のことが面白くなくて水を出さないでしまったのだ。」と話した。オキクルミから罰を当ててやると怒られて初めて、和人の髪の毛であった自分がワオと鳴く鳥になり、この村の上や、山から鳴いきながら飛び、歌って飛んでいたのだな。水を出ずにいたら、オキクルミが言ったことはおどしではなく、本当に私に罰を与えるつもりであることが分かり、あわてて、止めていた沢の水、川の水を元どおりに出した。きれいな水が沢山流れ、大人から子供まで、アイヌも和人もみんな喜び、水をいっぱい飲んで、水汲みをした。

 オキクルミカムイは「お前が言うことを聞かなければ、本当にひどい目にあわせるつもりであったが、約束どおり水を出してくれた。アイヌも神も生きていけるから、好きなように自由にこのアイヌの村、アイヌの山から飛び回って生活すればいい。」と言ったので、私は安心した。それから毎日、ワオ、ワオと鳴いて川上へ上ったり、川下へ下ったりして、楽しくアイヌの村の上空を飛び、遊んだ。

 アイヌの子供だけでなく、和人の子供も小さいときは色々ないたずらをしたりするものなのに、アイヌの子供ばかりを悪く思い、水を止めて神までをも殺したために罰が当たるところであった。水を元どおりに出しなさいとオキクルミカムイに言われたので、今では明るい北海道を好き放題にワオ、ワオと歌いながら楽しく飛び回って遊んでいる。

 と、アオバトが語った。

 

 この話では、オキクルミカムイがアオバトをとがめたうえ、さらに素性を明かしています。また、アオバトになるものも和人自身ではなくそのちょんまげという差があります。このパターンがアオバトの伝承では一番多く、ポピュラーな形といえるかもしれません。

 

1-3.白沢ナベ氏(2編)(千歳市)

 

「アオバトの神が静かに鳴くわけ」

 私(アオバト)は山の中にすんでいたが、ある日退屈なので人間の村近くに下りてきて、ワウォワウォと鳴いていた。するとそこに子供たちがやってきて、私の鳴き声の真似をする。私はそれに腹を立てたので、昼も夜も大きな声で鳴きつづけた。そのうちに私の声で、川は干上がってただのくぼ地になり、ただのくぼ地だったところは水が出て川になった。それでもやめずに鳴きつづけていると、オキクルミの神が窓から身を乗り出してこう言った。

 「この悪いアオバトめ。お前はそんなことをするほどえらい神ではないのだぞ。昔、和人の侍がきこりになって、毎日山で木を切って暮らしていたが、ある日霧の中で道に迷って帰れなくなってしまい、とうとう息絶えた。その時自分の髷を切って投げ捨てた。その髷は腐りきることができなかったので、アオバトに生まれ変わったのだ。お前はそのようにして生まれたものなのだから、お前の鳴き声を子供たちがまねしたとしても、腹を立てるほどよい神ではないのだ。この悪いアオバトめ。川が干上がるほど、夜も昼も鳴きつづけおって」

 と、私をしかりつけた。私はそれを聞いて大変恥しく思った。それからは鳴くときも大きな声を出さず、静かに鳴くようになった。

 と、アオバトの神が語った。(中川2004 P.161)

 

 これは先に紹介した2つの物語とちがい、アオバトの怒って行った行為に少し差が出ており、また素性を明かす場面での和人の死因も餓死となっています。そしてその後の場面では、アオバトは恥じ入り静かになっています。

「アオバトが小さくなったわけ」

 私はアオバトの神である。本州の和人を見たいと思いつつ毎日暮らしていたが、ある日、がまんができなくなって、「本州の和人が見たい」と鳴きながら、家を出た。

 途中、サマユンクルの村の上を通ったところ、サマユンクルが窓から半身を乗り出してこういった。

 「アオバトの神様よ、私のところでしばらく休んでいってください。和人というものは、アイヌのようにイナウではなく、紙の御幣で神様を祭るものですから、祭られた神々は再び生返ることができないのですよ。私のところにお泊りになってくだされば、立派なイナウを削って、それでお祭りしてさしあげます。そうすれば再びまたアオバトの神として再生して、人間の国を訪れることができるのですから」

 そういいながら、サマユンクルは何度も礼拝を重ね、六枚の着物を重ねて帯をしめ、六枚の着物をその上にうちはおって、桜皮で巻いた弓と矢をもって、表に出てきた。そして私に向かって矢を放ったが、私はひょいひょいと矢をよけた。すると、サマユンクルはむらむらと怒りを顔に現して、こういってののしった。

 「このくされアオバトめ。和人の村にお前がいったなら、和人の放った矢を受けてお前はそこの客となるだろうが、紙を裂いて作った御幣で祭られるおかげで、生返ることもできず、くさってうじがわくことになるのだ。そのいやなにおいを神々がきらって、お前の風上ばかりを通るようになる。そうしているうちに、やっとのことで小さなアオバトになって、小さな姿で生返ることになるだろうよ」

 けれども私は、人間のいうことなんか何がこわいものかと、腹の中でせせらわらいながら先をいそいだ。そのうちにオキクルミ神の村の上を通った。オキクルミも私が「和人の国を見たい」と鳴きながら飛んで行くのを聞きつけて、窓から身を乗り出して礼拝を重ねた。

 「アオバトの神よ、和人の国を見たくて飛んでいくそうですが、しばらく私のところで休んでいってください。そうしたら、立派なイナウであなたをお祭りしましょう」
そういってオキクルミは六枚の着物を帯でしめ、六枚の着物をうちはおって、桜皮の弓に矢をつがえて出てきた。しかし、今度もまたひょいひょいと矢をよけた。するとオキクルミも怒りを顔に現して、私をののしった。

 「このくされアオバトめ。本州を見たくてでかけるというのなら、本州の和人がお前のくるのを知って、お前に矢を射るだろう。その矢を胸で受け止めて、お前はその家の客となるだろうが、紙の御幣で祭られることになるのだ。そうすると、生返ろうとしても生返ることはできず、お前は土とともに腐ってしまうだろう。そうすると、そのいやなにおいを神々はきらって、お前の風上ばかりを通るようになる。そうしているうちにやっとのことで生返っても、小さなアオバトになってしまうことだろう」

 それを聞いても、お前らのいうことなど恐ろしいものかと、心の中でせせら笑いながら、私は和人の国へといそいだ。

 和人の国につくと、和人の殿様が矢をとって外に出てきて、私を射た。その矢が胸に当って、私はその家の客となった。すると本当に、彼らは私を紙の御幣で祭った。そのおかげで、いくら生返ろうとしても生返ることができない。そのうちに私の体は土とともにくさってしまい、そのにおいが神々をおびやかして、神々は私の風上ばかりを通るようになった。その上、ウジがわいてきた。やっとのことで私は生返ったが、もとは大きな体だったのに、小さな小さな体になってしまった。

 アオバトの体がこんなに小さいのは、こういうわけであるから、後輩のアオバトたちよ、けっして人間のいう言葉を無視するのではないぞ。そんなことをすると、ひどい目にあうのだからな。(白沢・中川1990 P.121

 

 これは和人転生譚とは違い、アオバトが制止を聞かずに和人地に赴いてひどい目にあう物語となっています。

 

1-4.沢ギン氏(むかわ町春日)

 

 私の声の半分を村の子供が私の歌を真似るので、私がおこって夜でも昼でも叫びつづけたので、神様も人間も眠れないのでオキクルミカムイが上半身を窓から出し私を見て言うのには「誰だこら、お前の生まれを知らないのか、人間も神様もちがうこと(ないのだ)子供というものは声を出すものだ、子供の遊びにお前がおこって声を出すのでお前の生いたちききたくてお前が騒ぐならずっと昔にたくさんの杣夫(そまふ)(注3)、杣夫なので山に入ったら道に迷って呼びながら歩いて歩いて行き倒れ死んだので、和人の死んだにおい、木の神、山の神、皆がにおいをいやがって悪い和人の髷(まげ)を青鳩にした。自分で自分の生い立ちをききたくてお前が叫ぶので私が言うのです。全く魂がなければ神様もそれをいやがって青鳩にしたのだよ国中をお前が呼びながら歩いて生い立ちをききたいのなら私がきかせよう」とオキクルミカムイが言ったとさ(西島・藤村1990 P.168

 

 今まで紹介した物語に共通している要素が多いのですが、全く違うのは、怒ったアオバトが叫び続けて、神も人間も寝させないという迷惑行為をしている点です。アオバトのその後については何も語られていません。

 

1-5.西島てる氏(平取町)

 

「出自をばらされたアオバトの神の物語」

 樹々の間で「ワウォー、ワウォー」と、私が鳴いていたら、人間の子供たちが、それをまねして鳴いた。それに腹をたてた私は、人間の国土をめちゃくちゃにして人間を困らせてやった。すると、ある日に、国土やあらゆるものを創造した神が、あわてて飛んできて、私にこういった。「性悪のアオバトが。どうしようもないアオバトめ、お前の正体をわしが教えてやろう(はしたない出自のことを知ったなら、大それたことをしたと思うであろうから)。その昔、和人の狩人や杣夫(そまふ)(注3)が本州からやってきて奥山へ大ぜい入りこんだまではよかったが、(何かの理由で)死んだ人の髪型を思んばかって、わしがアオバトに化身させたものを、自分のこともしっかりと理解していないくせに、人間の子供が好ましく思って鳴きまねしたのにお前は腹を立て、人里をめちゃくちゃにしてしまったから、わしがこらしめたのだからな」と、国土を創造した神が話してくれた。

 それからは、おとなしくなって、以前のように「ワウォー、ワウォー」と鳴いていることを(アオバトが)物語りましたとさ。(西島・藤村1990 P.169

 

 ここで、今まで紹介した話の要素差異を表にしました。

表1.アオバトが咎められる物語比較一覧

 

黒川セツ

川上まつ子

白沢ナベ

沢 ギン

西島てる

怒るきっかけ

子供に声まねをされる

子供に声まねをされる

子供に声まねをされる

子供に声まねをされる

子供に声まねをされる

怒って行った行為

川を干上がらす

川と沢の水を止める

川を枯らし、窪地を川にする

声で人間も神も眠れなくする

小川を大川に大川を小川に

咎める存在

神々

オキクルミカムイ

オキクルミカムイ

オキクルミカムイ

創造神モシリカラカムイ

素性を明かす存在

オキクルミカムイ

オキクルミカムイ

オキクルミカムイ

オキクルミカムイ

創造神モシリカラカムイ

アオバトの素性

和人のきこり

和人のきこり

和人の侍がきこりになった

和人のきこり

和人の狩人ときこり

死因

事故による倒木

土砂崩れによる圧死

行き倒れ(餓死)

行き倒れ(餓死)

死因不明(行き倒れ?)

アオバトになったもの

ちょんまげ

切って捨てたちょんまげ

ちょんまげ

死人の髪型

その後のアオバト

元気に飛び回る

歌いながら楽しく飛び回って遊ぶ

恥じ入って静かに鳴く

不明

反省して静かに鳴く

 

 こうしてみると、子供にまねをされて怒るというところと、アオバトの素性として「和人のきこり」というキーワードが共通することとしてあげられます。そしてそれ以外の部分は話者によってそれぞれ違いがありました。

 

2. まとめ

 

 アオバトの伝承や物語にはいくつかのパターンはあるものの、和人の魂または髪の毛、ちょんまげがアオバトになったという伝承が多いことがわかりました。他の鳥についての「素性あばき」の伝承を見ても、ここまで和人との密接な結びつきがあるものは見られませんでした。それはなぜなのかという新たな疑問が出てきましたが、いまだ明確な答えを見つけることができていません。

 

おわりに

 

 2回続けてアオバトについて調べたことを紹介させていただきました。伝承者それぞれの内容で大小様々な差異があり大変面白く調べることができました。なぜこのように差が出たのかについては、伝承とはそういうものであるという他には説明のしようがないのですが、しかしだからこそ面白く、例えば黒川セツ氏の場合は和人の死因が倒木による圧死なのですが、このパターンはアオバトの悲恋譚(日本放送協会1965)の夫の死因の1つでもあり、話がどこかで繋がっているという印象を受けました。

 改めて考えてみると、沙流川の上流では材木出しが盛んに行われており、筆者の祖父母もその従事者でした。そういった祖父母の話を聞いていると、倒木による事故は珍しくないらしく、この物語の死因が行き倒れから倒木に変わったのはそういったところなのかなと考えたりもしました。

 今回掲載した物語は胆振日高管内と千歳にて収録された物語で、道東、道北での物語の記録はないか調べたのですが、見つけることができませんでした。アオバトは夏鳥で鳴き声もとても目立ちますが、道内の主な生息地と伝承分布の関係などについても今後調べてみたいと思っています。

注1:アイヌ文化教室における録音。

注2:日本語の語り。アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ「川上まつ子の伝承 鳥とアイヌ2/神謡「アオバトの素性」

注3:杣夫(そまふ)「古代から中世にかけて杣(そま)において伐採や製材に従事した者」、杣(そま)「材木を得ることを目的とする山」。

 

〈参考・引用文献〉

日本放送協会 1965 『アイヌ伝統音楽』日本放送出版協会
更科源蔵 1977 『コタン生物記Ⅲ 野鳥・水鳥・昆虫篇』法政大学出版局
稲田浩二、小澤俊夫 1989 『日本昔話通観第1巻 北海道(アイヌ民族)』 同朋舎
白沢ナベ・中川裕 1990 「10アオバトが小さくなったわけ」『平成元年度 アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズ3 オイナ(神々の物語)1』北海道文化財保護協会
西島てる・藤村久和 1990 「13出自をばらされたアオバトの神の物語」『平成元年度 アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズ3 オイナ(神々の物語)1』北海道教育委員会
白沢ナベ・大谷洋一 1995 「16アオバトの神が静かに鳴くわけ」『平成5年度 アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズⅦ オイナ(神々の物語)3』
片山龍峯 1995 『カムイユカラ』 片山言語文化研究所
中川 裕 2004 「アイヌ口承文芸テキスト集5 白沢ナベ口述 ワウォリ:アオバトが生まれたわけ」『千葉大学 ユーラシア言語文化論集7』
アイヌ民族博物館 2017 『アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ』

 

 

[バックナンバー]

サパンペ(儀礼用冠)の製作について(木幡弘文) 2017.2

《映像資料整理ノート1》川上まつ子さんのサラニプ(背負い袋)づくり 2017.6

《映像資料整理ノート2》サラニプ(背負い袋)についての新資料報告 2017.7

《映像資料整理ノート3》忘れられた野菜「アタネ」について 2017.8

《トピックス》第29回 白老ペッカムイノミ(初サケを迎える儀式)を開催 2017.9

写真資料紹介》コタンコロクル像がやってきた(1979年) 2017.10

《資料整理ノート4》アイヌ文化における「ラヨチ(虹)」について 2017.12

《資料整理ノート5》アオバトに惑わされる?(前編) 2018.1

 

本文ここまで

ページの先頭へ戻る

ここからフッターメニュー